リズラルドの異変
レーゼには隠し事がある。
それが明白であるにも関わらず、姉である魔女にクレーは従おうとはしない。
そんな中で、リズーに異変が起き……?
「よこしなさい」
「はぁ?」
ルイナは、クレーに向けて右手を広げて突き出した。一瞬、魔術が放たれるのではないかと身構えてしまうほど、ルイナは緊迫した空気を持っていた。レーゼは咄嗟に防壁を紡ぐ魔術の構成を作ったことを自覚してから、実際には魔術の詠唱ではなかったと知り、すぐにそれを離散させた。下手に姉を刺激しない方が、得策だということは分かっている。
素っ頓狂な声を上げたのは、クレーであった。真剣で切れ味抜群な眼差しを向けられているにも関わらず、クレーは相変わらずとぼけてみせている。本当に検討がつかないのか、姉の強制をまるで可笑しな光景とでも言わんばかりに、言葉を続ける。
「なーに言ってんのかねぇ、姉さん。俗世間から離れすぎて、頭イカれちゃった?」
(何を言っているんですか……クレー)
言葉には出せなかった。それほどまで、空気が緊迫したからである。レーゼが口を挟める余地が、少しもないことを自覚した。
「ふざけんじゃないわよ! あんた、弟を何だと思ってんの!? あんたの部下? 奴隷? 都合のいい人形?」
「さぁ?」
レーゼは、この抗争を止めたかった。自分の胸が締め付けられる感覚に陥る。実際に受けている精神的ダメージは、そんな優しいものでもない。
「姉さん。私は、望んでこの身体を得たんです。だから、クレーを責めるのは、間違っています」
「あんた……」
ルイナは唇を噛みしめた。レーゼが、クレーを擁護したことが理由ではないだろう。ルイナは昔から、道理や倫理から外れたことを、毛嫌いする傾向があった。
「魔女」と呼ばれる割に、実は「人間」らしい側面を誰よりも持っているのではないかと思えるほど、純粋だった。
「いいわ。自分で返還しないのなら、あたしが力でねじ伏せる」
「……」
その言葉を聞いて、レーゼは背筋が凍る思いをした。冷たい汗がツツ……と、首筋を流れていくのを自覚する。この、現在「最強」とも呼べる魔術士を前に、ただの魔術士であるレーゼが、勝てるはずがなかった。
「レーゼはレーゼで、必要なんだよ。銀の情報は、僕では手に入れられない」
クレーは、もっともらしい言い訳をしてみせた。しかし、この返答には欠点がある。それは、ひとつではない。クレーらしくなく、「幾つ」もの欠点があった。
「余裕、ないんじゃない? あんたらしくない」
魔女は適格に追及した。
「銀の情報がそんなにも欲しいのなら、あんたが銀に上がればいい。ブロンズ情報にはガセネタが多いことくらい、気づいているでしょ? それとも、ガセネタをも必要とする意味があるの? だったら、あのチビすけを使えば?」
「リズーのこと?」
クレーは細い目をさらに細めると、道化師のように笑みを浮かべて言葉を続ける。
「リズーはまだ十歳。魔術の統制を受けられる年齢でもなければ、魔術の覚醒すらしていない。無理な話だよー」
「魔術の覚醒を引きこせばいいわけ? 年齢を誤魔化すことは、あんたの得意分野でしょ?」
魔女は皮肉げに、口元を歪めて言い放った。
「魔術の覚醒を引き起こす? そんな不可能なことを口走るなんて、姉さんも焼きが回った?」
「年齢詐称には提言しないのね」
ふたりの口論は続く。この姉兄の論争内容は、まったくのよそ者が聞いたら、なんて馬鹿げた話をしているのだろうかと、呆れるところだ。しかし、当事者のひとりとなるレーゼにとっては、耳が痛いほど、聞きたくない情報のやり取りだった。特に、年齢詐称に関しては、これ以上の論戦は避けたいと願うのが本心だ。
「揚げ足取りの名人にでも、なったつもり?」
「あんたにそのセリフは譲って……」
急に、ルイナの歯切れが悪くなった。言葉を止め、ある方向を見て目を細める。それに習ってか、クレーも同じ方向に目を向けた。その先には、クレーとリズーの寝室がある。
「……」
押し黙るふたり。この沈黙が、何を意味しているのかなんて、分からない。ただ、動悸がする。嫌な汗がにじみ出ている。
「リズラルド」
レーゼは、室内で眠っているはずのリズーのもとへ足を向かわせた。それをふたりとも、止めようとはしない。まるで、何かに怯えているかのような印象さえ、うかがわせた。
「リズラルド? 起きてしまったのですか?」
「……」
身体の小さな少年は、ベッドの下でうずくまっている。これは、ただ事ではないと感じ取ったレーゼは、すぐさま自らもしゃがみこみ、リズーに視線を合わせる。
「リズラルド、どうしたのですか! 身体が痛むのですか? リズラルド!」
「……」
一瞬、口をわずかにだが開いたような気がした。それを見て、まだリズラルドは生きている、息をしていると安堵したのだが、それは間違った解釈であるということを、知ら締められるということになった。
「リ……」
「……」
それは、超音波のようで、「音」というよりは「波」であった。それが、リズーの口から発せられている。長く、長く続くその「波」は、肉声ではないように思える。物理的な声ではないのに、空気を振動させ「声」と認識させる。不思議なもの。
ただし、居心地が悪いという表現では済まないほど、それは脳を揺さぶり、鼓膜を揺らし、身体中を引き裂く感じだった。
「リズ、ラルド……どう、したの、ですか!」
言葉を短く切るしかない。空気を長く吸ったり吐いたり出来ないのだ。
「覚醒」
「!?」
背後から、声がした。その声は、どこから出しているのか。いつもの兄らしいとぼけた声ではなかった。
「リズーはレーゼが起こすことによって、いつだって起きていた」
「な、何を……」
クレーが何を意味した言葉を発しているのか、理解できない。
「覚醒は、唐突にやってくるんだね」
「兄、さん……?」
クレーは、レーゼに……いや、正確に言えば「リズー」にむかって、手のひらを向けていた。そこには、強靭な破壊魔術の構成が浮かんでいる。
「正気ですか!?」
リズーを攻撃するつもりなのだと察した私は、本能的に魔術から身を守るための防御魔術の構成を編んだ。しかし、規模が違う。
(クレーの魔術に、これほどまでの精度があったでしょうか……)
強大なその構成を前に、レーゼは違和感を覚えた。姉は? ルイナと喧嘩していたはず。今、姉は何をやっているのだろうかという、少し見当違いのようにも思える問いかけも、頭に浮かんだ。
「真に覚醒する前に…………滅びよ」
「……」
リズーが、笑ったように見えた。その笑みは、子どもっぽさのある無邪気な笑みなどには、程遠いものだった。
目を閉じていたリズーが目を開く。
黒かったはずのリズーの瞳は、黄金色となっていた。
「リズラルド……?」
脱皮。
そう、その言葉が浮かんだ。




