元魔王の絶望
伝説の「プラチナ短剣」を得た魔王クレーは、実弟であるレーゼに止めの一撃を与えた。
それを見た「元魔王」セルシは、激しい憎悪から自我を失いはじめる。
そこに現れたのは、傷だらけの……?
「…………ッ!!」
目の色が、紅から黒に輝きを変える。
長く伸びた美しい銀の髪は、憎悪とともに闇色へと変色していく。
「久しぶりだね、魔王」
「消えろ!」
声、いや……短い、そして憎しみに満ちた「詠唱」は、セルシのものではなかった。若き女の、怒りの声だった。
「……どうやって、此処へ?」
一瞬、驚いた顔をしてみせる黒い短髪の男は、質問を投げかけておきながら笑みを浮かべる。そして、その方法にこだわる必要はなかったと言わんばかりに、ふわりと身体を浮かせる。ストレイの身体から引き抜いたプラチナの短剣は、血でまみれている。滴れ落ちる血を振り払ってから、落ちていた鞘を魔術で手元に引き寄せると、速やかにしまう。
此処にはもう、用はないとでも言いたいのか。男は手をかざす。嫌な予感を察知した女は、咄嗟に懇願した。
「やめて!」
悲痛な叫びは、今のこの男にとっては「歓喜」としかならなかった。
「弱者は、死に絶えるがいいよ。ばいばい、サレンディーズ」
男が姿を消すのと同時……家屋が吹き飛ぶ、大爆発が起きた。
「……っ、く、ぅ、ぁ、あぁぁぁ!!」
崩壊する家屋の中、叫びをあげたのはセルシだった。未だ、黒に染まっていく変化が止まらないセルシは、自分で身体をきつく抱きしめる。きつく、きつく抱きしめ、それを必死に食い止めようと抗う。この先に見えるものは、「悪」だと知っているから……もう、あの時代に戻りたくないと、それを拒む。
それでも、根付いた「闇」は簡単には消えてはくれないものだった。憎しみ、悲しみ、怒りは、強い感情であり、「力」である。
今、すべきことは血まみれで倒れているストレイの治癒。それをすべきなのに、思考と行動がまとまらなくなっていた。セルシは、何度も首を振り、自我を取り戻そうとするが、「魔」の囁きが消えない。十年という年月で、積み重ねてきた「善」の結晶でもあった、家屋もバラバラと崩れ去っている。
絶望とは、こういうものを示すのだと、他人事のように脳裏によぎった。
「セルシ! ダメ……セルシはもう、独りじゃない! また、あんたまで馬鹿になるの!? あたしは、いったい何人家族を失えばいいのよ!」
女は、息をしているのか確認が出来ない黒髪の少年ではなく、迷わずセルシに向かって声をかけ、華奢な身体の中へと抱き寄せた。包み込むには、セルシの身体は大きい。女の身体は、そこまでの許容範囲はなかった。それでも、構わずに女は抱き寄せ、自分の胸に相手の頬を押し付けるようにし、声を張る。
「あんたはもう、十年前の若僧じゃない! 律しなさい! 自制できないイレギュラーは、滅びるしかないって教えたのは、あんたよ!? 自ら滅びの道を、辿るとでも言うの!?」
返答のないセルシを待たず、女は続ける。
これは、「説得」という名の「精神支配」だった。
女は意図して使っているのではない。
女の本能が、「精神支配」の魔術を解き放っていた。
「滅びの道に、今更戻るっていうの!? だったら、あたしは大馬鹿ものよ! 父さんと、母さんに背を向けてまで、あんたを守ったあたしは、とんだ愚者よ! 無能もいいところだわ!」
呼吸が続く限り、女は詠唱を続ける。
セルシの脳内と精神に、「闇」が巣食う前に自らの詠唱をすべらせる為だ。
救えるのは自分だけ。
救えるとしたら、この瞬間しかないのだと、賭けていた。
「命は平等に尊いと……イレギュラーも、そうであるべきだと、あんたはあたしを受け入れた。だから、あたしもあんたを許し、受け入れた! 許しあうことで、恨みと悲しみの連鎖は切れると、あんたは証明したんでしょ!? 銀の髪は、魔術を持たない誓いの証! 紅い瞳は、イレギュラーを受け入れるという決意の証! それを、捨て去るの!?」
女の声に、セルシの身体がぴくりと震えた。これまで、悪い変化しか見せなかったセルシの改変が、止まろうとしている。それに気づかないはずがない女は、強い口調から優しい声色へと変調させる。自分自身を落ち着かせる為にも、ゆっくりと一度息を吐き、吸い込む。
女はこのとき、確信した。
「捨てないよね、セルシ。あなたは、大丈夫。あなたは、絶望を知っているから……これ以上の絶望を、新たに生むような愚かなことは、決してしないわ」
セルシは、我に返る。
「あたしは、セルシオンを信じている」
セルシオン。
元魔王……その前は、元、神だった存在。
「…………」
長い、長い沈黙の末、目を閉じていたのだと気付いたのはセルシ。開けた瞳の中には、女神のような優しい微笑みを浮かべる、女性の姿。
「ルイナ……さん」
ボロボロに傷ついて。見慣れた黒のタンクトップから見える肌は、崩れ落ちた家屋の木々がところどころ刺さっていて、血が流れている。それでも、痛みなど感じていないような、やわらかな笑みを、セルシに向けていた。
ひとは死ぬとき、このような笑みを浮かべる。
セルシは本能でそれを、知っていた。
「ルイナさん!」
紅い瞳に、ルイナをしっかりと捉えたセルシの目の前で、ルイナは意識を失い崩れ落ちた。完全に脱力している。自我がはっきりして、視界もクリアになったセルシの目に飛び込んできた現実は、悲しいほど冷たいものだった。ルイナの右足は、自然ではあり得ない方向に曲がっている。手の指も、何本も折れていた。脇腹辺りには、木材が刺さっている。
この場所に戻るまでに、ルイナは魔王と対決し続けていた。その際に負った傷も、深いのだろう。自分の身体をなげうってでも、這い戻って来たルイナを、このままでは見殺しにすることになる。
「ストレイ…………レーゼさん!」
それだけではなかった。横たわる身体はまだ、ある。それこそ血まみれで、もう、息をしていないかもしれない。いや、その可能性の方が高い。内臓を串刺しにされ、失血し、吐血した少年の身体からは、生気がまるで感じられない。
「どうしたら……いいんですか、僕は…………僕は、無力だ」
無力。
元魔王で、元神であっても、今は力の無い「人間」でもなく、ただの「生命体」のセルシには、「力」を持つイレギュラーたちのような「治癒能力」がなかった。何の術も使えないセルシには、それこそ「絶望」するしかなかった。
「無力で、無能ですよ……守りたいものを、守りたかったものを、傷つけるしか出来ない、愚か者です」
「それなら、今から変わればえぇんとちゃうん?」
「!?」
嘆きに、応えが返って来るとは、思いもしていなかったセルシは、驚きの眼差しで声がした背後を振り返った。
「あなたは…………」
そこには、初対面であるはずの青年が立っている。しかし、不思議と「初めて」という感覚がしなかった。
流れるような緑の髪に、黄金の瞳。その青年の正体を、セルシは知っていた。




