魔女となった姉
十年行方をくらましていた魔術士兄弟の姉、ルイナ。
現在、「魔女」と呼ばれる魔術士は、久しぶりの帰省に気が緩む。
風呂に入り、上機嫌となるが……?
「ひっさしぶりね。お風呂なんて、贅沢。出来なかったから」
魔女、ルイナはご機嫌だった。この数ヶ月、砂埃の舞う荒地をたったひとりで旅していた為、髪は汗で粘つき、さらには、そのせいで外ハネの癖がある後ろ髪には砂が混じりこんでいた。それが気になって、必要以上にルイナは髪を弄りながら話をしていたという面があった。
「魔王ちゃんの家にも、いい加減、風呂くらい創ろうかしら」
ルイナは、この上ないほど浮かれていた。「魔女」と言われる齢二十五の女。そう、所詮は「女」である。一人前に日焼けは気にするし、女として髪の手入れもできる限りしている。前髪は、目が隠れると戦いにおいて不利に働くと思い、伸びたら自分で切るようにしているのだが、雑には切らない。鏡があれば、そこで慎重に切る。なければ、魔術で反射材を作って、そこに顔を映してセットするほどの徹底ぶり。
ルイナは、自分が不用心に言葉を発していることにも、気づいてはいなかった。ここまで気を許すのは、此処が、自分が育った生家ではないにしても、自分と同じ血を持つ弟たちが住む家ということは、要因のひとつであろう。単に、「無能」と罵りながらも、武官を相手にしながらの旅路を経て、疲れているということもある。
とにかく今、ルイナは安らぎを得ていた。
「ふんふんふ~ん♪」
湯船から身体を出すと、洗い場でまずは髪を洗う。自分のものではないシャンプーを、たっぷりと手の中に出すと、泡立ててから髪に馴染ませる。何気ない作業に、喜びを覚えるのは、それだけ久しぶりの風呂ということを意味している。一回目のシャンプーでは、あまり泡立たなかった。それでも、不機嫌にはならない。二度目のシャンプーを施せば済むことだからだ。ルイナは、遠慮なく弟たちの使うシャンプーを手のひらに再びつけると、髪をわしゃわしゃと撫でるように洗った。二度目の洗髪は、見事に泡立ち、桶で湯をすくってそれを流すと、砂埃も取れた、綺麗な黒髪がもとに戻った。その姿を鏡で確認すると、満足げな笑みを浮かべる。より、機嫌はよくなる。
「綺麗にな~れ、綺麗なからだ♪」
どこまでも調子がよくなる自身を、自制出来ていないことには気づいていない。ルイナがここまで気を許すことは、もう何年もなかったことだ。
十年前。魔王討伐を買って出てから、戦いの人生だと決め込み、自らを律してきたルイナは、「無能」と馬鹿にしてみても、実のところでは信頼している「有能」な弟ふたりがいるこの家を、「安全」だと判断していた。何かあれば、弟たちが対処するだろうと、そこまで楽観視していた。
ルイナの信じるものは、この魔術社会において、実に少ない。自分自身の力も、信じてはいない。「絶対」というものは、あり得ないと考えている。しかし、「家族」の「絆」というものは、割と信じる意外な面を持っていた。
身体を優しく擦る。ヘチマを乾燥させたもので、今は繊維だけとなっている。筋肉質という訳でもないルイナの色白の腕は、きめ細かい肌質で、つるりとしている。そのため、ヘチマで強く擦ると、肌が赤くなるのだ。それでも、ゴシゴシとしたくなるほど、汚れているような感覚もあった。それをしないでいるのは、ルイナの「女らしさ」を象徴しているようにも思える。
「ん?」
ルイナは、身体をこする手を止めて、視線を外が見える窓に向けた。誰かが覗いている。そんな感覚。ただ、それも慣れた感覚のひとつであった。相手がたとえば、そこに「実体」のある人間だったならば、すぐさまお得意の破壊魔術を放っていたはず。そうしなかったということは、それが「実体」ではないということを意味していた。
「魔王ちゃんね? 心配要らないわ。そんな心配しないで。まだ、何も起きてないから」
ルイナは、緩んでいた気を引き締めた。
「そう。まだ、起きていないのよ……何も」
繰り返す。ルイナは、裸姿でいる今の自分を見て、自嘲的な笑いを浮かべた。
「馬鹿ね。弟に気を許すなんて…………の、可能性があるのに」
肝心なところが聞き取れないほど、小さな声で囁く。誰にも、まだ聞かれたくはない。ルイナと「魔王」の秘密である。
「さっさと出なくちゃね。あたしにはもう、ゆとりなんてないんだから」
今度は、ハッキリとした声で呟く。あくまでも、独り言。ルイナは自分に言い聞かせるように、そう、吐き捨てた。
※
「ん……」
こくり、こくりと小さな頭が上下しているのを、クレーは静かに見守っていた。順番では、レーゼの一番風呂の後にはリズーが入り、そして最後には自分が入る予定であった。しかしもう、時間も時間。そして、女というものが長風呂の性質を持っていて、湯もやたら使うということは、経験で知っていた。ルイナが風呂へ行ってしまったのを見送ったときにはもう、今夜は風呂は諦めようと、決めていた。
「クレー。リズーを寝かせたらどうですか?」
「……」
クレーは黙っている。視線だけ、弟レーゼに送って、再びコーヒーをすすろうとする……が、すでにカップの中が空だということに気づいて、それをやめる。クレーはただ、意識を集中させているだけである。ルイナの鼻歌と、それに混じって聞こえた呟きを、聞き取る為だ。そこに、意味があるのかどうかは、今のところは分からない。ただ、それをすることによって意味があるかもしれないという可能性があるのならば、しない訳にもいかなかった。
「……クレー?」
レーゼは姉の鼻歌に、気づいていないのか。もしくは、特別な意味を見出さずに流しているのか。目の前に居る少年、リズーの方に重点を置いて、言葉を発している。
(終わったかな?)
クレーは、聞き耳を立てるのをやめた。やけに静かになった風呂場に、一度だけ視線を送る。そして、すぐにまた目の前の小さな頭、リズーへと戻す。あまりにも、意識をルイナに集中させることには、危険が伴うと察し、馬鹿なことはしない構えだ。
「さーって、と。寝るかねぇ」
「えっ?」
これまで、言葉を発しなかったクレーが唐突に声と同時に立ち上がるのを見て、レーゼは男にしては大きめな瞳を、まるくした。長い黒髪に、この容貌。ルイナよりも女に見えると思えてしまう。本人がそれを気にしていることを知っている為、触れはしない。ただ、心の中で思う。
ただ、ルイナの姿には正直驚いていた。最後に見たのは、十年前。髪の毛は、今と同じようにボブくらいの長さで外ハネ。これは、天然ものだから変化させようがない。瞳は、子どもだったこともあって、今より大きかったが、十年ぶりに見た姉の姿は、過去の姉らしさがあまり、なかったのだ。
「魔女」と言われるようになったのは、「魔王」を倒したという事実を得てからである。そのため、旅をしていた当時は、姉は「魔女」ではなく、ただの「魔術士」だった。魔力も高く、術レベルも高い、女の魔術士。それだけであった。少年のような身体付きで、背丈は低めで、胸も無い。しかし今の姉は、背丈も伸びて胸もそれなりにある。整った唇に、猫っぽい瞳。「魔女」なんていう異名を持たなければ、きっと、異性は放ってはおかなかっただろうと、弟ながらに思えるほど、ルイナは美しかった。
(あの姉さんが、女になるとはねぇ)
口調の荒々しさ、圧倒的な魔術の精度。そういう根本は変わっていない。けれども、外見が子どもから「女性」へと変わっていることに、クレーは本当に驚いていた。
(まぁ、変わったといえば、レーゼが一番だけど)
それは、決して口には出せない言葉だった。ただ、憐れむような眼でレーゼを見下ろしていた。その視線を「不自然」と思ったレーゼは、当然口を開く。
「何ですか、クレー。言いたいことがあるのなら、言ってください」
「……」
一瞬。いや、実際にはもっと長い時間だったかもしれない。クレーは、沈黙した。
「……なーんでもないよ」
あからさまに「嘘」だと言わんばかりに、しらを切ったクレーは、リズーの身体をゆさゆさと手で揺さぶった。すると、目を擦りながらリズーが頭を上げる。そのぼやけた視界にクレーの姿を捉えると、安心したのか、再び目を閉じる。
「ほらほら、お布団いこーねぇ」
「クレー!」
当然納得のいかないレーゼは、答えを求めた。しかし、それに乗るつもりがないクレーは、リズーを抱き上げて寝室へと向かってしまう。こうなっては、自分ではどうにも出来ないことを悟るしかないレーゼは、嫌味たっぷりに溜息を吐いてみせた。しかし、そのちょっとした抵抗も、クレーにはあっさりかわされるだけであった。
ルイナが風呂から上がる前に、寝室へと姿を消したかったのだろう。レーゼはそう、解釈した。風呂から上がって、居間に誰も居なかったら。姉はおそらく、面白くないと考えるはずだと思考を巡らせる。再び嘆息すると、レーゼは居残り組を買って出るしかないと覚悟を決めて、そのまま椅子に腰を掛け、水を飲んでいた。




