異常な看板と彼女の事情
1階の弁当屋と3階の学習塾に挟まれたビルの2階。そこには、僕の開業した探偵事務所がある。
さして広くもなく、かといって狭くもなく……平凡な探偵事務所だ。
もっとも、探偵事務所の平凡なんて知らないのだけれど。
というか、平凡な探偵、とはなんだろう?
毎回、何時でも何処でも事件に遭遇し、それを名推理で解決する……それが一般的な名探偵のイメージだろう。僕もそう思う。
じゃあ、平凡な探偵とは?
普通に事件に出逢い、普通に事件を解決する探偵だろうか?
それとも、僕のようにペット捜しで収入を得るような探偵だろうか?
恐らくは前者だろう。
平凡というのは、つまり普通であり、一般的だ。
だから、一般の人々のイメージで、普通が決まる。
『探偵は事件を解決する』というイメージが、探偵像を決めつける。
事実は二の次なのだ。
他人事のように語っているけれど、僕だってそうだ。そんな名探偵のイメージをもっていた。
だから、僕は名探偵にはなれない。
僕の思考はどうしようもなく、平凡。一般的な思考しかできないから。
だからといって、それを僕は悲観しない。
それが僕の探偵らしさであるからだ。
爽やかな秋の空を眺めながら、僕……成田耕康はそんな風に物思いに耽っていた。
空から地面へ視線を移せば、そこでは街路樹の茶色い葉が風に耐えて枝にしがみついている。
まるで自分のようだ。僕は彼に幸せが訪れることを願った……。
こんな風に表現してみると、どこか文学的で知的な風に見えるかもしれないが、成人を過ぎた男が窓の外を眺めているという画はキツいものがあるだろう。
さらに言えば、物思いの内容も極めて現実的な悩みであった。
仕事がない。ビックリする程に依頼が来ない。
最近はほとんど1階の弁当屋でバイトをしている。探偵業務の合間に行う予定のバイトが、今では比率的に探偵業務を凌駕しているのだ。
じゃあ、バイトしなければ良いじゃないか、と言う人もいるかもしれないが、先立つものは必要なのだ。
それに、依頼が無いのに事務所に独りで居ては、何かこう……自分は何をやっているんだろうか、みたいな不毛な問いかけをしてしまうし。
秋というのは、感傷を誘ってくるようだ。
いや、ホント。最近は週5ペースで泣きそうになっているレベル。
まあ、泣くことができるだけ幸せだろう。冬になれば、雪が泣いている暇を与えてくれないのだから。
そんな時。
トントン、と久し振りにノックの音が事務所に響いた。久し振りすぎて聞き流しそうになっていたが、間隔を空けて二度目のノックが鳴り、確信した。
どうやら僕にはまだチャンスがあるようだ。
狭い事務所内を窮屈そうにスキップして進み、扉を開く。いつもより弾み、高い声で依頼者を出迎える。
「はい! こちら、成田探偵事務……っ!?」
「お久し振りー」
扉の向こうに立っていたのは、僕の知っている顔。
小中高まで一緒だった、幼なじみの女子……いや、もう女性か。
昔はヒラヒラしている服が好きだったはずだが、今の服装はジーンズに黒のカーディガンというラフな格好だ。それでいて上手い具合に可愛くまとまっている。
長い茶髪にはウェーブがかかり、ゆるゆるでふわふわでくるくる、という感じ。
白い肌にクリッとした大きな目。淡い口紅の付いた唇。
僕は長らくアホみたいに口を開けていたが、何とか正気を取り戻し、口を動かす。
「……な、何で『わたし バナナ』が居るんだ?」
「いや、だから『わたしば ナナ』だって言っちゅーべ?」
呆れたような、怒ったようなトーンでのツッコミ。そのツッコミによって奔流する記憶。懐かしさがこみ上げてくる。
お向かいの渡場さんのトコの一人娘。自己紹介の度に苦労してきた女性。渡場那奈がそこには居た。
しばらく使っていなかったインスタントのコーヒーを淹れる。湯気が上がり、インスタント特有のお手軽な香りが漂った。
ソファーに座らせている渡場はキョロキョロと落ち着かない様子だ。
「へぇ……意外と綺麗だね。女性スタッフでも居るの?」
「その発想って今は偏見なんだぞ。そして掃除をしてるのは僕だ」
「あーそういや、耕康って変なトコでマメだったしね」
感心、感心……なんて言いながらコーヒーをチビチビ啜り出す。
まあ、正確に言うならば、掃除しかすることがなかっただけなんだけど……言わなくても良いだろう。言ったら絶対馬鹿にされるし。
「うげ……苦っ」
「あー、そういや渡場ってブラックは苦手だったっけ」
砂糖とミルクを取りに向かう。確か実家から奪っ……貰ってきたコーヒーセットがあったはず。
やれやれ、世話がやけるなぁ。まだ克服していなかったとは。
といっても、僕も無糖が好きというワケではないのだが。
節約のために無糖で飲んでいたら、慣れたというだけで……何ソレ悲しい。
「それで、何の用だよ? 言っとくけど、僕はそんなに暇じゃ……」
ドラマで見かける探偵のように、しぶしぶという具合に話す。探偵はいつだって受動態なのだ。
そんな余裕ぶった態度の僕に対し、渡場はスプーンで砂糖を溶かしつつ、何でもないように言葉を放つ。
「へぇ。依頼が来てないのに、何がそんなに忙しいのかな?」
え? 今なんて……と彼女の顔を見る。笑顔が浮かんでいて、少しドキッとした。二重の意味で。
渡場は、新聞の広告欄の切り抜きを取り出し、突きつける。
『成田探偵事務所 あなたの事件、解決します!』
マッチ箱くらいの面積に書かれた、センスの欠片もない謳い文句。
ホントにダサいなぁ。どこの広告だ?
……はい、僕ですね。
それは、以前僕が高い代金を払い、地元の新聞に掲載してもらった広告だった。ちなみにその広告を見て来た依頼者は今のところ一人だけである。ネコ探しの依頼だったかな?
「こんなダっサい広告にすがっちゃって……」
勝ち誇ったように笑っていた。色で表したら間違いなく黒。そんな笑い方を懐かしく思ってしまった。やっぱり変わっていない。
八方美人でありながら、その本性は傍若無人。
要領よく立ち回り、周りを振り回す。
世渡り上手でもあり、褒め下手でもある。
外と内で差がある女性。
それが、渡場那奈という幼なじみだった。
「成田探偵事務所、全然儲かってないでしょ。ていうか、存在を知られていないよね」
「いやいや、僕だって頑張ってるんだよ? 依頼達成とかもしてるし」
自然と声が小さくなる。が、ナメないでもらいたい。僕だって数々の事件を……。
あれ? 最近依頼が来たのっていつだっけ?
1週間くらい前に、森下さんのトコの電球を替えた時かな? 無償で。
……というか、何で渡場がこんなに詳しいんだ?
「まあ、そんなダメ探偵の話は置いといて……」
「いや、待ってくれ。置くな。あと、憐れみの目でこっちを見るな」
僕の抗議を無視して差し出してきたのは小さな長方形のカード。名刺だ。
「つまらないモノですが、どーぞ」
「その渡し方は多分違うと思うんだが?」
ツッコミつつ、名刺を貰う。近づいたときに香水のいい香りがして、妙に照れくさい。そんな頬の朱を誤魔化すように名刺に目をやった。そこには、真面目そうな書体でこう刻まれていた。
『亀甲新報 渡場那奈』
『亀甲新報』とは、ここ鷹岡市にある亀甲門と言う城門跡の近くにある新聞社のことである。
そして、前述した僕の広告を掲載した新聞社でもある。
この県における地方紙の代表格であり、『デイリー青梟』、『烏賊八日報』と覇を競い合って……って、ちょっと待て?
「新聞記者……?」
「そゆこと。今回来たのは冷やかしじゃなくて、探偵サンの力を借りたかったからってワケ」
学生時代から成長しているような、していないような胸を張り、新聞記者の渡場は、探偵の僕に依頼をした。
窓から眺めているだけでも寒かったが、外に出てみるとその認識に誤りはなかったと証明される。
秋の深まりは、冬の接近を告げている。
僕はロングジャケットに身を包み、冷たい風に対抗する。
バサッとジャケットが風に煽られるのを感じつつ、渡場が案内する場所へと向かっていた。
と、横を歩く渡場の視線が気になり、僕は何事かと視線で問うた。
すると、呆れたような顔で渡場は逆にこちらに疑問してきた。指差すのは、僕のジャケット。
「……何で前のボタンを留めないの?」
「だってほら、マントみたいで格好いいじゃないか? なんか探偵っぽいし」
「ドラマの舞台は都心だけど、こっちは北国なんだからさ……。あと耕康が思っているよりもダサいよ?」
まあ、確かに。けど、形だけでも探偵でいたいんだよ……!
と、そんな感情はどうやら理解されなかったようで。
渡場は距離をおくために早足になり出していた。
そうこうしているうちに着いた……らしい。
そこは住宅街のど真ん中。僕らから見て、北と西と東を家々に囲まれた、だだっ広い空き地だ。
前に建物でもあったのだろうか? 中央部には草も生えておらず、僕らがいる南側、つまりは道路側に、汚ならしい縦長の看板があるだけだ。
そこには文字が書かれている。ペンキのようなモノで書いたアルファベット群だ。
STOP
HAIR
UNA
ストップ、ヘアー、ユーエヌエー?
「これ何か分かる?」
「……いや、全然。何なんだ?」
「私にも分っかんないんだなぁ、これが」
はい?
唖然とする僕に、彼女はファイルを放り投げた。
ギリギリのところでキャッチ。中に挟まれた紙の束に目を通す。
「今、私が受け持った小さなコーナーは、身近にあるのに知られていないモノを特集するってヤツなんだけど……今回はちょっと事情が違ってね」
ペラペラと渡された紙束をめくっていく。そこには今までのバックナンバーのコピーがあった。
成る程。県内の隠れた名店や意外な特技をもつ人を紹介する感じの、ありがちとも言えるコーナー。それを担当しているようだ。
面積的に言えばティッシュ箱くらい。つまり、僕の広告の……いや、止めよう。悲しくなる。
「で、事情って?」
「手紙が来たのよ。近所にある、この看板は何なのか気になってますーって」
何と。じゃあ、意外と見てる人は見てる記事なんだなぁ。
そんな人気コーナーを任せられるなんて、同い年として少し誇らしい。
というか、コイツは大学出てから入社したんだろうか? しかし、それにしては早すぎる気が……。
じゃあ、高校卒業後に入社し、鍛え上げられての現在? いや、でも今の時期に高卒で新聞社に就職なんて難しいんじゃないか?
「ちょっと聞いてる?」
「何が?」
「……サイテー。推理してたんじゃなくて寝てたの?」
お前のことを考えたんだよ……なんて言えるわけない。変な誤解されてしまう。
あちらは一応、依頼主。非があるのは僕の方だ。しかし、こちらの意見を言わせてもらおうじゃないか。
「聞けばいいんじゃないのか? 書いた本人とかに」
そんな僕の平凡な答えに、渡場は「THE ため息」と言うべき完成度のため息を吐いた。そこまで露骨に嫌がらなくても……。
でもまあ、そうだよな。それが出来たら僕のトコになんて来ないよな。
「それを書いたらしい土地所有者の宇波さんは、お亡くなりになったわ。……再確認するけど、耕康は探偵なんだよね? 本やドラマで見かける、あの探偵なんだよね?」
世の名探偵さんは凡才の探偵に気を遣って欲しいです!
……いや、ホントに。
秋風が冷たく僕たちを襲う。寒い。さっさと解決して帰りたい……。
しかし、何も浮かばない。ならば、こんなときこそ現場百回。より丁寧な看板の調査だ。……現場百回は刑事の鉄則だっけ?
見直してみよう。
縦に長い長方形の、白いベニヤ板に、黒いペンキで書かれたアルファベットたち。
STOP。これは「止まれ」や「止めろ」の英単語、ストップだろう。
HAIR。英単語ならヘアー。「髪の毛」だ。
UNA。……これが分からない。ユーエヌエーだ。何かの略称?
縦長の看板。……ということは、縦読みならばどうだろうか?
PR OIA TAN SHU
違うなぁ。ワケ分からないし。
グッと顔を寄せ、字の雰囲気を確かめる。
平凡な思考を捨てろ。
そもそも、これは本当にアルファベットなのか?
まず「S」と「T」と「O」と「P」を確認。4文字ともダイナミックに走っている。書いた人は大胆というか大雑把だったのだろう。横幅いっぱいを使い、のびのびと書かれた4文字。まごうことなきアルファベットだ。
続いて「H」と「A」と「I」と「R」だ。さっきとは何やら具合が違う。
「H」と「A」までは先ほどまでと同じ大胆さがあるのだが、「I」と「R」ではそれが鳴りを潜めている。その2文字はどこか窮屈そうで、最後には少し余白が出来ている。
気になったことはそれくらいで、文字列もアルファベット以外には見えなかった。
最後に「U」と「N」と「A」だが、ここでまたダイナミックに戻っている。「STOP」と同じように端から端まで残さず使われている。
集中力が切れたのか、ちょっと雑っぽい。けど、「U」が「し」に見える、なんてこともなく……アルファベットでしかなかった。
ふーっと息を吐き、息を吸い込む。冷風を取り入れて、頭を冷やせ。
アルファベット、つまり英語……。いや、違う。アルファベットの使用法は他にもあるぞ。
そう、例えば……ローマ字読み。
「これを書いたのは宇波さんって言うんだよね?」
「そーだけど……」
「渡場、これは宇波さんの『UNA』だ!」
謎はすべて解けた……! アルファベットに騙されてはいけない。真相はローマ字読みに隠されていたのだ。
決め台詞を考えておけばよかった。今度の空き時間にでも考えてみなくては……。
チラリと渡場を見ると、とんでもなく不快感を露にしながらも、出来の悪い生徒を叱る教師のように、諭すように告げる。
「ねえ、耕康。じゃあ『やめろ、髪』って何だと思う?」
「……あ」
そうだった。
結局、看板の意味は謎のままだ。
唸りながら考える。そんな様子を見つめていた渡場が不意に笑い出した。いや、渡場も考えてよ……。
「耕康、なんか変わったよね。大学行っておかしくなった?」
「まあ、確かに大学で色んなことがあったしなぁ……」
うん。特に友人付き合いは最悪だった。変わり者としかつるんでなかったし。
と、話題が変わったので、推理を小休止。こちらも気になっていたことを聞いてみる。
「渡場は大学行ったのか?」
「うん。私はココを出て、東京の私大に」
へぇ。じゃあ、やっぱ大学を出てから新聞社に……。
改めて、ファイルの中身を見直す。立派な記事だ。これを入社して半年ほどで受け持ったというのか……?
バックナンバーの1つ、喫茶店の記事に目がいった。渡場の文章をまじまじと読んだのは卒業文集くらいだが、明らかにあの時よりも成長している。
『……嗜好品ならぬ至高品でしょうか。 (担当N)』
担当N……あ、那奈だからか。
やはり、彼女も変わった。僕をどんどん引っ張っていく性格は変わっていないが、昔よりも…………いや、幼なじみに今さらそんなことを言うなんて恥ずかしすぎる。
半ば照れ隠しのように、僕は呟いた。
「そりゃ、変わるさ。誰だって」
「だよね。耕康も……」
その後、渡場はもう一言、何かを言っていたようだった。
しかし、髪を揺らした秋風が、彼女の呟きもかき消してしまい、最後の呟きは聞こえなかった。
だんだんと辺りが暗くなってきた。北国ともなれば、秋の朝晩はもはや冬に匹敵する程の気温となる。急がないと風邪をひきかねない。
しかし、万策尽きたかな……。
ローマ字読みにするとか、平凡探偵にしてはよく考えた方だと……。
ローマ字?
ストップ、ハイ……
「あ……」
「今度はどーしたわけ?」
手を擦りながら、気だるげに聞いてくる渡場。あまり期待はしていないようだ。口を動かす度に吐く息が白い。
心配するな。これでもう寒空の下にいる必要はなくなるのだから。
「分かったよ。看板の意味が」
僕は、渡場の目を見て、そう宣言した。
数日後。
早朝、コンビニに入り、僕は『亀甲新報』を手に取っていた。渡場の記事が載っているのだそうだ。普段は買わないが、メールで「絶対買え」と言われてしまっては無視できない。
調査結果は散々だったが、渡場が言うからには何かあるのだろう。
それでは今回の解決編。まあ、何とも下らなく、呆気ない答えだったワケだが……お付き合い願いたい。
秋の夕暮れ時。探偵による推理披露は現場で行うのが基本だが、今回は女性である渡場の体調に配慮し、事務所に戻って話すことにした。というか、僕も寒かったし。
珍しく、確信があった。
インスタントコーヒーで体を暖めつつ、僕は静かに語る。
「つまりはさ。ローマ字読みだったんだよ、コレ」
「はいはい、それは聞いたって。『ウナ』なんでしょ?」
「そうじゃなかったんだ」
どういうこと? と、渡場は前傾になって続きを促す。近い近い良い香り近い…………って恥ずかしい!
ソファーに背を預けることで距離をとり、僕は種を明かす。
「アレは『STOP HAIRUNA』……つまり『ストップ 入るな』ってことなんだよ、きっと」
土地所有者の宇波さんは、空き地で遊ばれたり、駐車されたりするのを防ぐために看板を作ることにした。
縦長のベニヤ板。それに対し、宇波さんは縦書きではなく横書きを選んだ。理由は分からない。何となくかもしれないし、考えがあったのかもしれない。しかし、そこは問題ではないだろう。
宇波さんは自身の書き方……大胆な筆使いで「STOP」を書き終える。
そして、「HA」まで書いてから気づく。横書きでは入りきらない、と。
だが最低でも「IRU」までは入れようと宇波さんは大きさを調整する。そうじゃなければ、「RU」とは読めないからだ。
しかし、無理だった。仕方なく、半ばヤケクソ気味に残りの「UNA」を書いて、宇波さんは看板を立てた。
そうして出来たのが、あの看板なのだろう。
「まあ、何で宇波さんがローマ字で『入るな』と書いたのかまでは流石に分からないけどね」
仮説でしかない、なんて言われてしまってはそれまでだ。ただの探偵ごっこで終わり。
渡場は不満げに唸っていたが、やがて納得してくれたようだ。諦めたように息を吐く。
「はぁ。しょーもないけど、しょーがないか……。記事の内容どーしよ」
やれやれ、と言ってメモを取る。記事の構成について考えているのだろうか。たまに目を瞑ったり、何かを呟いている。まあ、こんなオチでは格好もつかないのだろう。
さて、ここからが本題だ。
「ところでさ……その記事、本当は渡場の担当じゃないんだろ?」
「え……?」
渡場が息を飲んだのが分かった。ということは、正解なのか。
窓の外。風の音がよく聞こえる。さっきから鳴っていたのかもしれないが、事務所内に無言が生まれて初めて気づいた。
さて、僕は平凡ながら探偵だ。推理の披露をしてみよう。
「世渡り上手な渡場なら、大卒で就職してからすぐに任せられても不思議じゃないかなぁ、って思ってたんだけどさ……」
そう言って、先ほど渡されていたファイルを掲げる。バックナンバーが集められた紙の束。
そこから1枚を抜き取り、渡場に見せつける。
「……これが何?」
「この記事の内容は『隠れ家的喫茶店の人気コーヒー』なんだけど、最後の部分を見てみなよ」
『……無糖派の私としてはこの味わい深いブレンドは格別。コーヒーは嗜好品と言いますが、これは嗜好品ならぬ至高品でしょうか。 (担当N)』
「渡場はブラックコーヒーを飲めない。この記事を書いているのは、お前じゃない……だろ?」
「スゴいね。名探偵だ」
冗談言わないでくれ。僕は凡才の探偵だ。
まだ中身の残ったコーヒーカップをテーブルに置くと、渡場は首を小さく縦に動かし、正式に認めた。
「今回の記事もただのピンチヒッターなんだよね。私はやりたいことが全然できない、ただの未熟者なワケですよー」
あーあ、バレちゃったかぁ……と、渡場は頭をかいた。茶の髪が流れ、くるくる巻かれた毛先が揺れる。
『こんなはずじゃなかった』
『自分のやりたいことができない』
新生活において、誰もが通る道。登山コースにおける難所。
僕はそれを避けた。コースから外れ、道なき道を進んだ。
しかし、コースを進む者は同調を強いられる。新たな枠組みに置かれ、呑まれ、染まる。
個性を失う。「らしさ」を失う。
そして、それを失うことを許容する。「らしさ」をもつことを諦める。
そのことについて、僕はとやかく言えるような大層な人間じゃない。むしろ、きっかけがなければ、そちら側だった。
では、渡場は?
彼女の顔を見つめる。あっさりとしたメイクに浮かぶ大きな瞳。その中には輝く意志がある。
彼女はまだ失っていない。「らしさ」を貫こうとしている。
ならば、僕がするべきことは……。
「別に良いんじゃないか?」
そんな一言がつい口から出ていた。
「未熟って『未だ熟さず』ってコトだろ? これからがあるだけ、僕よりマシさ」
別に良いじゃないか。お前はお前らしくいれば。
ともすれば、無責任とも言える台詞だが、僕にはこれしか出来ない。
けれど、僕は知っている。幼なじみだから分かる。
彼女……渡場那奈はこれだけで立ち直れる、強く美しい女性である、と。
「やっぱり好きだなぁ、耕康のそういうトコ……」
フッと笑い、ボソリと呟いた一言。幼なじみである僕にとっては何度も聞いてきた軽口のはずだった。
けれど、何というか……成人して、綺麗になった彼女に笑顔で言われてしまっては、軽口なのだろうと分かっていても動揺してしまう。
恥ずかしくて、紅くなる頬を隠すように窓の外に目をやった。
夕焼けが支配する時間。1日の中で数少ない時間。
朝方に見ていた街路樹の葉は、風に煽られながらも未だに離れていなかった。
逆境に、耐えていた。
「ま、頑張れよ」
僕も頑張るからさ。あの葉のように。
……あ、飛んでいった。
レジで会計を済ませるや否や、コンビニの前、ゴミ箱近くでそそくさと記事を探す。みっともないと思いつつも、止められない。
ピンチヒッターとはいえ、ここに載っているのは彼女の本当の文章なのだから。初の掲載なのだから。
見て、確かめて、下手くそだったら笑ってやろう。
……あった。
「って、おいおい……」
なんてこった。
そこにあったのは質問が来ていた「看板の意味」についての記事。
しかし、それはあくまでオマケに過ぎず、メインを飾っていなかった。
メインを飾っているのは、平凡でパッとしないような探偵だった。
というか、僕だった。
『〈地元の事件はお任せ〉先日、我が社に送られてきた依頼を、成田探偵事務所の探偵・成田耕康氏(23)が推理によって謎を解いてみせました……』
知られていない人を紹介するという点では趣旨に沿っているのかもしれないが……身内びいきも良いとこだ。
叱られるのでは……? いや、渡場なら上手く立ち回るのだろう。昔からそういう女だった。快活であり、狡猾でもある女性。けれど、どこか憎めないような魅力をもった女性。
呆れ、照れながら読み進めていたが、最後の1文に目を奪われ、目を疑い、少し目を潤ませた。
『彼は世間のイメージするところの<名探偵>ではないかもしれません。しかし、泥臭く地域のために働き、人々を明るくする彼を私はこう呼びたいと思うのです。<明探偵>と。 (記者W)』
息を吐く。早朝特有の澄んだ空気が、より鮮明な白をつくり出す。
……やれやれ。もう一眠りする予定だったのになぁ。こんな記事を書かれてしまっては、やる気を出さずにはいられない。
事務所へ繋がる道を進む。普段より弾むステップで。
道とも呼べないような荒れた道を進む。僕なりの探偵像を求めて。
北国の朝は秋であろうとよく冷える。
しかし、今朝は日が照っていて、いつもよりも暖かかった。