凪いでるだけじゃいられない
熱もすっかり下がり、腹の打撲の方も叫ぶほどの痛みもなくなってきた。そろそろ歩き回っても問題ないだろう。
野分くんは相変わらずこの寒いのに短パンをはいて毎日遊びに来てくれて、教授も相変わらず唯我独尊な野分くんに対し毎日のようにため息をついている。教授も大変だなぁ。
この前野分くんは何社かのケータイ会社のカタログを持ってきて、僕にどのスマホがいいか販売員さん顔負けの勢いで説明してくれた。なんであの子全社のケータイの仕様をそらで覚えているのだろうか。ケータイオタクってやつなのだろうか。それともわざわざ覚えてきてくれたのだろうか。どっちもありそうだ。
教えてもらったのはいいのだけれど、沢山ありすぎてよくわからなくなってしまったため野分くんのお任せで選んでもらうことになった。
もちろんスマホなんていらないとは何度も言ったけれどやはり野分くんは僕の言うことを聞くようなタマではなく、結局買ってもらうことになってしまった。お金、大丈夫なんだろうか。
その日の午後もぼんやりとそんな心配をしていると、がちゃりと研究室の鍵が開く声が聞こえた。
「おっはようございまーす!」
「おはよう野分くん」
元気よく入ってきた野分くんを振り返って、僕は首を傾げた。
今日の野分くんの格好は、どこかの制服のような白と水色を基調としたブレザーとグレーの半ズボンだった。頭には白い帽子を、靴は白い靴下と茶色の革靴を、鞄もランドセルではなくキャメルの平たい革鞄を背負っている。かなり、なんというか、おめかし? 正装? そういった格好だ。とてつもなく似合う。子供モデルさんみたいに可愛い。僕が見つめているのに気が付くと、テーブルの近くまでやってきた野分くんはその可愛らしい外見に反してにやりと真っ黒い笑みを浮かべると、サービスと言わんばかりにウインクしてから帽子をとって恥ずかしそうに口元を隠して上目づかいにこちらを見上げ始める。目がうるうるしてる。涙腺を操れるのだろうか。こういうの多分あざといっていうんだ。
「・・・どうしたの? その恰好」
とりあえずなるべく何事もなかったように尋ねることに成功すると、野分くんはスイッチがあるみたいにいつもの楽しげな表情に戻って手にしていた帽子を右手の人差し指でくるくる回し始めた。
「どうしたのこうしたも、学校の制服ですけど。と言っても、公式行事とかそういうのがないと滅多に着ないんですけどねー」
制服のある小学校って、私立の学校だろうか。やっぱりこの子絶対お金持ちのお子さんなんだ。小学生の制服とか、入学から何回制服を買い替えねばならないのだろう。それを考えるだけで恐ろしい。
野分くんは僕の座っている正面のソファに座ると、いつの間に鞄を下したのかテーブルの上に放り投げていた。
「いやー、制服って肩凝るからいやなんですよねぇ」
「ええと、でも、似合ってるよ」
「ふっふっふ、なんでも似合っちゃうのが僕の欠点ですよねぇ」
「欠点なの?」
「街中でいろんな人が釣れて面倒くさいですからね」
一体どんな人が釣れるのと言うのだろう。いや、なんとなく想像がつくような気がしなくもないけれど、これについては触れないようにしておこう。
「でもこんなに立派な革の鞄と・・・本革だ・・・ランドセルと二つ必要だなんて、お金のかかる学校だね・・・」
「え? ランドセルは僕の個人的な鞄ですけど」
「え」
「登校鞄は基本自由ですよ」
「じゃああのランドセルは・・・?」
「ほら、小学生はやはりランドセルを背負っていなければ!」
あのランドセルは小道具だったのか。本当に変な子だ。
「じゃあちょっと着替えてきますんで失礼しますねー」
そう言って野分くんは教授の執務室の方へ入って行った。着替え常備してあるんだろうか。お泊りグッズ満載だとすると、いつも泊まる気満々なんだなぁ。
教授は基本的に留守なことが多いから、半分野分くんの巣みたいなものなのかもしれない。
しばらくすると野分くんは相変わらず短パンだけれど制服に比べると大分動きやすい恰好で部屋の奥から出てきた。
「さて、今日の夜ご飯はどうしましょうかバニー」
伸びをした野分くんがスマホで検索を始める。また出前を探しているのだろう。こんなに毎日毎日出前でおいしいものを食べさせてもらってるのに部屋に閉じこもりっぱなしなんて太る、太ってしまう。そのうち野分くんから食用にバニー一羽って数えられてしまう。それはいけない、由々しき事態だ。
「野分くん、確か近くにスーパーがあるんだよね?」
「え? ああ、ありますよ、アイオーン飴城店です」
「結構大型スーパーだね」
「行きたいんですか?」
「うん、ちょっと、さすがに外食ばっかりだとよくないと思って。僕が作るから、食材を・・・」
「追いかけられてるのに外をうろついても平気なんですか?」
「う・・・うん・・・大丈夫だといいなぁ・・・」
「・・・ふむ、まあいいか。ちょっと待っててくださいねバニー」
「うん? うん・・・」
一体どうしたのだろうか。野分くんは再び教授の執務室の中へ入ると、しばらくしてから両手に何かをのせて帰ってきた。一体何を持っているのだろうか。
「じゃあこの服に着替えてください」
「服?」
わあ、腿の後ろの所に翼のデザインが印刷されたジーパンと、ごつい革ベルトだ。あとぴったりしたスタイリッシュジャージっぽい上着だぁ、あといろいろおしゃれな服が・・・サイズがぴったりだあ、いつ測ったんだろうなぁ・・・。コートもあるなぁ、全体的に趣味ではないけど。
「着替えたらこれお願いしますね」
「なにこれ、かつら・・・?」
「聞こえが悪いのでウィッグと!」
「・・・これウィッグ?」
「その通りです。バニーちょっと赤毛気味ですからブラックつんつんヘアーでイメージチェンジの上青いセルフレーム伊達眼鏡を装着でツンデレ風大学生バニーの出来上がりですよ! 全くバニーだとは気付きません!」
「わあ、すごいねぇ」
「青い髪とか緑もあるんですけど悪目立ちするのはよくないかなーと思って自重しておきましょう」
「・・・なんでそんなものが教授の研究室にあるの? 教授もしかしてコスプレが好きなの?」
「コスプレが好きなのは僕です。教授の部屋に隠してあるのがばれたら確実に蹴られますね」
蹴るんだ。
着替えたりウィッグをかぶったり野分くんからメイクを施されたりいろいろされて、鏡を覗きこんだら本当に別人のようになってしまった。よくもまあ小学生がこんな器用なことができるものだ。
野分くん自身も色々と着替えたり眼鏡かけたりしてほんのり雰囲気を変えると、にっこり笑って言った。
「さあ、財布も持ったし、着替えも済んだし、行きますよバニー!」
「うん、ありがとう」
野分くんは顔を隠すためか野球帽をかぶると、扉に手をかける。
がちゃり。いつもは外から開く扉を、今度は中から開いて外に出た。扉の外は屋内の廊下だった。人は一人もいない。窓と壁に挟まれたその廊下は結構長い。どうやら教授の研究室は建物の端の方にあるらしい。扉を見上げると、扉の斜め上に第五研究室と札が付いていた。
「何をしてるんですかバニー、行きますよ」
「あ、うん」
野分くんを追いかけて近くの階段を一階分下りると、先ほどと似たような廊下が続いている。少し歩くと正面玄関のような狭いロビーのようなところに出た。古いんだか新しいんだか判断が付かないデザインの不思議な建物だ。でもロビーに置いてある公衆電話はテレフォンカード式の回しダイヤルだったので、結構古めなのかもしれない。
正面玄関を出て建物を振り返ると、若干マンションのような、学校の離れのプレハブのような建物に見えた。あ、いや、間違うことなく学校の離れのプレハブなのか。
入り口の横には、古い木の板がかけてある。何かが書いてあったようだけれど、風化してしまってよく読めなかった。・・・なんとか・・・科学、学科?
「何学科なんでしょうねここ」
「読めないね・・・」
「でも他に人みませんし、ずっと前になくなった学科なのかもしれませんね」
「じゃあどうして教授はここに?」
「人が来ないからじゃないですか?」
なるほど、妙に納得してしまった。
「というか、大学内なのに本当に人がいないね」
「司馬大の本拠地とは少し離れた場所にあるんですよ。司馬大は各門に守衛さんがいて夜中出入りできなくて面倒なんですよね。まあ、忍び込めば問題ないわけですが。ここはほとんど使ってないからか警備が薄いんですよねぇ」
「・・・なんか泥棒さんみたい」
「ふっふっふ、褒めても何も出ませんからね」
「褒めてないよ・・・」
それから片道十五分くらい歩いて、無事に大型スーパーアイオーンについた。地下の食料品売り場に行くと、あたりは夕食の買い物に来た主婦でにぎわっている。
「結構人がいるねぇ」
「夕方のスーパーでこんなもんなら空いている方ですよ。さあ、何を作るんですかバニー?」
「うーん、何がいいかなぁ。野分くんは何が好き?」
「僕は蜂の子の佃煮が好きです」
なんて渋い。とても子供の好物とは思えない。この子本当は大分歳をサバよんでいるんじゃないだろうか。
「それはさすがに無理だなぁ」
「うーん、じゃあ、えーと・・・オムライス?」
「ああ、それなら大丈夫そう。好きなの?オムライス」
「いえ、子供っぽい食べ物で一番最初に思いついたので」
「・・・そう」
とりあえず卵と、お米は給湯室にあったので野菜とお肉とケチャップとその他入れたらおいしそうなものをカゴに入れていくが、野分くんは不満そうに声を上げた。
「肉は牛にしましょうよー」
「オムライスにはチキンライスでしょ」
「いいじゃないですか、何事も工夫が大切ですよ」
「僕はアレンジするほど料理が玄人な訳じゃないからね」
「ぶー」
「可愛らしくぶーたれてもだめ」
僕がそういうと野分くんはこっそり舌打ちしていた。強い大人に育つんだろうなぁ、この子。
「よし、ちゃんとお会計も通ったし、そろそろ・・・」
ふとサービスカウンターが目に入る。正確には、サービスカウンターにくっつけてある煙草のメニューなのだが。研究室にいると教授の煙草の匂いがしてすごく自分ものみたい気分になるのだけれど・・・いや、我慢我慢。一本やると気持ち悪くなるし。
「あ、バニー煙草買っていきましょう煙草」
「ええ? 野分くんのむの?」
「僕は清い体なのでのみません。教授のやつですよ」
「ああ、そっか」
「教授はピースの21ミリです。バニー、カートで買ってきてください!」
「かなり軽く吸ってるように見えるけど随分重いんだね・・・」
「教授は早死にしますよねぇ。僕は一回サリバンを飲んでみたいです。あ、なんだったらバニー好きなの買ってきてもいいですよ」
「えっ」
「のみません?」
「いや・・・ときどき・・・」
「なにがいいですか? 四の五の言わずに吐いてくださいな」
「え・・・ええと、セブンスターの・・・」
野分くんのこの脅すように僕を甘やかすようなのはなんなんだろうなあ。
無事にお買い物を終えた僕らが無事に研究室に戻り、無事に着替えも終わり、無事に調理も終わった頃に教授がのっそりと帰ってきた。
「おかえりなさい教授ー! あ、ひどい! 避けた!」
「・・・あの兎はどこだ?」
「オムライス作ってるんですよ。今日のご飯です」
「・・・そうか」
「ケチャップ白衣にとばさないように気を付けてくださいね教授」
「お前は私をなんだと思っているんだ」
「ただのうっかりさんでしょう?」
「・・・」
「あいたたた! せっかくお土産買ってきたのに!」
「もらっておこう」
給湯室にいながら会話だけを聞いていたのだが・・・あの二人本当に仲がいいなぁ。
僕が苦笑しながら出来上がったオムライスをいつもの一つしかないテーブルに並べた。教授が皿を持って執務室へ引っ込もうとしたところを野分くんが怒って止める。しぶしぶとソファに座った教授の隣に野分くんが座ると、彼はぱちんと両手を叩いて元気に唱えてくれた。
「いただきまーす!」
「はい、召し上がれ。ケチャップで好きに字を書いてね」
「はーい!」
そう言って野分くんはチューブケチャップを手に薄焼き卵の上に何かを書いていく。何を描くのかと眺めていると、横ではケチャップなしで教授が食べ始めていた。それに気が付いた野分くんは教授のオムライスにケチャップを流し込みながらぶーぶー文句を言い始めた。
「オムライスの醍醐味をわかっていない人ですね全く!」
「お前が何かをし始めると時間がかかるからな」
「オムライスの醍醐味より僕の性質を知り尽くしているとはさすがですね!」
「早く食べろ」
教授は流し込まれたケチャップを薄焼き卵全体に伸ばして再び食べ始める。野分くんはまだ驚くほど細かい三角模様をケチャップで書いている。それ本当にチューブケチャップで書いたのだろうか。嘘じゃなかろうか。というか、冷めてしまうよ。
「・・・それ、何の模様?」
「ブリリアンカットです」
どうしてチョイスがそれなのか理解に苦しむが、まあ本人が楽しければそれでいいのだろう。
・・・うん、誰かと楽しく食事ができるなら、それ以上のことはないのだ。一人でご飯を食べるのはさみしいからね。
オムライスを食べ終わった頃にサラダを作ったのを思い出して食卓に慌てて並べたり、インスタントスープで一服したり、教授が何本目かの煙草に火をつけた頃、野分くんは足を組んでいかにもマフィアのボスのやっていそうなポーズで切り出した。
「日が暮れてしまいました」
「そうだな」
「バニーを風呂屋に案内するの忘れました」
「偉そうにいう台詞か」
「教授ー、この校舎のどこかにシャワールーム的なものはないんですかー?」
「知らん」
「ここは教授の巣じゃないんですか!」
「私は湯船が好きだ」
「シャワーじゃ物足りないっていうんですね・・・」
「どうしても汗で気持ち悪いなら体を拭くんだな。蛇口も好きに使っていい」
「えーっ、教授はお風呂どうするんですかーっ」
「もう行ってきた」
「一人で銭湯に行くなんてずるいですよ!」
「知らん」
ぶーすか言う野分くんをめんどくさそうに一瞥すると、教授はあとは任せたと言わんばかりに僕を見てさっさと執務室へ引っ込んでしまった。
任せられてもなぁ。
「・・・野分くん、シャワーシートいる?」
「・・・ありがとうございます」
「頭洗いたいなら、洗おうか?」
「え!?」
「蛇口で」
「え!??」
そんなに驚かなくてもいいような気がするんだけど。お湯が出るんだから普通に洗えばいいんじゃないかなぁ。
「蛇口で屈んでてくれたら洗うよ? シャンプーある?」
「・・・銭湯セットに入ってますけど。タオルもあります」
「じゃあ洗うからちょっと蛇口で屈んでてね」
「は、はい」
お皿を洗ってからおふろセットを持ってきてもらった野分くんに蛇口の前で屈んでもらって、丁度いい温度にお湯を設定して頭全体を濡らす。
「わあ、さらさらだねー」
「え、ありがとうございます」
「シャンプーは、えーと、弐髪かあ。こだわってる?」
「安売りしてたんですよ」
金銭感覚はきっちりしてるのかもしれない。
「すぐ終わるからちょっと待っててね。痛かったらちゃんと言うんだよ」
「はあ・・・なんか慣れてません?」
「いやあ、学生の頃極貧だったもんだから」
まあ、学生の頃はお湯じゃなくて水で洗ってたんだけど・・・光熱費かかるから。毎日主食がパン屋でもらったパンの耳だったなぁ。一緒に住んでた先輩はお金ができたらぱーっと豪華なディナーに連れて行ってくれたけど、家賃のこと全然考えてなかったし。銭湯は銭湯で毎日行くと結構かさむからタオルで体拭いたりして節約して、節約して貯めたお金で賭け麻雀やって大負けしたり、ああ、懐かしいなぁ。
「流すよー」
「・・・随分と苦労されたんですねぇ」
「うーん、半分くらいは自分のギャンブルの才能の無さが原因なんだけどねぇ」
「自業自得ですか」
「そう、そうなんだよ」
「もしかして追われている原因って借金なんじゃ・・・」
「え!? えーと・・・」
「一千万くらいなら立て替えてもいいですよ」
「いいよ! 大丈夫だから! ほいほいそんな大金他人にあげちゃだめだよ!」
野分くんにこれ以上借りを作る方が危険なような気がするのもあるのだが、それよりもやっぱり野分くんの金銭感覚が心配だ。いや、もしやトイチだったりして・・・。
「えーと、ああ、いや、うん。別に借金が原因なわけではないんだよ」
「本当ですか?」
「本当本当。ただちょっとね・・・悪縁ってやつかな」
「・・・ふーん」
「次コンディショナーねー」
「はぁい」
コンディショナーもきちんと洗い流してあらかた水を切ると、野分くんの頭にタオルをかけてあげて終了だ。久々に人の頭を洗ったなぁ。
「ありがとうございましたー」
「いえいえ、どういたしまして」
「次僕がバニーを洗いましょうか?」
「自分でやるの慣れてるから平気だよ」
「そうですか」
野分くんはわしわしと自分の頭を拭いてからタオルを首にかけるとぷるぷると小動物のように首を振る。わ、冷たい。
それにしても・・・。
「・・・」
「・・・なんです? そんなに僕のこと見つめて。もしやショタは男女兼用という言葉は本当なんですかね」
「え!? いや、僕には適応されないんじゃない・・・かな?」
「そうですか?」
「うん」
ただちょっと、水にぬれて髪が大人しくなった野分くんが、どこかで絶対見たことがあるんだけど・・・一体どこで見たのかどうしても思い出せないだけなのだ。こう、記憶がかすむくらい昔の話のような気がするんだけど・・・そんな昔に野分くんが生まれているわけがない。一体どこで見たんだろう、こんな顔の人。
自分も蛇口で頭を洗ってしっかりとタオルでふいて、シャワーシートにお世話になると野分くんが冷蔵庫からビールの缶を出してきてくれた。
「はいどうぞ、バニー」
「え、えーっと・・・お酒は、ちょっと」
「飲めないんですか?」
飲めないわけではない。飲めないわけではないのだ。むしろ好きな部類に入る。だが問題なのは、飲んだ後のことである。
「そ、そう、飲めないんだ。すぐにダウンしちゃって・・・」
「この後寝るんだからいいじゃありませんか」
「え、ええーっと」
「寝酒だと思って!」
「・・・僕、酒癖悪いから」
「・・・バニーと取っ組み合って勝てる気はしないのでやめておきましょうか」
「そうして」
一通り支度を終えたあと、そのうち野分くんはテレビを見ながら船をこぎ始めてしまう。その様子を見て思わず笑ってしまった。計算高くて生意気な口をきいたりするけれど、やっぱり野分くんも子供なんだなぁ。
「テレビ消すからね」
「・・・はい」
「電気も消すよー」
「!? いけません! 電気は消しちゃダメです!」
野分くんはものすごい勢いで覚醒するとかなり真剣な顔で僕を止める。これはあれだろうか、電気消すと怖い子なんだろうかこの子は。というか、夜外に出ないのとか、もしかして暗いの怖いんだろうか。そういうことなんだろうかこの子は。
「なんですか! 何を微笑ましそうな顔をしているんですか!」
「いやあ、やっぱり人間一つや二つ弱点がないとおかしいよなぁと思って」
「別に暗いのが怖いわけじゃないですから!」
「うんうん、わかったよー」
「わかってないです! 全然わかってないです!!」
「うんうん」
「ですからー!」
ぷりぷり怒る野分くんはもういいと言わんばかりに給湯室で水を汲んでくると、鞄から出した錠剤をのむ。この前教授からもらった薬だろう。だが野分くんからきいた教授のことから考えると、本当にその薬は変な薬じゃないのだろうかと心配になってしまうのだけれど・・・大丈夫なんだろうか。
「バニー、寝ますよ!」
「はいはい」
「にやけてると怒りますからね」
「ごめんなさい」
野分くんは僕がいつも寝ているソファと反対側のソファに身を横たえると、すぐに布団をかぶって大人しくなってしまった。すぐに寝息が聞こえてくる。随分と疲れていたんだな。
この前聞いた野分くんの家族の話を思い出してしまった。
僕は家の中には血は繋がっていないけれど家族同然の人が一杯いたから、家を出たときすごくさみしく感じてしまったものだ。きっと、急に次々と家の人がいなくなってしまった野分くんもさみしいんじゃないかと思う。・・・僕が思うだけかもしれないけれど、この子は小学五年生なわけなのだし。具体的に言うと、キテレツと同い年な訳なのだし。
この子に物凄い恩があるのだから、お世話になっている間でもさみしくないようにしてあげたいものだ。
次の日の早朝、ヤカンの笛の音で目が覚めた。向かいのソファにはまだ野分くんが寝ている。多分教授がコーヒーを入れるのにお湯を沸かしているのだろう。給湯室には電気ポッドもあるのだが、教授には教授なりのこだわりがあるらしい。
給湯室から執務室へ移動する教授を見かけるが、挨拶をする前に通り過ぎてしまった。コーヒーのいい匂いがここまで広がってきて、自分も飲みたくなってきた。
お湯が残っていることを確認して一杯コーヒーを入れると、テレビの電源が入った音が聞こえた。
「おはよう野分くん」
「・・・おはようございますバニー」
とんでも機嫌の悪そうな野分くんの顔を見て、僕はそれ以上何も言わなかった。そうか、この子は寝起きが悪い子なんだな。絡まれたら厄介そうだなぁ。とりあえずココアでも入れておいてあげようかな。
『本日の株価は・・・』
すごい目つきでテレビにかじりついている野分くん。何がやっているのかと思えばいつも見ている国営ニュースだ。株価なんて縁がないので僕にはさっぱりわからない。だが野分くんは手早く充電していたスマホを取り出すと何か操作しだした。何をしているんだろう。
「はい、よければどうぞ」
「・・・ありがとうございます」
悪いかなとは思いつつも画面を覗き込むと、なんだかよくわからない画面が表示されている。売り買い? ナスダック? ダウ? 株式会社ネクスト・・・。
「・・・こんなもんかな」
「何してたの?」
「いえ、ちょっと株整理してただけです」
「・・・え?」
「株」
「・・・え?」
「株」
「・・・そっか」
彼の財源はこれか。
「・・・ココア」
「給湯室にあった純ココアを砂糖と調合してみました。甘い?」
「いや・・・おいしい」
「よかった」
「バニーはいいお嫁さんになれますね」
「いや、なれないから」
野分くんが朝ごはんはホットケーキがいいと言うので、いつの間にか昨日の買い物袋に入っていたホットケーキミックスでホットケーキを焼くことにする。またちょうど焼きあがるというタイミングで教授が執務室から出てきた。見計らっているんだろうか。
「・・・ホットケーキか」
「メイプルシロップありましたよね教授?」
「バターと生クリームが置いてある」
朝から生クリームを食べるつもりなのだろうかこの人。
焼きあがったホットケーキに各々好きなトッピングをする。教授は胸やけするんじゃないかと思うくらい朝から生クリームを山盛りにしていて、なんというか、見るだけでお腹いっぱいになりそうだ。だが野分くんは平然とバターとメイプルシロップを控えめにして隣でおいしそうに食べている。教授の行動には慣れているのかもしれない。僕は大して何もかけずにそのまま食べていると、機嫌の直っている野分くんが切り出した。
「さて教授、例の件はいかがですか?」
「・・・本当にやるつもりか」
「当然ですとも。何のために見取り図とカメラの位地の確認を頼んだと思ってるんですか」
「・・・まあ、私は構わんがな」
そう言って教授はテレビのリモコンを手に取ると操作を始める。どうやら部屋のパソコンとつなげてあるらしい。何かのデータを呼び出すと、そのままリモコンを野分くんにパスした。どうやらどこかの建物の見取り図を見ているようだ。
「へぇ、意外とちょろそうですね。おっさんが楽に仕事終わらせるわけですよ」
「夜間は人感センサーで通路の明かりがつくようになっている。不必要に美術品に触ると警報も鳴る。今のお前には無理だな」
「やるのは僕じゃありませんから」
一体二人は何の話をしているのだろうか。僕はホットケーキをほおばると、見取り図の中に特別赤くマークがついている部屋があるのに気が付いた。一体どこの見取り図なのやら。
「バニー、この見取り図しっかり頭に叩き込んでくださいね」
「え? どうして?」
「どうして・・・? どうしてって教授に家賃を払うために決まってるじゃありませんか」
いきなり言われたその言葉に、僕は固まってしまった。あれって、冗談じゃ、なかったの・・・?
「本当は僕が用意するべきだとは思うんですけど、いまはこのざまですからね」
「・・・ごめん、僕は今、一文無し・・・」
「知ってますよ。だからこの見取り図を覚えろって言ってるんじゃないですか」
「こ、これ、一体どこ・・・」
「どこって・・・」
野分くんはいかにも悪の親玉のような不敵な笑顔を浮かべると、心底面白そうにフォークの先を僕の方へ向けてこういった。
「飴城の美術館ですよ」
・・・嫌な予感しかしなくて、冷や汗が止まらない。