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RBM!!  作者: きぬがわ
×一匹 ○一羽
3/7

風邪っぴきブルース

 森教授の研究室でお世話になることになってしまってから一週間がたってしまった。僕の打撲は重度らしく、完治するまでは二、三か月かかるらしい。骨が折れていなくてよかった。

 だがしかし冬の海に放置されていたからか追い打ちと言わんばかりにえらい高熱を出してしまい、僕は今日も動くに動けず森教授の研究室のソファでぐったりと横になっている。

 打撲の方は一月もたてば動けるようにはなるだろうということで、とりあえず森教授からはその一か月間はここにいてもいいとのお許しをもらっている。だがその後は自力で場所を探せと言われている。一か月でも居させてもらえるのならこの上なくありがたい。申し訳ないがその好意に甘えさせてもらうことにした。・・・動けないし。一月もあれば熱も下がるだろう。

 もちろん出て行く云々の話は野分くんには内緒だ。彼にそのことを言ったら面倒なことになるに違いないとの森教授からの意見による。そのことについては、出会って間もない僕でさえ頷いてしまった。


「おっはようございまーす!」


 かちゃりと鍵を開けてから、その日も野分くんは夕方に森教授の研究室にやってきた。どうやら通っている小学校が終わると家に帰らずここに来ているらしく、今日も背中に深緑色のランドセルともう十二月だというのにトレードマークの膝上の短パンを身に着けていかにも元気な小学生という雰囲気を全身から放ちながら輝く笑顔で右手の体操服袋を振り回していた。見るだに寒いが本人はきっとそうでもないのだろう。子供は風の子とはよく行ったものだ。しかし左手に持っているスーパーのビニール袋とどこかの店のショッパーは学校帰りの小学生らしくはないかもしれない。

 話に聞くところ彼は現在小学五年生で、ひょんなことから森教授と知り合いになってほぼ毎日のようにここに通っているらしい。そのひょんなこと、についてはまだ何も聞いてはいない。少し気になる。

 僕は「様子はどうです?」と僕の顔を覗いてくる野分くんを見上げながら、ぼちぼちですと返事を返しておく。

 


「・・・今はもう夕方だよ、野分くん」

「その日の初めの挨拶はいつでもおはようございますなんですよバニー。夕方眠りから覚めても挨拶がおはようだったりするのと同じですよ」

「そういうのはおそようの方が正しい気がするなぁ」

「業界用語を批判するのはよくないですよバニー」


 野分くんは僕が寝ているソファの前のテーブルにランドセルと手にしていた袋類を置くと、その辺に放置してあったらしい耳ではかる体温計・・・耳温計? を取り出して差し出してくる。受け取ろうとした僕の手をすり抜けて野分くんは体温計を僕の右耳に差し込んでくるので酷く驚いて身を引こうとしたが間に合わない。野分くんはさっと身を引き、じっと計測の済んだ体温計の液晶画面を微妙な顔で眺めていた。

 良かった右で・・・。


「八度七分・・・四十度あったからまあ、下がった方ですかねえ」


 そう言って野分くんは電源を切ってから体温計をぶんぶんと振っていた。水銀じゃないから振るのは意味がないと思うのは僕だけだろうか。


「・・・いろいろすみません」

「いいえ、困ったときはお互い様ですから」


 野分くんはビニール袋から何かを取り出すと、「ちょっと待っててくださいね」と部屋の奥へ消えた。どうやら突き当りから左右に部屋が伸びているらしい。行ったことはないが野分くんの曲がった右の部屋は簡単な給湯室のようなところという話だ。

 裸白衣なんて恥ずかしい恰好はここにやってきた次の日に野分くんが持ってきてくれた部屋着のお陰で早々に卒業できた。それからは野分くんが毎度やってくるたびに新調した洋服や洗濯したものを持ってきてくれるようになっていた。そのたびになんとなく介護されている気分になって微妙な気持ちになるのだが・・・将来きっと本格的な介護をされる前にくたばっているのだろうからいい体験かもしれない。


「教授はいないんですね」


 野分くんは給湯室とは反対側の部屋を覗き込んでからこちらに戻ってきた。手にした水の入ったコップを僕に手渡してくれる。どうやらコンロに火がついているらしい音がする気がした。ごそごそと荷物を漁る野分くんは、ぽいぽいとこちらにものをよこしてくれる。


「はい、ひえぴたですよ」

「あ、ありがとう・・・」

「はい、着る毛布ですよ」

「あ、ありがとう・・・」

「はい、着替えとシャワーシートお徳用ですよ」

「あ、ありがとう・・・」

「はい、薬と薬を飲みやすくする砕けたゼリーですよ」

「いや、錠剤くらいはそのまま飲めるから大丈夫」

「えっ」


 鳩が豆鉄砲くらったような顔をされた。この子錠剤飲めないんだろうか。

 野分くんは何も言いませんでしたというような澄ました顔をしてゼリーを鞄にしまってしまった。なかったことにしたいらしい。

 ふうと、一つ息をついた。

 お世話になっているのはとても申し訳ない気分になる。早く打撲を直してここを出なければいけない。まあ、彼らは僕を死んでいると思っているだろうからそんなにすぐ何かがあるだろうとは思わないのだが、このまま世話になりっぱなしというのも悪い。でも早く治すには安静にして世話を受けなくてはいけないということになる。すごく微妙なサイクルだ。

 怪我が治ったら僕のことを誰も知らない遠くに行こう。そこで人生をやり直すんだ・・・。


「はいバニー、どうぞ」

「え?」


 手渡されたのは三冊のハードカバーの本だった。題名にはラッフルズとバニーとある。酷く懐かしくて仕方がなかった。


「暇でしょう?」

「・・・うーん」


 僕は部屋の端に設置された真新しいプラズマテレビをちらりと見やって苦笑した。


「あれがあるからそうでもない、かな?」

「そうです?」


 野分くんは昨日頑張って設置してくれた件の大きな画面のプラズマテレビの電源をリモコンでつけた。野分くんが僕が寝ているだけだと暇だろうからと言って持ってきてくれたものの一つだ。一体どこから持ってきたのかはよくわからない。まさか子供の野分くんが自分で買ってこられるような代物とは思えないし、家のものを勝手に持ってきたのだろうか。そうだとすると感心できない。


『―――では次のニュースです』


 テレビは淡々とニュースを報じる男性アナウンサーを映し出した。


『昨日、飴城台美術館に展示されていた時価一億円のオレンジダイヤのネックレスがアルセーヌ・ルパンを名乗る人物に盗まれました。朝開園準備の際、ネックレスが飾られていたショウケースの中から消えており、代わりにアルセーヌ・ルパンの名刺が・・・』


 近頃このルパンを名乗る怪盗が世の中を騒がせているようだ。基本的にはルパンというと三世しか思い浮かばないので、この人が何かをしたニュースを見ると自然と三世の顔が頭に思い浮かぶ。日本では元ネタよりパロディの方が有名なんて、罪な作品だ。洗脳というか、教育というか・・・いや、この二つは大して変わらないか。


「ルパンって精力的な泥棒さんなんだなぁ。今年で被害が五件目だって。いや、こういう人は怪盗と言った方がいいのかな・・・」


 そういって野分くんの方を振り向きかけて、僕は急いでテレビに視線を戻した。

 今、野分くんが、ものすごい顔をしていたような気がする・・・。

 こっそり野分くんの様子を横目で伺ってみると、それが気のせいでないことが確認できた。あんまり確認できたくなかった。

 野分くんは眉間に渓谷のような皺を刻んで、心底腹の立つ相手を見下すような視線でテレビの画面を睨見つみつけていた。顔がいい分そんじょそこらの破落戸より迫力がある気がするのはなぜだろう。こんなに若輩なのに。


「おのれ・・・おのれおっさん・・・ご近所でぶいぶいいわせおってからに・・・」

「の、野分くん、背中から何か黒いものが立ち上ってるけど・・・」

「くそう・・・くそう・・・むぅん」


 これはだめだ、話題を変えよう。えーと、何の話がいいだろうか。

 その時僕はふと空気中にただよう匂いに気が付いた。


「・・・なんか、焦げ臭い?」

「あ! しまった!」


 野分くんは慌てて給湯室に駆けて行くと、しばらく「あー」とか「うわー」とか言いながら何かやっているようだった。少し経つと、高そうな漆のお盆に器をのせて帰ってくる。


「・・・えへ」

「どうしたの?」

「今日はこれしか食べるものないんでがんばってくださいね!」


 そう言って野分くんはお盆を僕の目の前のテーブルに乗せる。

 そのお盆の上に乗っているのは・・・のは・・・なんだろうこれは。

 茶碗の中に入っているのはがっつり焦げた炭とのどろっとした緑色謎のものが混じったものに君のつぶれた生卵が乗っている・・・おかゆ? のようなものだった。おかゆで本当に合ってるんだろうかこれ。何か違うものに見える。こう、汚れた池に浮かんでる藻のような。


「・・・がんばってくださいね!」


 野分くんが念を押してくる。そんなに食欲がある方でもないのだけれど、せっかく用意してくれたのだし、文句を言える立場でもないので「いただきます」と一言断ってから小さな蓮華で一口いただことにする。


「さあ、ぐぐっと! 大丈夫です、見た目はやばそうに見えますけれど意外と食べられるはずです!」

「・・・はい」


 南無三。

 ぱくりと一口口に含むと、意外にもおいしい。雌株が入っているから緑色なのだろうか。ひどく香ばしいが見た目ほどやばいものではなさそうだ。今、卵の殻がじゃりっと言ったけれど。


「美味しいよ、ありがとう」

「よかったー」


 せっかく作ってもらったものなのだから、一通りそのおかゆのようなものを平らげて薬まできちんと飲む。そうすると野分くんは安心したように息をついて言った。


「大丈夫そうですね。教授がご飯作ると見た目が酷くて不安になるんですよねー」

「・・・森教授が?」

「何も入ってないといいですね!」


 何が入っている可能性があるというのだ。

 野分くんは楽しそうに笑いながら、僕の向かいのソファに勢いよく座って少々バウンドしていた。この子は本当に可愛いなぁ・・・見ているだけなら。

 そういえばここの研究室はちらほらと高そうな小物が沢山おいてある。

 たとえばこのご飯の乗っているお盆。黒の漆塗りに蝶の螺鈿細工、蒔絵も施された高級品のようにみえるのだが、野分くんはこのように普通に病人のご飯を運ぶのに何のためらいもなく使っている。

 たとえば森教授の灰皿。最近いつも使っていたらしいガラスの灰皿を(一体どうすればそうなるのか)割って壊してしまったらしく、野分くんが立派な細かい銀細工の美しい灰皿を新調してきた。本当の使用法は灰皿ではない気がするのは僕の気のせいだろうか。だが森教授は毎日ものすごい量の煙草をその綺麗な灰皿(?)でもみ消して、今や吸殻でタワーができている。

 たとえば、壁にかかっている浮世絵。あまり絵には詳しくないが、中学校の教科書か何かで同じ絵柄のものを見たことがある気がする。波と富士のダイナミックな一コマの絵。美しく細やかなタッチのその絵はなんとなく僕を引き付けるのだが、それが飾ってある棚の中は毎日日光が一番長く当たる場所で、劣化することなんて全く気にしていないようだった。

 たとえば入り口近くにある傘たてにしてある、野分くんくらいなら頑張れば隠れられるんじゃないかと思われるくらいの大きな壺。地味だが綺麗な色をしていて、日の当たり方によって綺麗に光を反射してくる。

 どれも高そうで、それなのに野分くんも森教授もかなりぞんざいに扱っているのでどきどきする。いくらするんだろう。大学の研究室に置いておくくらいなのだから、見た目ほど高級品ではないのかもしれないが・・・。やっぱり野分くんってお金持ちのお坊ちゃんなんだろうか。


『―――なお、飴城台美術館では特別展示として柄沢赤兎の描いた絵画が展示されています。この展示は十二月二十日までとなっており・・・』


 ・・・は?

 テレビから聞こえてきたアナウンサーの声を聞いて耳を疑った。

 いやそんな馬鹿な。


「どうしたんですかバニー?」

「え? あ、いや・・・」

「赤うさぎって可愛い名前の画家さんですね」

「いや、セキトっていうすごく足の早い馬が三世紀頃の中国にいてね・・・」

「ああ、知ってますよそれ。三国志ですね?」

「そうそう、それ」

「知ってる画家さんなんですか? 今度、見に行ってみます?」

「いや・・・気になるけれど、二十日までには間に合わなそうだから・・・」


 なんだこれ。何がどうなってこんなことになっているんだろう。わけがわからない。

 混乱している僕のことを野分くんは首を傾げながら眺めている。いや、これは、話題を変えておこう。


「そ、そういえばさ、この辺怪盗多いよね。ルパンもそうだし、江戸時代から街を騒がせてる怪盗鎌鼬とか、よくわからないけど観賞用の武器ばっかり狙っては返していく怪盗普通の格好とか・・・ら、ラッフルズとか」


 最後の名前を聞くと、野分くんの瞳がきらーんと光った気がした。


「ええ! ラッフルズとか!」


 ラッフルズはルパンと同じように本で描かれているラッフルズを元にしているのだろう街を騒がせてる怪盗の一組だ。数年前から活動したり休止したりを繰り返していて、今は丁度休止期のようでめっきり話を聞かなくなってしまった。

 どうやら野分くんはどちらのラッフルズもファンらしい。


「ルパンみたいに予告状を出すなんてもってのほかですよね! どうしてわざわざ捕まるリスクを冒してまで人をおちょくるような真似をするのか! やはり泥棒は泥棒らしく静かに! ミステリアスに! 闇にまぎれて! ラッフルズのように!」

「予告出したほうがフェアだとは思うけど・・・」

「いけません! それではアマチュアは潜り抜けられません!」


 泥棒にプロもアマチュアもあるんだろうか。・・・どちらかというとルパンがプロ、ラッフルズはアマチュア、というイメージはあるのだが・・・。まあ、言ってることはただしいのかもしれない。

 話題をそらすことには成功したが、また話題をそらせておこう。次の話題、次の話題・・・。


「も、森教授は一体何の先生なの?」

「えー、なんですいきなり・・・まあいっか。なんだっけなぁ・・・薬学・・・かな?」

「薬剤師とかなの?」

「いや、よくわからないんですよ。毒とか科学とかの知識が豊富だし、医者みたいに治療が的確だったり・・・研究室にはさっぱり生徒さん来ないみたいだし、なんでしょうね。医者の先生なんですかね?」

「野分くんも知らないんだ」

「お互いそんなに詮索とかはしませんからね」


 二人は僕に対しても深く事情をきいてこない。もしかしたら本当に僕のことがどうでもいいだけかもしれないのだけれど、それが彼らのマナーなのかもしれなかった。

 ところで本当にあのおかゆのようなものにはなんの薬も盛られていなかったのだろうか・・・不安で仕方がない。


「ま、僕は勝手にべらべらしゃべりますけど、教授はそういうタイプの人じゃありませんから。人見知りみたいですし。喋りたくなったらそのうちしゃべってくれますよ」

「そういうものかな」

「そういうものですよ。肝心なのは仲良くなること、親密度ですから!」


 数値化できそうな度数だ。


「バニーもそのうち話す気になったら、身の上話お願いしますね」

「・・・親密度が上がったらね」


 視線をテレビに戻すと美術館のニュースはすでに終わっており、今はもう本日の天気予報に話題が移っていた。


「毎日毎日飽きないな、のわ」


 ガチャリと鍵を鳴らして森教授が外から帰ってきた。両腕でかなりの量の紙の束を脇に抱えている。テストの採点だろうか。時々森教授は書類を持ち込んでここで仕事をしているらしい。


「教授おかえりなさい!」


 手に持った紙の束を置く間もなく野分くんが森教授に素早く飛びついたので、森教授はよろけて閉じた扉に思い切りぶつかってものすごい音を響かせていた。森教授は何もいわない。とてつもなく痛そうな音だったが大丈夫だろうか。


「・・・のわ」

「てへ、すみませんつい」


 教授の地獄の底から響くような声に対しても、野分くんは全く動じずいつものように人を舐めきったような態度で応じる。大物なのか、大物なのか。

 そういえば森教授は野分くんのことを『のわ』と呼んでいるらしい。名前の野分を略しているのはわかるのだが、なんだか可愛らしい呼び方なのでそのあだ名を聞くと微笑ましくなってしまう。

 野分くんはいきなり壁にかけてある電波時計を見上げると、少し何かを考えるように視線を動かしてから教授から離れた。


「じゃ、僕はこれで失礼しますね」

「もう?」

「日が暮れる前に帰らなくては」


 野分くんはランドセルを背負って荷物を手にすると、教授に言った。


「教授ー、家まで送ってくださいよう」

「断る」

「いいじゃないですか! 教授とゆっくり話したいことがあるんですよ!」

「私にはない」

「いいじゃないですかケチ! この物騒な世の中、夜小学生を一人で帰らせたりして僕が道行くショタコンに連れ去られてもいいんですか!?」

「いつも無事に帰ってるだろう」

「一日一日刻一刻とご近所の状況は変わっているんですよ!?」

「大丈夫だ、お前なら変態に遭遇しても逆にうまく飼いならせる」

「自信はありますがね!!」


 あるんだ、自信。


「私はやることがあるんだ。ごねてないでさっさと帰れ」

「相談したいことがあるんですー。ねぇいいでしょう?」


 野分くんはうるうると目を潤ませて教授を見上げて訴えている。教授はしばらくどぶ掃除当番を無理矢理押し付けられたような険しい顔をしていたが、もうすっかり聞きなれてしまった深いため息をついてこういった。


「・・・書類を置いてくる。待っていろ」

「やったー! 教授、僕のこと大好きですね!」

「そうなったら梃子でも動かないということを知っているだけだ」


 その後すぐ戻ってきた森教授と野分くんは連れだって研究室を出て行った。野分くんの家がどこにあるかは知らないが、すぐに帰ってくるだろうとの予想は裏切られてしまう。

 五時間、部屋で野分くんが置いて行った本を読みながら待っていたが、森教授は帰ってこなかった。




 夢を見た。

 うまい酒を手に入れた夢だ。

 ふわりと後ろから香る懐かしい独特の煙草の香りが鼻孔をくすぐる。

 ああ、なんだ君、いたのか。

 君も好きそうな香りの酒だから、すぐ来るんじゃないかと思っていたんだ。

 背後から紫煙が流れてくる。

 顔を見て話したいが、それは無理な相談だ。

 向かい合って乾杯をしたいが、それは不可能なことだった。

 どうしてだろう。

 いやそんなことはわかりきったことだ。

 一人酒を煽る。

 うまい。

 目の前が紫煙で曇ってくる。

 とろけるような酒の香りが、脳を侵して考えを鈍らせる。

 視界が紫煙で閉ざされた。

 一つだけ聞きたいことがあったのに、それがどんなことだったのか全く思い出せない。

 思い出せ。

 思い出せ。

 お前に聞きたいことは、なんだった?

 額に手を当てて必死に思い出そうとしていると、耳元でお前の声がした。


「もう酒はやめとけって言っただろう、バニー」


  



 はたと目が覚めた。

 体の内部が渇いている心地がする。

 天井は最近では多少見慣れてきた事務的な蛍光灯がある。光を放つのは休憩中らしい。


「夢か」


 つぶやいて、息をついた。

 ああ、喉が渇く。あの煙草はどんなブレンドだったか。


「夢か」


 ふと向かいのソファを見ると、そこでは布団にくるまった野分くんが眠っていた。うさぎのおおきな抱き枕に顔を埋めた姿はひどく可愛らしいが、どうしてこんなところで寝ているのだろうか。風邪がうつったりしなければいいのだけれど。

 眩む頭を抱えながら立ち上がり、野分くんを揺さぶりかけて、やめた。ぐっすりと寝ているのに、わざわざ起こすのも可哀想な気がした。起きたらちゃんと家に連絡を入れたか確認しよう。

 なんとなく、野分くんの頭を撫でてみた。固くて癖のある髪だがさらさらと指通りがいい。やはり誰かに似ている。誰だっただろう。

 しばらくそうして野分くんを撫でていると、もにゅもにゅと野分くんは何かを言った。みひろちゃん、と聞こえた気がしたが、一体誰のことだろう。友達だろうか・・・。

 もう一度、寝ることにしよう。

 人のことを気に掛けていても、きっといいことはないんだから。

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