平和なある日
僕が痛む腹を抱えつつも給湯室に自力でたどり着けるくらいにはなったころの話だ。
熱は大体下がったものの、高熱のせいで大量の脳細胞が死んだのか(どうかはわからないが)頭がくらくらして仕方がないが、前よりかは楽に寝ていられるようになった。
ソファとはいえよく沈み寝心地は悪くない寝床で惰眠をむさぼっていた僕は、若干の息苦しさを覚えて目を覚ました。
だが、目を開けても天井の蛍光灯は見えず、視界は薄白い色で塗りつぶされている。見渡す限り一面の煙。強い煙草の匂いを吸い込んで咳込んだ。起きたばかりの僕は火事だ、と思い飛び起きて腹筋的な意味で痛い目に会った。
「も、も、森教授!?」
「・・・ん?」
僕のいるソファの正面にあるソファのあたりから酷く呆けた人の声がした。何をそんなに落ち着いているのだろうか。一大事だというのに。
「教授ですか!? け、煙が・・・火事です!」
「・・・本当だ、すごいことになっているね」
落ち着き払ったその人が静かに立ち上がった気配がする。逃げるなら出入り口の方へ行くべきだろうが、彼が向かったのはどうやら部屋の奥のようだった。一体なんのつもりかと思ったら「よいしょ」という気の抜けた掛け声と共にガラリと窓が開いた音がする。続いてこちらの方に戻ってきた男は、出入り口の扉を開いた。どうやら傘立ての壺でつっかえにしているらしく、扉が閉まる様子はない。
「に、逃げないと」
「大丈夫だから安心したまえ。換気をすればすぐに元に戻るさ」
「何言ってるんですか!」
「火事ではないと言っているのですよ、君」
一体どういうことなのだろう。元の場所に座りなおした煙で顔が見えないその人物は、煙のことなど意に介さぬように寛いでいるようだった。
あまりの落ち着きぶりに本当に火事ではないような気がしてくる。それにしてもこの人は誰なのだろうか。口ぶりからすると森教授ではなさそうなのだけれど・・・まさかもう彼らが嗅ぎつけてきたのではと心配になってしまう。
しばらくすると、煙っていた煙は外に逃げて視界が良好になってきた。見えてきたのは、向かいのソファに座るライトブラウンのハンチングを目深に被った見知らぬ男だった。第一ボタンまできっちりとしめたスタンドカラーのワイシャツに、グレーのリボンにも見えるタイをびしりとつけて、オレンジ寄りの茶色のベストを着ていた。両手を頭の後ろで組んで枕にして、ハンチングと同じ色のズボンをはいた足を組んでいかにも昼寝ポーズである。帽子に隠れて顔はわからなかったが、口に咥えた木製のパイプが印象的である。
この場にいることが当たり前かのような態度なので、おそらくは教授の知り合いなのだろう。喜ばしいことに彼らの仲間ではなさそうなので安心した。
視線をずらすと、テーブルの上の灰皿にはいつもの教授が吸っているシガレット型の煙草の吸殻ではなく、ただの灰に見えるものがこんもりと山になるどころか若干あふれて周りに散らばっている。この灰はなんだろうと考えかけて、隣に積まれているいくつかの刻み煙草の箱を見て、ああと頷く。尋常ではない量のその刻み煙草と灰、今現在も蒸気機関車のようにふかしている目の前の男を見比べて僕はため息をついて自分の想像に確信を持った。
「・・・吸いすぎは体によくありませんよ」
「ご忠告はありがたいけどね、これがないと私は全くダメなやつでしてね」
「教授のお客さんですか?」
「まあそんなところですかね」
「・・・森教授は?」
「留守のようですよ」
「・・・鍵、かかってませんでした?」
「開けました」
男はそういってパイプと手に持つと、しばらくもぐもぐしていたと思ったら二回続けて煙の輪を吐いた。器用なものである。
「君は森教授の友人かね?」
「友人というか・・・居候というか・・・厄介者というか・・・」
「ふむ、拳銃を使いなれている人間は確かに厄介者と言えるかもしれないな」
「は」
この男は今なんと言っただろうか。
なぜこの男がそんなことを知っているのか。身構えると、帽子の奥からちらりと鋭い瞳が覗いた気がした。
「手錠をかけられていたようだし、投獄か、監禁か・・・誰かに捕えられていたらしい。それともそういうプレイでも?」
「・・・」
「まあまあ、そう警戒することでもないですよ。調べなくてもそのぐらいは見ればわかるのでね」
「・・・貴方は一体」
まるで魔法のように何もかも見透かされているような気になってくる。少し話しただけだがとんでもない人物であることを知ってしまった気がした。恐る恐る尋ねると、彼はパイプの中身を灰皿の山に振りかけると、内ポケットから出した巾着に刻み煙草の箱と一緒にしまった。机の上に置いたままにしてある箱は空なのだろうか。
「昴と呼んでくれれば事足りますよ。人によってはホームズなんて名前で呼ぶこともあるみたいだけれどね」
「すばるさん?」
「森教授に用があるんですがね。でも訪ねてくると決まって待てども待てども帰ってこない。タイミングが悪いのか、相性が悪いのか・・・読まれてるかもしれないというのもあるね」
昴だかホームズだかと名乗るその人物は愉快そうに口元をゆがめると、ソファの背もたれにかけていたジャケットに袖を通した。ハンチングやズボンと揃いの色だった。パイプの入った巾着をジャケットのポケットにしまうと、一度伸びをして男は立ち上がった。
「今日も時間切れだ。これでお暇させていただくよ」
「・・・はあ」
「できるなら森教授とは早々に手を切った方がいいとおもうがね。じゃあ、彼らによろしく」
そう言って男は颯爽と研究室から出て行った。そのあと僕はゆっくりと立ち上がって、入口へ向かった。壺でつっかえをしたままの扉を閉めて、しばらく考える。
あの人はなんだったのだろうか。個人的には、二度と会いたくない。全てを知見通されているようで、酷く不安になる。彼がいた形跡をなくしたかったのか、僕は灰皿とテーブルの上をきれいに片づけて給湯室のゴミ箱に捨てておいた。
「おっはようござ・・・うわ! 煙草臭い!!」
あの男の帰ったしばらく後、野分くんがいつもの調子で研究室にやってきた。今日は時間は大して変わらないのに鞄がランドセルではなくオリーブ色のエナメルバッグをかけている。バッグをテーブルの上に置くと、野分くんは不審そうに首を傾げた。
「・・・バニー、誰か来ました?」
「え? ああ、うん。男の人で・・・」
僕の一言を聞くと、野分くんの目が鋭く光った。キレのある動きで灰皿を確認してから給湯室へ走って行く。どうしたのだろうと呆然としていると、給湯室の方から声が飛んでくる。
「このゴミは・・・バニー! その男火災報知器が鳴りそうなくらい煙管ふかしてる帽子かぶった変人じゃありませんでした!?」
「う、うん・・・」
そういえばどうして火災報知器が鳴らなかったのだろう。もしかしてこの部屋にはついていないのだろうか。
「野分くん、知り合い?」
「とんでもない! あいつは疫病神なんですよ!」
野分くんは給湯室からガチャガチャと何かを漁るような音をさせていたけれど、駆け足で戻ってきた。その手には白いものが入ったケースが一つ。それ調味料入れじゃなかっただろうか。
「おのれホームズ!」
「野分くんそれ何?」
「塩です!! 撒くんです!!」
この子ってどうして時々こんなに古風なんだろうか。
まるで鬼退治にでも行くような形相で野分くんは目にもとまらぬ速さで扉を開けた。そのままケースの中から素手で塩をひっ掴んで扉の外に向かって力いっぱい投げつける。
「鬼は外ー!!!」
何か違うと思う。
「・・・」
「・・・あっ」
野分くんが塩を投げつけた扉の外には、一人の男の姿があった。
黄泉からの使者のような顔で野分くんを見下ろすその人は、うっすらとこめかみに青筋を立てながらゆっくりと手を伸ばす。
逃げようとする野分くんの首根っこを掴んで自分の目線まで持ち上げると、頭から塩まみれになったその男・・・森教授は腹に響く低音で彼を呼んだ。僕が呼ばれたわけでもないのに凄みにより腹の底が震える思いがした。
「・・・なんのつもりだ」
「て・・・てへっ」
「なんのつもりだと聞いている」
「ここにホームズが来たんですよ! 嫌な奴が来たら玄関には塩撒いておかないと! いや決して教授が鬼みたいだとかそういうことではないですからね!」
「ほう・・・ところでお前の学校は交通安全指導をしていないのか?」
「玄関開けただけで車が突っ込んでくることは稀ですからー・・・」
教授は目をそらしてそう言う野分くんを床に下すと、野分くんは許されたのかと顔を明るくしたがすぐに表情を凍らせた。なぜなら彼の両こめかみに森教授の拳を当てられたからである。教授がゆっくりと力を入れるのが見えた。
「いたたたたたた痛いですやめてください教授ぎゃー!!」
「ほう、痛いか。そうか、それはよかったな」
「うわーんこの鬼畜眼鏡さんめ!!」
「ほざけ性悪児童」
「そうですよ! 僕はまだ児童と呼ばれて然るべき存在なんですよ!? 学校の先生ともあろうものがこんなことをしていいと思ってるんですか!? PTAが黙ってませんよ!!」
「まだ余裕があると見える」
「いやーっ!!」
しばらく二人はそういって戯れていた(そのように見えた)がやがて手が痛くなったらしい教授が両手を振りながら野分くんへの攻撃をやめた。解放された野分くんは涙目で鼻をすすりながら僕の方へ駆け寄ってくると力いっぱい泣きついてくる。この美少年は潤ませた目で上目づかいで僕を見てくるが、自分の売りを知り尽くしたこの子のことだから必要以上に僕に媚を売っている気がして仕方がない。でもその売られた媚の半分くらいは買っておくことにしよう。
「バニー! 教授がひどいんですよー!」
野分くんがしたことも結構なことだと思うが黙って頭を撫でておく。よしよし、かわいいかわいい。
「のわ」
「なんです?」
「薬だ。持っておけ」
森教授はそういって何かが詰まった紙袋を野分くんに投げてよこした。うまくキャッチした野分くんは嫌そうな顔で中身を覗いて、より嫌そうに顔をしかめる。
「いーやーでーすー。飲みたくありませんー」
「ほう、じゃあテケリ・リが見えてもいいんだな?」
教授のその一言で野分くんがぴたりと動きを止めた。なんだろう、てけりって。
「・・・のーーーみーーーまーーーすーーーーーー」
野分くんは乱暴に紙袋をエナメルバッグに突っ込むと、頬を膨らませながら僕の近くに腰かけた。
「野分くん、どこか悪いの?」
「悪いらしいですよ」
「らしいって・・・」
「二十日は病院だ。忘れるなよ」
「わかってます!」
「あと勝手に動くな」
「動くに動けないです!!」
動くって何の話だろう。
「わかってるならいいがな。出てくる。お前のせいで塩まみれだ」
「ナメクジじゃなくてよかったですね!」
「・・・撒いた塩は掃除しておけ。金具が錆びてはかなわん」
「わかりましたよう」
「部屋を調べるのも忘れるな」
「はぁい」
教授は野分くんが片手を上げて返事をするのを確認すると、のっそりとした動きで研究室から姿を消した。研究室には当然ながらお風呂はないので時々話に聞く行きつけの銭湯に行くのかもしれない。今僕もはシャワーシートにお世話になりっぱなしなのでちゃんと歩けるようになったら場所を教えてもらおう。
「・・・どこが悪いの? 無理していないかい?」
「無理なんてしてませんよ。大体症状が出るのが夜なんで、早めに帰るようにはしてますけど」
「・・・そっか」
「・・・バニーには、何か怖いものあります?」
「怖いもの? なんで?」
「いえ別に・・・」
弱味を握ろうとしているのだろうか・・・。
「・・・僕が怖いもの」
笑顔を、思い出した。
目を見開いて、満面の笑顔で、こちらにそれを向けていた。
左耳のあったところに手を当てる。
「・・・なんだろうな」
しっかりと、箱にしまって封をした。
「そうですか。・・・さて。始めますかー」
野分くんは教授の執務室に向かうと、何かを探していたらしいがすぐ帰ってきた。その肩にはショルダーベルトのついたラジカセのようなものを下げていて、手にはテレビアンテナを小型にしたようなハンディアンテナを持っている。
「ぱんぱかぱーん! 盗聴器探知機ー!」
「・・・なんでそんな物騒なものがあるの?」
「時々仕掛けられるからですよ」
「えぇ・・・」
野分くんはアンテナをかざしながら部屋のあちこちを調べ始める。机の下、壺の中、ソファの裏、それこそいろんなところだ。
「・・・で? ホームズ何か言ってました?」
「え?」
野分くんに尋ねられてホームズに自分のことをずばり言い当てられたのを思い出した。手首についた手錠の跡をさすりながら考える。
「・・・時間切れで帰るとか、早く教授と手を切った方がいいとか・・・」
「ホームズのやつ・・・教授はただの大学の先生・・・? なのに!」
「疑問系にしちゃだめなんじゃ・・・」
そう言ったとき、ラジカセのようなものから電子音が流れ始める。アンテナがかざされていたのは本棚の一つだった。野分くんは本棚の足元にあるコンセントを調べている。
「みーっけ」
野分くんは顔を上げて僕の方へ手を差し出した。その手には小さな機械のようなものが乗っている。
「盗聴器ですよ」
「・・・本当にあの人が設置したの?」
「あいつしか考えられないですよ。ここって生徒さんも他の先生もまず来ないですし、入ってくるのは僕と教授と・・・まあバニーくらいのもんですから」
大学の研究室ってそんなに人が寄り付かないものなんだろうか・・・。
「・・・僕が起きたとき、あの人はソファで煙草ふかしてたよ」
「設置したあとだったんでしょうね。不用心ですよバニー。まあここはバニーだけにするときは鍵かけるはずですから、安心してても仕方ないか」
「鍵・・・開けましたって言ってたけど・・・」
「鍵なんて持ってないでしょうからピッキングでしょうね」
しばらく野分くんは部屋の中のあらゆる場所をアンテナで調べていたが、どうやらこれ以外に盗聴器は仕掛けられていないようだった。
野分くんは盗聴器をどこから持ってきたのか金槌でぶっ叩いて壊すと、残骸をゴミ箱に捨てる。
「ホームズっていうのは、どういう人なの?」
「ホームズって言うくらいなんだから探偵・・・なんじゃないですか? 僕もうざいってことぐらいしか知りません。なんか教授とただならぬ縁がありそうな感じなんですけどねぇ。ほら、モリアーティとホームズですし」
「モリアーティは野分くんが呼んでるだけなんじゃないの?」
「まあ、そうなんですけどね。かっこいいじゃないですか教授」
「そうだね・・・」
「割といい人ですし」
森教授は確かに面倒見のいい人だ。でもそもそもモリアーティ教授はいい人なのだろうか。悪役じゃなかっただろうか。あまり詳しくはないのでよくわからないのだが・・・。
野分くんは掃除用具を取り出して、扉付近をざかざかと掃除し始める。結構丁寧にやっているので、凝り性なのかもしれない。
「所で、今日はランドセルじゃないんだね」
「今日は土曜ですから学校はお休みですよバニー。これは習い事バッグです」
「習い事? 何を習ってるの?」
「古武術ですよ!」
意外な名前が出てきた。
「古武術っていうと・・・その、どんなの?」
「より実用的な体術、ですかねぇ。武器を持った相手に素手で対抗する技とか、拘束されたときにいかに振りほどくかとか、なるべく一撃で相手を沈める方法とか、頼めば着衣遠泳法とかも教えてくれるみたいです」
「へぇ・・・」
「師範代によれば、僕の通っている道場の流派・・・藤極流というんですが、元々は人ではないものと素手で対抗する技であったらしいですよ」
「へぇ・・・うん?」
なんだか耳慣れない言葉を聞いてしまった気がする。人ではない、というと・・・どういうことだろう。動物?
「つまり妖怪幽霊魑魅魍魎の類を拳で叩きのめすための拳法だったらしいです。真偽のほどは・・・あー・・・うん。わかりませんがね」
豪快な流派だなあ。
「じゃあ野分くんは喧嘩に強いんだ?」
「うーん。あんまり筋肉つかないので微妙です」
「そっかぁ」
「バニーは割と喧嘩強そうですね?」
「えっ」
野分くんは塵取りに塩を集めて窓から外に捨てると、塩の入ったケースを給湯室に戻してきた。にこにこ笑いながら正面のソファに座る。
「最初海から連れ帰ってきたときに服を引っぺがして見ました。意外と綺麗に筋肉がついてますね」
そ、そうか。そう言われれば納得だ。でも改めて言われるとなんだか恥ずかしくなってくる・・・。
「い、いや、なんというか・・・」
「何かやってたんですか?」
「・・・いや、とくにはなにも。・・・ただ」
「ただ?」
「避けるのと殴るのは、ちょっと得意かな」
「顔に似合わずアウトローですねぇ」
「恥ずかしながら・・・」
「お耳は痛くないですか?」
野分くんの顔をまじまじと見てしまった。確かに、濡れていたのだったら長めにしていても髪がまとまってしまうし、見えるのも不思議ではない。水は入っただろうけど、中耳炎などにもなっていないようだ。
「・・・何年かたってるからね、痛くないよ」
「危機が迫ったら言ってください。貴方の相棒ラッフルズこと僕が、どうにかしますから!」
「・・・うん、ありがとう」
その時にはなにもかもかなぐり捨てて、一人旅立つことにした方がいい。そう思った。
「野分くんはラッフルズが好きだね」
「バニーのことも好きですよ」
「そうなんだ」
「バニーのことも好きですよ」
「・・・?・・・あ!ありがとう」
「どうもどうも。でも、ラッフルズは特別です。物語のラッフルズも、数年前まで泥棒してたラッフルズも、僕のヒーローですから!」
「そっか・・・。ヒーローか」
「僕もあんなふうになりたいです」
「やめた方がいいと思うなぁ」
「なんでですかぁ」
ラッフルズはろくでもないから・・・。
本を読み返して改めて思った。
「そういえばこの前朝目が覚めたらここで寝てたよね? 次に起きたら居なかったけど・・・」
「あ・・・気が付いてましたか」
「うん、どうしたの?」
「えっと・・・ちょっと、教授とお話ししてたら・・・その・・・帰れなくなっちゃったものですから・・・」
野分くんは珍しく歯切れの悪い感じにそういうと、気まずそうに目線を泳がせた。
野分くんの家は時間帯によって行けなくなったりする珍しい建て方の家だったりするのだろうか。
「・・・泊めて貰いました。はい」
「ちゃんとおうちの人に連絡したならいいんだけど・・・」
「大丈夫です、家の人はいませんから」
あまりにさらりとしたその告白。僕はうっかりそれを聞き流してしまうところだった。
「・・・え?」
「いないんです、家の人」
「・・・それは・・・えっと・・・」
「じいさまはしばらく前から外遊中で連絡がつきませんし、父は元からいません。みひ・・・母・・・? うん、母は蒸発してしまいましたし、兄がいるみたいですが会ったことありませんね」
「じゃあ、その、野分くんは今・・・」
「家で一人暮らしと同然ですよ。昼間はお手伝いさんのトヨさんがいてくれるんですけど、夜には帰っちゃいますから」
「それって危ないんじゃ・・・」
「大丈夫ですよ」
有無をいわせぬような口調でそういうと、野分くんはにっこりとほほ笑んだ。それ以上の口出しは無用とでも言いたいみたいに。
「元気になったらスマホかケータイ買いましょう。連絡できないと困りますしね」
「・・・僕はお金が・・・」
「そのくらいは僕が出しますとも。僕は自分の顔と財力には自信がありますからね!」
「でも・・・」
「いいからいいから! さあ、今日の夜ご飯はどうしましょうかね」
そう言いながらスマホを取り出す野分くんは、出前サイトを覗いているようだった。
僕は野分くんの意外な家庭事情に、どう声をかけていいかわからないままでいた。