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およそ五年前の今日、この物語の原型がスタートした。
俺は眼を覚ます。身体を引っ張る重力に生きている実感を感じる。白い天井にオレンジの光が跳ね返っていた。
はて、俺は何をしていたのだろうか。最後に覚えているのは4時間目の体育だ。たしか体力測定だったか?
「あれ? また先生いないんだ。いついるのよ……」
声がしたので身体を起こす。どうやら保健室のベッドだったらしい。私立高校だというのにベッドのマットレスは慣らされて硬くなり、そんなベッドを囲むカーテンは端が破れている。
俺はカーテンを開けて外を見る。服装は体育をしていた時に着ていた、指定のジャージだ。紺色で前開き、まぁ普通のやつだ。
「あ、遊人、やっと起きた寝坊助」
保健室にいたのは一人の女子。声からして誰なのか分かるが、眼鏡が無いとボヤけてしまう。俺は眼鏡を探した。
「夏恋か?……それより眼鏡、メガネ……」
「眼鏡キャラ伝統のネタやってないで。眼鏡なら枕元よ」
俺は起き上がり、枕元にあるという眼鏡を探す。手元くらいなら見えるから、眼鏡探しは苦労しない。本当に枕元のすぐ隣にあった。寝相が悪かったら眼鏡はお釈迦だこのヤロー。
ともかく眼鏡を掛けて保健室にいる人物を見る。この眼鏡さえあれば遠くもハッキリ見えるのだ。
背中まで伸ばした黒髪は枝毛の一つもないのか夕日を浴びて艶やか。制服のブレザーは厚手かつ大きめの物を着ているだろうにそこからでもスタイルの良さが分かる美少女だ。
「……しかしなんだってこんなとこに?」
こいつは教室で隣の席の上杉夏恋。高校生になって初っ端こんな可愛い子と隣の席なんて俺はツイてる。
「ほら、あんた4時間目の体力測定で倒れたでしょ? そこから5、6時間目で係決まったから。私が保健委員」
「さいでっか」
そうか。俺は体力測定で50メートル走をしたらぶっ倒れてここに運ばれたのか。一番最初の測定じゃなかったか? 後にも結構ボール投げとか控えてた気がするぞ。
相変わらずの虚弱体質だな。まったく。
俺は体質であることを思い出し、反射的に枕を見る。枕には数本の白い毛髪が落ちている。無論、俺の抜け毛だ。
「ふぅ、薬飲まなくなってからだいぶ抜け毛減ったな……」
とりあえず一安心。抜け毛が白いのは若白髪でもなんでもなくアルビノ故に、だ。人によって結構違うらしいが、俺はどうにも病弱スキルも同時取得してやがるからな。
「なんだかわからないけど減ったんならよかったよかった」
夏恋もそれなりに祝ってくれる。こいつ口は悪いけど俺が本気で気にしているアルビノとか揶揄しないからな。口の割にいい奴だよ。
「荷物持って来たから。随分と軽いのね、これ」
夏恋は俺のカバンを持っていた。多くの生徒が肩掛けのカバンを使う中、俺はリュックを使っている。何せ、肩にかけるより背負った方が体への負担が少ないからな。
オマケに置き用具上等だ。なるべく軽くして置かないと通学でへばる。
「あ、そうだ。弁当。痛んでねぇといいが」
俺は愛用のリュックを見て、弁当のことを思い出す。着替えるより先に、リュックを開けて弁当箱を取り出す。バンダナで包んだ、男子高校生のそれにしては小さい一段の弁当箱だ。
「ん? 軽い?」
弁当箱を持つと、何だか朝の記憶よりも軽い。なんかコロコロ音がするし。とりあえず開けて見ると、何と中身がもぬけの殻。代わりに小包装の飴玉が入っている。
「んなっ!」
想像だにしない光景に、俺は思わず絶句した。まさか寝てる間に弁当を食われているとは。
「いやー、私は止めたんだけどね。あんたいっつも冷食インしただけに見えない美味しそうな弁当作るからさ、他の女子が」
夏恋は俺から目を逸らしながら経緯を説明した。いや、気になるのはそこじゃない。そこも気になるけど一番気にしている所は他にある。
「で? 味は?」
「え? 味?」
夏恋は意外そうに聞く。まぁそうだろうな。人の弁当勝手に食べて責められるでもなく味を聞かれるんだからな。
「いや、だってどうせ俺しか食わんと思ってかなりやっつけ仕事だったし。人に食わす前提ならもっと飾り切りとか入れるんだがな」
「えー? 本当に? やっつけ仕事であれなの?」
「で、味は?」
ともかく味の感想が俺は聞きたいんだ。
「美味しかったよ、特にシュウマイが。刻んであるタケノコが食感のアクセントになってさー」
夏恋は止めたと言う割に、さも食べたかの様に味を語る。シュウマイの中に刻んだタケノコを入れたなんて食べないとわからんだろ。
「お前食べただろ。少なくともシュウマイを」
「げ……」
「それ夕飯の残りだから作りたてよりは味落ちてそうだが、美味いんならよかった」
バレてしまった夏恋はそのまま開き直って話を進める。俺の反応が全く予想から外れていたのもあるのだろう。
「味って、夕飯の残りをお弁当に入れるのは結構スタンダードじゃない? ていうかアレ手作り? 似た様な美味しい冷凍シュウマイ食べたことあるけど」
「刻んだタケノコはそこからアイデア盗んだしな。味付けを薄めにはしてある。それがネックでな、料理の味ってのは作りたてで温かい時は薄味でも美味しいが、冷めると極端に味がしなくなる。だからお弁当向けの冷食って味を濃いめにしてあるんだ。夕飯用だから温かいの出す前提で味付けしたわけだし、冷めてると微妙な気がしてな」
夏恋は首を傾げて考え込む。どうやら俺のこだわりはお分かりいただけない様だ。それでも美味しいならいいんだけど。
「えー? 美味しいよ?」
「ま、それでいい。世の中には美食家だとかいって特定のモンでなきゃ美味しくいただけない人種がいるがな、どんなものでも美味しいと感じる舌は正確無比な味覚より宝物だ」
夏恋は俺の意見を聞き、少し難しい顔をする。
「料理とゲームが好きって自己紹介の時聞いたけど、何だか女の子の料理好きとは別種なのね、男の料理好きって。何だかオタク臭い」
「そこは否定出来んな」
彼女の発言は料理男子について非常に適切な感想であった。男で料理する奴ってのはどこか面倒なこだわりがあるもんだ。ゲームへのこだわりと対して変わらん。
「あ、ゲームといえば話したいことがあるんだった。さっさと着替えちゃいなさいな」
唐突に夏恋は話を切り替える。ゲーム? 料理よりゲームについてか? 夏恋は自炊しなさそうだけど、だからこそ料理について聞きたいこともあるだろうと思ったが。
「ゲームだと? どっかのボスで詰んでんの?」
「軽く言えば布教ね。ほら、女子じゃないんだから準備で待たせない。帰り掛けに話すから」
素直じゃない『いっしょに帰ろ?』なのかそうじゃないのか。甘酸っぱいけど柑橘系じゃなくてポン酢のそれみたいな誘われ方だ。
俺は兎にも角にも、直ぐに制服へ着替えることにした。
@
この四月、俺は晴れて高校生となった。所謂普通じゃない俺は、ここまでそこそこ苦労はしたものだ。俺はアルビノとかいうやつらしく、髪や肌が白くて瞳が青い。人とあからさまに違いすぎる。
そんな俺を今年から受け入れたクラスは、思いのほか友好的だった。
入学から僅か数日、俺達はオリエンテーション合宿という最初の大規模イベントを控えていた。
「へ? 遊人、あのゲームやってないの?」
新しい毎日の、新しい締めくくりたる夕暮れ時、愛知県内を流れる矢作川の堤防でクラスメイトの上杉夏恋が意外そうな声を上げた。
俺と夏恋はここを歩いて帰る途中だった。今日は突然、夏恋が誘ってきたので乗ったまでだ。
夕方とはいえ、春先は日が長い。俺はブレザーの上着の下にパーカーを着て、フードで顔を隠していた。春の夕日ですら比喩でなく痛い。手袋も外せやしない。さすがにグラサンは付けないが、愛用のメガネはUVカット。
アルビノというのは紫外線に弱いが、個人差があるらしい。これに日焼け止めまでしている俺は、日差しに特別弱い方なのだ。人体なんて個人差ありきだからいちいち言うことでもないが、意外と分からん奴がいるもんだ。
「やってないもなにも、俺はパソゲー自体するけどオンラインゲームしないぞ。やるつったらブラウザゲームだな。ソシャゲもそうだけど自分のペースで出来ないのは嫌なんだ」
俺は夏恋に対して答えてやる。趣味の話だし、ある程度自分の立ち位置を明らかにした方が、その後の展開がスムーズだ。
何の腐れ縁か、名簿も近くない女子とお近づきになれたのは俺の体質のせいだ。日差しを避けるため廊下側の席にならざるを得ない俺は、名簿を無視して夏恋の近くに座ることとなった。
この時間帯となると、帰宅部連中が堤防を通って帰る様子がよく見える。この堤防は俺達が通う私立長篠高校の通学路になっている。俺は帰宅部ではないが、今日はゲームを攻略するために帰る。部活の雰囲気も結構フリーダムだし。
「やってると思ったのに、この廃人ゲーマーは」
「人をなんだと思ってる。でもやってはみたいと思うがな」
夏恋は毒のある言葉を吐き出す。客観的に見て、夏恋は普通に可愛いが、この点でかなり残念である。マゾでもなきゃ喜ばん要素だ。
本人は悪口のつもりだろうが、廃人ゲーマーは褒め言葉として受け取らせてもらおう。アルビノ弄り以外はどんと来い。
夏恋は布教のためか、さらに畳み掛ける。
「せっかくだからやってみなよ。このゲーム、基本無料だし」
「そこなんだよ。そこが怪しくてな」
だが基本無料という怪しさの隠し味を、俺は見逃さなかった。だってそれって欲しいキャラ手に入れるのにゲーム機本体買えるほど金出すパターンじゃん。そんでレアキャラいないとストーリーもろくに進めない奴じゃん。
そういう諸々の不安があって、やってみたい欲と怪しさの間で揺れ動いている最中なんだ、俺。
夏恋は長い黒髪をなびかせ、赤いカバーがされたスマホの画面を見せ付けた。赤って明らかな毒キノコカラー。猛毒キノコのカエンタケみたい。
「『ドラゴンプラネットオンライン』、フルダイブってゲーマーの夢なんでしょ?」
「夢だけどさ……」
俺は夏恋が自慢げに言ったゲームのタイトル、俺は知らないわけじゃない。
ドラゴンプラネットオンライン。世界初のシステム、『フルダイブシステム』によってプレイヤー自身がゲームに入り込んで遊べる、夢のゲームだ。
俺の曖昧な態度に、夏恋は切り込んでくる。
「煮え切らないのね」
「夢であると同時に、そいつを扱った作品では例外なくプレイヤーが危険に晒されている」
フルダイブとは、ゲーム内にプレイヤーの意識を送り込む技術のことだ。つまり、プレイヤー自身がゲームの世界に入り込み、遊べる夢の様なシステムなのだ。
イメージされるのは、よく漫画とかである『ログアウト不能』とか『ゲームオーバー=死』とか、そんなデスゲームっぽいもの。これが本筋でない作品、蝶ネクタイのガキが探偵してる漫画の劇場アニメでもやらかしてんだ。そういうイメージはどうしても強い。
マイナスなイメージもあるし、ゲーム機でなくとも出始めの電子機器には初期不良が付き物。新製品はある程度見送って不具合が洗い出されるのを待つのが定石だ。
そいつがほぼ無料ときている。怪しい。無料というのはとてもいいものだと思われているが、世の中には『ただより高い物はない』という言葉がある。脳に干渉するシステムにも関わらず安全を金で買わせないというのはどうにも不安だ。
「それに、ゲーム機には初期不良が付き物だから、新製品はしばらく見送るもんだ」
初期不良が脳に影響を与えかねないとなれば慎重にもなる。こちとら、満足に使えるのは脳みそくらいなものだからな。
異常があれば脳に大ダメージ、か。
まさに漫画の世界だ。言葉じゃ上手く説明出来ない。ゲーマーの夢であるが、ゲームは画面越しだからこそって部分もある。フルダイブで音ゲーなんてどうするのかわからないし、ホラーは画面越しじゃないとやりたくない。
「そうそう、そんなマイナスイメージばっかだから、政府が規制したりね」
夏恋は愚痴りながらイヤホンを俺に突き付けて言った。密閉型の、ありふれた白いイヤホンだ。これってまさか……。
「実際にやった方がわかりやすいよ。もっとも、こっちはあんたが既にプレイヤーだと思って誘ったんだけど」
「おいそれ……」
俺には、夏恋が突き付けてきたイヤホンがなんだかわかる。箱に入っていて新品同然みたいな状態だがな。そう、これこそゲームへの入り口。
「フルダイブってくらいだから、装置が必要でしょ? だから、その装置、『ウェーブリーダー』」
「それ、どこもかしこも売り切れだったろ?」
夏恋は当たり前の様に言うが、これを初めて見た俺はこんなちっこい装置がフルダイブなんていうオーバーテクノロジーを引き起こすものとは信じられなかったものだ。
だって、どう見たってイヤホンじゃないか。普通、そういう機械って小さくてもヘッドギアくらいのサイズは必要そうだ。
口ではうだうだと不安を漏らす俺だが、店頭でこれを見たら速攻で買ってゲームするに違いない。俺がここまで夢の様なゲームを逃していた一因が、これを手に入れられなかったことだ。
ホント、どこの電気屋行っても売り切れなんだよ。アマゾンも速攻で消し飛んで転売祭りですわ。
「んなもんどこで?」
俺はこの超絶人気商品の出処を聞いた。人にあげる分までよく用意できたな。
「私のお古。感謝しなさいよ?」
「お古とか……。お前二個目持ってんの?」
このウェーブリーダー、夏恋の使ってたものか。なんでそこまでして、俺を誘うんだ?
「持ってる。でなきゃあげないわ。たまたま始めは出てなかった、気に入ったカラーが出てたのよ」
「そこまでして、なんで俺に?」
夏恋は赤いイヤホンを俺に見せた。手に入り難いもん用意してまで、コイツの狙いが分からん。
「怪しみ過ぎ。単に友人としての誘いよ。まあ、私がちょっといいとこのお嬢様だから誘い方が結構気前よくなったけど」
「そうかい。で、どんなゲームだ?」
夏恋が俺を誘う理由は単純だった。一言多い様な気がするが、ならその好意に甘えよう。
「あんたのスマホはゲーム機なの? 調べてみなさいな」
「いや、俺スマホでゲームやんないし。去年末にちょっと人理救ったけどさ」
夏恋に指摘され、俺はスマホの存在意義を思い出す。普通のガラケーが死滅しているので、俺みたいに携帯は電話とメールしかしない派の人まで高っかいスマホを使うことになる。
まぁ、まったくゲームしないわけじゃないけどな。無課金よ。
「人理? ああ、だいぶ年末に盛り上がってたね。お船と刀はしてないの?」
「してない。よくも悪くも運ゲーだと頭髪が禿げそうだ」
パソゲーの有名どころの名前が挙がったが、あれはなぁ。運要素強いゲームは性能を気にせず好きなキャラで戦えるのがいいとこだが。
「それに俺ってゲームする時、よほどのことが無いとwiki見ないし」
「余程のこと?」
「ポケモンの出現場所がわからんとかな」
俺は攻略サイトとかを見てプレイする派ではない。ネタバレが怖いからね。
「ふうん。ま、やってみればいいんじゃない? 無料だし」
夏恋は俺の発言をスルーした。そこだよ。さっきも聞いたけど周辺機器以外無料ってなんだよ。怪し過ぎだろ!
「無料だからコエーんだよ。タダより高いもんはねぇ。世の中、対価があって然るべきだからな」
「広告費で補ってるんだって。それと一部ファッションアイテムが課金ね」
そうか。一応金を儲けるところはあるのね。入り口を広くするために無料か。無料の理由が見えれば少し安心だ。
「ま、ゲームだし、まさか囚われてデスゲームに巻き込まれることもあるまい」
夏恋の言う通りだ。プレイ前にあれこれ想像するのも楽しいが、ゲームは遊んでなんぼ。やるか。どうせ、夏恋に誘われなくてもそのうちやってただろうし。
「あ、そうだ。あんたってゲームだとアバター女にする方?」
夏恋はそんなことを聞く。そうだな。俺はそうしてる。
「ああ。ゲームによっちゃ、露骨に衣装の数が違う時あるしな」
例えばポケモンとかポケモンとかポケモンとかだよ。主人公の着せ替えが実装されるまで、俺は主人公男にしてたんだけど。
「フルダイブゲームってことは、もし女のアバターを使うんだとすればゲーム内で性転換することになるな」
「うん、それ無理ね」
俺の懸念は、夏恋の一言で粉砕された。無理ってどういうこと?
「無理? というともしや異性アバター使えない?」
「ええ」
俺が適当に言ったことの通りらしい。今時そんな殺生な。
「俺が使うわけじゃねーけど、んなのありかよ。つーかどうやって性別判定してんだよ。役所のパソコンをクラックして戸籍参照してんのかよ」
「そこもほら、体験してみればいいんじゃない? 私、難しいことは分からないし」
いろいろツッコミはあったが、夏恋は知らないとのこと。そうだよねー、ゲームってプログラムが書けなくても出来るもんね。技術的なこと知らなくてもいいんだよね。
「じゃ、頑張ってね。グッドラック」
俺は夏恋から渡されたイヤホンを手に、歩いていく彼女を見送った。全く、嵐の様に新天地への切符を寄越しやがって。
@
俺の自宅は学校から徒歩で行ける距離の場所にあるマンション、その一室だ。俺は自転車に乗れないので歩きだ。この分じゃ免許も怪しいなぁ。
20階建ての内、10階というちょうど真ん中の階。俺はそこに義理の姉と住んでいる。面倒なので、エレベーターで移動することが殆どだ。階段など使えるか。
「ただいま」
俺の義姉、直江愛花、姉ちゃんは愛知県警で刑事をしている。この時間、普段は家にいるがでかいヤマを抱えていると数日は帰れない。若いのに大変なこった。まあ、実力があるから引っ張りだこも仕方ない。だいたいは、俺は一人で家にいる。
ヤマが無いなら無いで、夜な夜な繁華街を回って非行少年に声を掛けている。秩序を守る警察官の鏡だ。その反動で私生活はあれだが。
姉ちゃんのことを考えていたら、そのご本人からメールが届いた。
「ん? メール?」
『遊人へ。今日は帰ってくるけど、明日からは捜査本部できるし帰ってこれそうにない』
「ほいほいっと」
刑事の姉ちゃんはそれなりに給料がいいので、このマンションも住宅として質が高い。おかげでキッチンは姉ちゃんが料理しないくせに、カウンターキッチンでオール電化。
俺がいなかったら完全に宝の持ち腐れだ。
今時、IHコンロでもガスに火力は劣らない。火事しなくて掃除が楽って利点でしかないな。
俺は姉ちゃんの両親の養子ってことになっている。ただ、ここの方が学校通うのも便利ってことで中学の時からいるな。俺も常人より軟弱だから毎日の負担は減らしたいし。
「さて、ご飯ご飯」
んじゃご飯炊くか。
米櫃はシンクの下にある、戸棚の中にある。米櫃にはしっかり唐辛子を模した防虫剤を入れておいた。美味い米には虫が沸くんだ。
大きめのザルとボウルを用意し、ザルに米を入れてボウルに重ねる。水をかけて米を研ぐ。
ボウルに溜まった水は忽ち乳白色に染まる。これだ、この米糠こそよい米の証だ。そんじょそこらの市販米は、ここまで濁った水にならない。
米をかき回す手触りも、ずっしり重い。粒が大きいのだ。わざわざ道の駅まで遠出して買ってきただけはある。
研ぎ過ぎると、旨みまで洗ってしまう。二回ほどでやめ、研いだ米を炊飯器に入れて八時頃に炊き上がる様に予約する。
これでよし。さて、ゲームするか。
さすが、それなりにお高いマンション。1LDKなんてケチ臭いこと言わず、いくつか部屋がある。リビングダイニングの他に、俺と姉ちゃんが使っているような部屋が三部屋。
俺の部屋はちゃんと整理してあるので綺麗だ。虫出るのが嫌だという最後の一線さえあれば、部屋の汚さはある程度で踏み止まれる。ゴキブリとか平気な姉ちゃんの部屋など、とても足の踏み場はない。俺は別にゴキブリくらい潰せるけど衛生的にやだな。
机とベッド、ゲームが並べられた本棚にノートパソコン。そのくらいしか部屋にはない。ポスターとかも貼ってないし、実にシンプル。
飾りはゲームの初回特典に付いてきた稼動フィギュアくらいか。俺このキャラ好きなんだよね。
ま、その分ゲーム内のインテリアは好き勝手やるのだが。
「さて、本題はこいつだ」
夏恋から貰ったイヤホン、『ウェーブリーダー』。これで『ドラゴンプラネットオンライン』とやらができるらしい。
俺は部屋のパソコンをインターネットにつなぎ、そのゲームについて始め方を調べておこう。
そうだな、公式サイトだな。Wikiを見ない奴でも公式サイトならネタバレが無くて安心できる。
「ふむふむ、なるほど」
公式サイトにもハッキリと男女を反転させるアバターが政府に禁じられている旨が書かれていた。チッ、どうせ頭の固いジジイの仕業だろ?
現政権、渦海党の老人はこういう仕事だけ早くて嫌になる。はよ選挙権が欲しい。
「これでゲームするのか」
公式サイトによれば、スマホに『ログイン用アプリ』とやらを入れれば出来るとのこと。ウェーブリーダーが付けられる、つまりイヤホンが使えて、ネットに繋がればどんな機器でもアプリを入れれば出来るらしい。
パネェな、オーバーテクノロジーの塊か? 機器が違うと通信速度も変わるから、どれでログインするかで有利不利が出そうなもんだ。それも調整しているのか? ゲーム機って、初期ロットを売り切って不具合を解消した後期ロットを開発しても、ゲームの有利不利を出さないために計算速度は変えていないって話だ。
後から買った奴の方が高性能じゃ、不平等だもんな。計算速度が上がるとフリーズや処理落ちが減らせるんだ。
そのアプリをちゃんとWi-Fi接続でインストールし、スマホのイヤホンジャックにウェーブリーダーを刺す。アプリをWi-Fi無しでインスコしたらすぐに通信制限されちゃうぞ。
これでよし。ウェーブリーダーを耳に付ける。密閉型イヤホンはよいものだ。音漏れもしないし、あくまで個人的な見解だが耳に負担が少ない。
意を決して、アプリを起動する。最初にアカウントネームっての入れるのか。ゲームでは表示されず、アカウントの管理に使われるのね。
「んじゃいつも通りの入れてっと」
いつも使う名前を入れて完了。幸い、誰とも被らなかったようだ。被ると後ろに数字付けてお茶を濁さなあかんねん。
そしてログイン。安全だとわかっていても緊張の瞬間だ。
「これでゲーム内に閉じ込められて、初の未帰還者になったらどうしよう……」
俺の咄嗟なネガティブ発言は、世界が縦に一回転する感覚に打ち消された。
@
「で、ここは?」
気がつくと、俺はプレイヤーのマイルームらしき部屋のベッドに寝かされていた。若干目が回るが、これもその内慣れるだろう。
妙に体が軽く、そして小さく感じられた。髪が長めなのかさらさらした髪が首筋や頬にかかる感覚がある。筋力があるのか、起き上がるのも軽やかだ。
まるで自分がアバターであるみたいだ。これがフルダイブか。アバターにプレイヤーの意識をぶち込むのか。ともかく、これが俺のアバターというわけだ。
んん? そういえばアバタークリエイトしてないぞ? まさかのランダム生成?
両手を見ると、色白で指が細かった。残念。でも、最近はリアルなゲームが増えてCGでも人の肌と大差ない質感出せるのに、このゲームはそうでもないんだな。
手を見る限り、日本製のゲームらしくリアルさそこそこ、アニメチックなデザインなのだろう。
俺は起き上がって、ベッドから立つ。身長が小さいのか、やけに目線が低い。
部屋の中央に青白く光るウインドウがあり、『ドラゴンプラネットオンラインへようこそ』なんて書いてある。
『フルダイブしていてメニューやシステムメッセージはどう開くんだ?』とか思っていたが、なるほど、こういうウインドウを使うのか。
『まずは鏡で、アバターをチェック!』なんてもついでに書いてあるので、言われた通り、広いだけで何もないワンルーム一人暮らしの部屋にぽつんと置かれた大きな鏡に向かう。姿見ってやつだな。男と飾りっ気の無い姉しかしない家庭でも、身嗜みを整えるために玄関には一応あるものだ。
ウインドウの文言だけだと、これからクリエイト出来るのか出来ないのか、判別できんな。いや、今時アバターがランダム生成なんてあるのか?
部屋の窓はシャッターが降りており、外が見えない。どこなのかわからないというのは、漠然と不安を感じる。昔の番組みたいに突然荒野かなんかに放り出されて、『やりますか? やりませんか?』とか言われないだろうな。
「それより、アバターっと」
先程から、俺の声がハスキーというか女の子みたいな声だが、風邪なんかひいてたっけ? いや風邪にしては変だぞ?
体をよく見ると、それこそ女の子みたいに華奢だが、気にしすぎだろうか? 最近は男の娘なんているし、どうせ女選べないなら近い外見ってのもありだな。ログイン以上に意を決し、俺は鏡を見る。
すると予想通りというか薄々危惧はしていたというか、
腰の下まで黒髪を伸ばし、赤い瞳をキョロキョロさせる、小柄で可憐な少女の姿があった。
「んなっ…………!」
そんな馬鹿な! 俺は叫びそうになる。しかし、絶句したままの口は叫び声を上げることを許さない。その代わり、頭のアホ毛がピコピコ動いていた。
これは何かの間違いだ。こいつは最近話題の男の娘キャラだ! と、俺は自分に言い聞かせる。
服は初期設定なのか、フード付きの黒いワンピース。赤の装飾がカラーバランス的にピッタリかわいらしい。
ワンピ、つまり、ズボンなどはいてはない。
精神的ダメージを増加させつつ、俺は決定的確認に移り、ある場所に触れる決意をする。
つまり胸とか。よーし、触るぞ、触るぞぉおお……。
「うげ……」
触れてみると、少し厚地のワンピースの上からはわからないが確かに『ある』。
「い、いやまさか……」
俺は疑念を振り払うために、より決定的な場所に触れる。予想通りというべきかこっちは『ない』。
確信した、このアバターは女だ! なんかリアルの俺にない感触がある! チクショウ!
俺も公式サイトで確認したからこそ、この現象が信じがたい。それに対する不満をも感じていたからこそ、間違えなどしない。こんな不具合、ナンセンスだ!
「いや、落ち着け、俺! この鏡のどこかにアバタークリエイト用のボタンがあって、性別切り替えられ……」
俺は深呼吸をし、鏡を調べる。よく見ると、アバターの髪型や背丈等々を弄れるコンソールがウインドウ同様に浮かんでいたが、性別を弄る項目は、無い。
「マジで……?」
異性アバターは使用不可。よって、性別を弄る必要な無いのだ。だからコンソールにも無い。
即ち、何を思ったのかこのゲームは俺を女と判定しやがったのだ。
「開発者出てこい! 前に出ろ、前だ! バラバラにしてかき揚げにしてやる!」
誰もいない部屋に、俺の怒りシャウトが木霊する。音の反響まで完璧、すごい物理エンジンだ。ってやかましいわ!
こうして、俺はこの少女のアバターを外見から『墨炎』と名付け、恐らくであるが『ドラゴンプラネットオンライン』初の性別逆転プレイヤーとなったのだ。