レーゼの隠し事
風呂場から出て来た魔女、ルイナ。
そこで待っていたのは弟、レーゼ。
レーゼはなにやら、ルイナに隠し事があるようで……?
「あら?」
音もなく、居間に再び姿を現した姉。第一声は、機嫌がよさそうだった。風呂で汗を流せたからなのか。風呂から出てもなお、話し相手が居間に存在していることを喜んだのか。どちらかの判断はつかないし、その両方だったかもしれない。レーゼはこの姉の機嫌を損ねないようにと、笑顔を取り繕った。もっとも、この魔女は敏感すぎる。これくらいの装いならば、簡単に見破ってしまう。
「レーゼ。不服そうね?」
「いえ、別に。そんなことはありませんよ」
やはり見破られたかと、レーゼは胸中で呟いた。そして、水を飲む手を止めていた。ガラス製のグラスに注がれていた水はもう、ほとんど無い。
「あたしね。心配してんのよ」
「?」
ルイナは唐突にそう切り出した。何のことか、すぐには思い当たらなかったレーゼは間をあける。しかし、ルイナの視線が自分の手元。要するに、グラスに向かっていることに気付くと、姉が何故、こんなにも神妙な面持ちでいるのかを、察することが出来た。
「姉さん。知っていたんですか?」
「あたしを誰だと思ってんのよ」
「魔女、ですよね」
「姉よ」
魔女は、レーゼにとっては意外なところを訂正してきた。それを聞いて、レーゼは多少なりとも後ろめたさを感じた。右手でグラスを持っている。左手の中は、「今」は空。ただ、先ほどまで握っていたものがあり、粉っぽい。
「見せなさい」
「何をですか?」
ルイナも、レーゼも、分かっている。お互いが望んでいるもの、望んでいないものを。そのため、平行線を辿る。
「死ぬわよ?」
「…………」
ルイナのその言葉には、重みがあった。「魔女」としての威厳なのだろうか。それとも、「姉」としての忠告なのか。レーゼは肩をすくめて目を伏せた。木製のテーブルが視界に映る。でこぼことした、茶色のテーブル。
「武官になったということは、噂話程度で聞いていたわ。魔女の弟が、武官になったとね。はじめは、クレーのことを意味しているんだと思ったわ」
「間違いではないでしょう? クレーは、確かに私より先に武官になったのですから」
レーゼは、少しでも反論しようと。出来ることならこの話題を変えようと、試みた。しかし、姉には口論でも叶いそうにない。滴れる水を、タオルでふき取りながら、姉は言葉を続けてくる。
「順番を聞いているんじゃないの。あんたは、バカじゃないんだから。それくらい、分かってるわよね?」
「……えぇ」
姉が追及していることは、レーゼの武官歴に問題があるということだった。
十五から魔術の統制を受ける。つまりは、その年齢から武官になれるということを意味している。兄であるクレーも、レーゼ自身も、十五になった年に試験を受けて武官となった。現在、二十三であるクレーは、武官歴八年。二十一であるレーゼは、武官歴は六年という単純計算がそこには浮かぶ訳だが、ルイナはそれを認めなかった。
「レーゼ。クレーを信じるのはやめなさい」
ぴしゃりと言ってみせた。まるで、「弟」を敵だとでも決めつけているような言いぐさだった。そのことを、レーゼは面白いとは思えなかった。
「クレーは、馬鹿じゃないですよ」
「あの子は危険因子よ。リズーってチビすけ。あれも、イレギュラーかもしれないわ」
「イレギュラー……」
単語をただ繰り返す。
クレーは、確かに優れた魔術士だった。そのクレーがいつか、人類の脅威となる日が来るのか……と、考えたとき。それは、どうだろう。クレーはそこまで野心家であるとは思えない。だからといって、クレーの考えていることを、読み取ることが出来ないこともまた、事実である。
リズーに関しては、何とも言いようがない。リズーは、すでにイレギュラーであるとさえ、感じる。
「天士の歌声って、言ったでしょ? 覚えてる?」
「えぇ。覚えています」
つい、数時間前のルイナの言葉である。
「天士」
その存在は、伝説であり、ただの言い伝えだと思われているもの。
「天界の武士」を略して、ヘルリオットの民は、「天士」と呼ぶ。
「天士がそもそも、存在しているのか分からないのに、歌声とはまた。何を意味しているのですか?」
レーゼは、率直に話を聞いてみることにした。話がやや長くなりそうだと感じた為、姉に椅子に座るよう促し、背もたれを引く。座ろうとしたタイミングを見て、椅子をまた元の位置に戻す。それから、クレーのまずいコーヒーではなく、レーゼが好んで飲むハーブティーを、姉にも注いだ。小奇麗なティーカップを目にして、興味ありげに姉はくるりと絵柄を確認してから、取っ手を持ち、それを口にする。ハーブティー独特のにおいと味に、若干眉を寄せるが、案外はまったようで、何度か口にしていた。
それを確認してから、自分の分も注ぐレーゼは、自分の定位置に腰かけると、姉の答えを待った。
「天士の姿を見たものは居ない。そうよね?」
「そうですね。そう、王都では習いましたけど」
「正しくは、見たものは生き残れない。そういうことを意味してんのよ」
「……つまり」
レーゼは、この物騒な問いかけに簡単に答えを見出した。
「天士は、殺戮を繰り返している……と?」
「えぇ」
ルイナは短く答えた。眉を寄せ、神妙な面持ちをしている。
「魔王が復活するかもしれない。今、そんな噂が流れているわね」
「そのようです。役所でも、最近その噂で持ちっきりですよ」
そのために、クレーが今日は残業して帰ってきたことを思い出していた。それから、ついでに今日の我が家の外壁に貼り付けられていた、文書。
魔王に喰われろ。
なんだか、遠い昔の記憶のように思われるが、たった数時間前の出来事に過ぎないと、しみじみする。
十年前の魔王退治。それに、レーゼは加わってはいない。すでにこの世に生まれていた為、魔王の力をまったく知らない訳ではないが、実際に対峙しあった姉と兄と比べたら、情報量は少ないと、認めざるを得ない。ただし、魔王という存在が実は「魔術士」の超越した姿であるということは、クレーからの報告で聞いていたし、「封印」という言葉の本当の意味も、レーゼには伝えられていた。
今現在も、その「魔王」は生きている。
その、事実を知っている。
そのことは、魔女であるルイナ、共に討伐に向かったクレー。
そして、その弟であるレーゼの三人だけの中の秘密である。
つまりは、魔王を匿っているのだ。
「でも、魔王はもう、力を持ってはいないのでしょう?」
あくまでも、レーゼはそれを確かめてはいない。姉兄から聞いた情報に過ぎない。
「そうよ。あのときの魔王ちゃん。名前は、セルシオン。あたしはセルシって呼んでんだけど。セルシはもう、魔力を全く持たない存在よ」
「魔術士じゃないってことですか?」
「そういうこと。ただ……」
珍しく、姉の歯切れが悪くなった。レーゼも、そこには疑問を浮かべるところがあった為、気にはならない。
「ただ、魔術士でなくなるなんてこと。普通はありえないのよ」
「そうですよね。魔力を失うなんて話。前例がありません」
魔術士の特権、魔術士であるための素質。それが「魔力」であるのだが、それは遺伝的なものでもあり、染色体の中に含まれるDNAの情報であった。それが消えるなんていうことは、ありえない。しかし、その不可能を姉はやってのけてしまったことになる。
「どうやって、魔王の魔力を封印したんですか?」
「あたしの力量って奴よ」
大雑把すぎる返答に、レーゼは言葉を止めた。姉は、気にせずハーブティーを口に流し込む。
「その辺をね、説明すると長くなるの。だから、はしょるわ」
「はぁ」
間の抜けた返事しか、口に出来なかった。それを姉は、満足そうに見つめた。
「今のセルシは、もう魔王じゃない。魔術士じゃない。だけど、人間でもないの」
「……?」
ますます、分からなくなってきた。それに、何故この話をクレーの前ではせず、レーゼに言って来るのか。そこも、理解しがたい。こういった話を簡単に読み解くのは、クレーの方であった。クレーは、無能を装いながらも、実際はかなりの知識と決断力を持つ、優秀すぎる魔術士だった。
「分からないのよね、そこも。魔力を持たない魔術士。それなら、人間って定義が当てはまりそうなんだけど、セルシはやっぱり、人間とは呼べないの」
「どうしてです?」
「会えば分かるわ」
「会えるんですか?」
当然の問いだとは思ったが、ルイナは首を横に振る。
「ダメ。あんたも、イレギュラーの可能性があるから」
「私が?」
「結局のところ。魔王の覚醒の仕組みは解明されていない。ただ、イレギュラーがそれを引き起こす鍵になっていると考えるのは、普通の見解よ」
「それには同感ですが……私は、イレギュラーと呼べるほどの力は、ありませんよ」
謙遜ではない。レーゼは、銀の称号を得ている魔術武官だとはいっても、金の武官と戦ってみたら、十本勝負のうち、八本くらいは決めてしまいそうだが、取りこぼしもしてしまいそうな力量だった。
方や兄であるクレーは、ブロンズで甘んじているが、十本勝負を同様に挑んだら、間違いなく一本も相手に与えることなく、金の武官を倒すことだろう。それだけ、この兄弟の力は実はハッキリと差があった。幼く、魔術士ではないリズーにとっては、同じだけの力のように映って見えているし、他の魔術士たちから見ても、大差ないように思わせているのは、クレーの力量のひとつとも取れる。
「あんたの場合。存在がもう、イレギュラーでしょ?」
「……っ」
びくっと、身体が痙攣するのを自覚した。関節が同時に、軋むのを感じる。
(この話題は、避けなければ……)
その思いも虚しく、姉は容赦なく言葉を続ける。
「二十一? あんたが?」
「……問題、ありますか」
自分でも、バカげたことを言っていると自覚する。それでも、こう答える他に道はないとも、分かっていた。
「あたしの記憶違いって、言いたいわけ?」
「……」
「十年前のあんたは、確かに魔王ちゃんの討伐には来なかった。それは事実よ」
「やめて下さい」
レーゼは口の中で、何か苦いものを噛みしめるように、その言葉を紡ぎだす。苦痛に歪む弟の顔を見て、姉であるルイナは責め立てるのを躊躇った。
(悪いのは、この子じゃない)
ルイナの中では、結論が出た。
「話を戻すわ。どこに戻そうかしら」
レーゼにとっては、この話題を変えてもらえるのならば、どこだってよかった。自分を落ち着かせようと、ハーブティーを再び口に含む。その、ティーカップを支える手が、若干ながら震えていることを、自覚した。寒い訳ではない。動揺しているのだ、とも。




