うさうさバニー
「ですからぁ、いいでしょう?教授・・・」
「断る。これ以上の厄介ごとはごめんだ」
ぼんやりと濃霧の中に浮かぶような感覚の中、その会話はボリュームのつまみをひねっているようにだんだんと大きく聞こえてきた。
「そんなこと言わないで協力してくださいよ!」
「私は十分協力をしたつもりだ。そのせいでスマートフォンを一つだめにした」
「それは教授が自分でやったんでしょう?コーヒーカップにスマホドボンとかどんだけうっかりさんなんですか」
「お前がいきなり水死体を持ってくるのは悪くなかったと」
「死んでませんから! 生きてますから! 自分で診察したんじゃないですか!」
「そんなことはわかっている。だが拾った犬猫を人に押し付けるのは感心しない」
「あのー、拾ってきたのは一応人間なんですけど・・・」
「見ればわかる。だがお前のあれに対する扱いはそう変わらんだろう」
「僕のことをそんな風におもっているんですか?教授は酷い人ですねぇ・・・」
「そっくりそのまま、お前に返す」
「・・・。でもまあ、スマホが壊れたのを気にしているんだったら最新のに買いなおしますよ。僕、財力には自信がありますからね!」
「ではそれにプラスしてその自慢の財力でこの男の治療費をもらおうか」
「よろこんで! おいくら万円ですか?」
「一億」
「BJ! まるでBJですよ! 法外ですが、まあ教授にはいつもお世話になっていますしいいでしょう。一億円分の宝石でも美術品でも持ってきてあげますよ」
「休業中のくせに何を言っている」
「すぐ治しますもの!」
「・・・まあいいが、換金が面倒だ。現金にしろ」
「いいじゃないですか! めんどくさがらないでくださいよ!」
聞こえてくるのは二人分の声。無愛想な男と、高い子供の声のようだった。知らない声だ。
ゆっくりと目を開けてみた。事務的な蛍光灯が僕を照らしているのが眩しくて、もう一度目を閉じた。腕を上げて光を避けるようにして目を開き、鈍い頭は考える。
僕は死んだのではなかったのだろうか。やけに体が寒く感じる。あの世は騒がしい割に寒いのだろうか。それとも・・・。
体がだるい。頑張れば動けそうではあるが、丸一日はこのままじっと寝ていたいぐらいにはだるい。
目線を動かして、現在地の様子を見ることにする。自分が寝ているのは革のような材質のソファ、周りには鍵のかかるタイプの本棚が壁を埋めるようにそびえている。目の届く場所には声の主がいないらしい。
ふと着ている服が自分の服ではないことに気が付いた。この服はなんだろう。・・・白衣。白衣だ。多分、今それ以外は着ていない。これを着せるというのは一体どういう目論見なのだろう。ただこれしかなかっただけだろうか。白衣があるこの場所は、一体どこだろう。
「ねぇ、いいじゃないですかぁ・・・バニーをここに置いてくださいよー」
「断る。大体なんなんだそのバニーというのは。兎ならお前の学校の飼育小屋で十分だろう」
「この鬼畜眼鏡さん! 成人男性を飼育小屋で飼えと!? どこのエロゲですか!」
「・・・お前という子供は本当に将来有望だな。とても小五とは思えない」
「褒められておいてあげましょう。まあとりあえず、ラッフルズにバニーはつきものなんですよ。それに・・・」
「なんだ」
「彼、なかなか顔がよかったので僕と並んだらいい感じに僕を引き立ててくれるような気がしまして」
「もう黙れ」
「えー、モリアーティ教授のいけず!」
「変なあだ名をつけるな。・・・本物のラッフルズもこう会話にならないようなキャラクターじゃないことを祈るな」
「読むといいですよ」
会話を聞いて心臓に氷水を流された心地になる。
逃げなければ。一刻も早く。
手の指を動かしてみる。動く。足の指を動かしてみる。動く。そっと物音を立てないように、ゆっくりと起き上がろうとした。
「うっ」
予想もしていなかった腹部の激痛に、思わず呻き声を上げる。それと同時に楽しげに話していた会話が途切れたことに気が付いて、動いたことを後悔した。なんてことだ、一貫の終わりだ。
頭のある方向に出入り口らしき扉があるのを確認した。距離で言えば数歩だが、この腹を抱えてあの扉から逃げるとすると結構な時間がかかりそうだ。だがこの格好で表に出たとしたら警察に通報されたりするんじゃなかろうか。服、僕の服は一体どこに・・・。
「おっはようございます!」
「!?」
迷っていた僕の顔に突然覆いかぶさるように逆様の子供の顔が目の前に現れた。驚いて思わず再び起き上がろうと上体を起こして、ごち! といい音が部屋に響いた。今度は腹部の他に額に激痛のため再びソファに沈み込む。
今、誰かが近づく気配が全くなかった・・・ような・・・。
「痛い・・・痛いです・・・僕が何をしたっていうんですか・・・」
「ご、ごめん・・・」
涙目で額を抑えて訴える子供に反射的に謝ってしまった。
子供の様子と自分の痛んで眩む頭のことを考えると、どうやら頭同士が衝突してしまったらしいと考えるのが正しそうだ。だが体の痛みが思考を邪魔してそれ以上のことは考えられない。
「・・・あ、あれ?大丈夫ですか? 脳震盪とか、起こしちゃいました?」
そう言って子供は、我知らず蹲っていた僕の顔をそっと覗いてきた。その子はどうやらまだ小学生低学年ぐらいかと思われるぐらいの幼さのように見えた。心配そうなその顔を改めて見て、その綺麗な作りに小さく息をのんでしまう。
ニキビ一つない白い肌に見事に左右対称にできた顔のパーツが、神様が「自信作です」と言って頷いて作ったかのように見事に配置されている。きっと数年すると道行く人が男女とも振り返るような優雅な面持ちの人間に成長するのではないかと思わせた。僕の顔が映り込んでいる大きく少々気の強そうな目は、日本人には珍しい翡翠色をしている。蛍光灯の白い光を反射する黒髪は短いがくせっ毛なのかくりくりと可愛らしく跳ねていた。まだ性別がはっきりと表れていない中性的な顔をしている。どちらなのだろう。子供ながらにえらく美人で、目の色のせいか少し日本人らしくないように見える気がして仕方がなかった。昔、こんな顔を見たことがある気がする。
僕はあっけにとられていた。
「もし、もし、大丈夫ですか?」
はたと我に返った。役者のような子供の顔に見とれている場合ではない。
この子供はなんだろう。彼の関係者とはにわかには信じがたい。あれは子供が好きではなかった。この子は一体誰なのだろうか。
「すごい汗ですが、どこか痛みますか?」
「・・・いや・・・」
「そうですか」
子供はそういうと、えいやとばかりに僕の腹に容赦なくチョップを食らわせてきた。唐突に負傷部分を攻撃され激痛に思わず叫びを上げると、子供はうむと思案顔でうなずいた。
「腹ですか・・・教授、お腹がいたいそうです」
子供が部屋の奥の方へ声を飛ばすと、だるそうな男の声が返ってきた。男の方は部屋の奥から出てくる気はないらしい。
「打撲がひどかったからな。殴られるなり蹴られるなりしたんだろう」
「内蔵が傷ついたりとかはしてないんですか?」
「大丈夫じゃないのか。人間は意外と丈夫だ」
「法外な金を請求する割にはアバウトですね・・・」
僕が悶えているのを尻目に会話をする子供と男の声はひどく冷静だ。特に男の声は聞いただけで僕のことなど心底どうでもいいという気持ちが伝わってくるほど投げやりである。どうでもいいなら放っておいてくれればいいのに。僕を放っておかない理由は、目的は、なんだ。
「・・・あ、すみません。僕の名前は傘間野分といいます」
「のわき・・・ちゃん?」
「くんです」
「すみません」
即答した子供からめらりと何かが立ち上った気がして思わず謝ってしまった。この子供・・・い、いや、少年の放つ威圧感は一体・・・。
少年はこほんと一つ咳払いをすると改めて話し出した。
「ご察しのことかとは思いますが、海に沈んでいた・・・というか、浮いていたというか、とりあえず貴方を救い出した者です」
「・・・」
「・・・そう警戒しなくとも大丈夫ですよ」
「え?」
「僕は別に貴方をどうこうしようだなんて思っていませんから。貴方を沈めた関係者ではありません。安心していいですよー」
そういう少年は「怖くないよー」と野良猫に語りかけるように僕の方へ手を差し伸べてくる。呆然としていた僕が逃げも威嚇もしないと見るや、少年は僕の頭をよしよしと撫で始めた。完全に拾ってきた動物扱いだ。
・・・そうなんだろうとは思っていたけれど、やはり自分は生きていたのか。その事実が心に暗澹たる雲をもたらした。せっかくいなくなれると思っていたのに。
腹部の痛みはそろそろ落ち着いた。なんとなく手首を見ると、ぐるっと何かに擦れたような人差し指ぐらいの太さの傷がついていた。あの時自分を拘束していた手錠の跡だろう。認識すると、ひりひりと痛みを感じてきた。
にこにこ楽しそうに僕を見ている少年の顔を見ていると、どうにも彼とは相性が悪そうだと思えてくる。本当に僕を沈めた奴らとは関係がないのかもしれない。僕は若干安心してふうと息をついた。
「失礼ですが貴方の服は濡れていたのでこちらで洗濯しています。素肌に白衣は着心地悪いかもしれませんけど我慢してくださいね。いやあ、いろんな人がにやにやしそうな格好ですねぇ」
オヤジか、オヤジなのかこの子は。
「そうそう、勝手ながら貴方の素性がわかるものがないかと着ているものを漁らせていただいたんですが、残念ながら財布も免許証も何も持ってらっしゃらなかったので貴方のこと何もわからなかったんです。貴方の名前を教えていただけますか?」
少年は僕の寝ているソファの背もたれに頬杖をついて僕のことを見下ろしている。僕は黙ったままだった。
この子達はもちろん怪しげだ。不用意に名を名乗るのは危険なような気がする。色んな意味で。・・・色んな意味で!
だが僕が名乗らないのは別の理由からだった。
僕は死ぬことができなかったのだ。死にぞこないだ。だが、このまま自分のことを黙っていれば、前の自分を海の底に沈めたままにできるのではないだろうか。僕であったものを葬り去ることができるのではないか。今までのすべてと縁を切ることができるのではないだろうか。・・・あの時の僕らを忘れることができるのではないだろうか。
そんな淡い希望が、僕の前に星の光のようにちらついた。
「・・・」
「もしもし?」
「・・・」
「僕の言ってること、わかりますか?」
「・・・はい」
「貴方のお名前、わかります?」
僕は何とも答えることができず、僕は俯いた。すみません、と謝ることが精一杯だった。
少年は何か閃いたらしくぱっと顔を輝かせると「では!」と背もたれから身を乗り出してきた。やたらと整った顔が近くにやってきて、思わずのけぞろうとして腹の打撲に苦しめられる羽目になった。きらきらと輝く瞳からはなるべく視線をそらしておくことにする。
「帰る場所はありますか!?」
「・・・」
「ないんですか? ないんですね? 無一文で帰る場所もなく名乗れるような名前もなく何かの事情により人為的に海に沈められそうになり、生き延びてしまったからには待っているのは逃亡生活!! そういうことですね!?」
「・・・」
子供のまくしたてた事実になんだかひどく死にたくなった。こういうの、人生詰んだというのだきっと。ためらいもなく嬉々としてこんなことを相手に突き付けるこの子供の無邪気さなのか意図的なのかよくわからない希望に満ち満ちた笑顔がそこはかとなく憎いが、彼の言うことには頷くほかないだろう。
「ではここにいるといいですよ!」
「・・・は」
子供(台風の名がひどく似合っている)の言い放った言葉で、僕の思考は再び固まる。
ここは普通は追い出すべきだろう。
僕はこの子の言うとおり、無一文で帰る場所も名乗れるような名前もなく殺されそうになった、どう考えてもいいようには思えない厄介者だ。それをここにいろというのなら、何かを企んでいるとしか思えない。もしかしてさっきの宣言はブラフだろうか。だが相手はこんな小さな子供だ。子供がそんなあくどい事を考えるだろうか。いや、考えていたとしたらもちろん自分の身が危ないが、考えていなかったとしたらこの子の身に危険が降りかかるかもしれない。
それに何より先ほど耳にした会話がとんでもなく僕を不安に掻き立てている。
引き立てるって、なんだ。
「い、いや、僕は・・・!」
「何を勝手なことを言っている」
鋭い声にはっと顔を上げた。部屋の奥の棚に寄りかかって、一人の男がこちらを見ていた。おそらく子供と会話をしていた男だろう。それにしてもこの部屋一体どういう作りになっているのだ。
半々ぐらいに白髪の混じった黒髪が、まるで髪色がグレイのように見せていた。オールバックにした髪を後ろでちょろりと一つに纏めたその男は、猛禽類のような鋭い瞳で野分くんのことを見ていた。僕の方には細身の眼鏡の奥からちらりと視線を向けたけれど、一瞬目があっただけで心底嫌そうな様子で目をそらされてしまった。
髪の色のせいで結構歳のいっている方なのかとも思ったが、顔をよく見るとどうやらそうでもないらしい。三十代前半ほどであろうか。こちらの男も、野分と負けず劣らず綺麗な顔立ちをしていた。野分を可愛いと表現するならば、この男は美しいと表現するといいかもしれない。いや、更に正しく言うならば・・・クールビューティー・・・?
身に着けた白衣を見て、今身に着けているのはこの人のものだろうかと推測する。
「教授・・・やっぱりだめですか?」
「厄介ごとはごめんだと言った」
教授と呼ばれているこの男は、僕の寝ているソファの正面に向かい合っているソファに座る。男は二つのソファの間に置いてあるテーブルに煙草の箱を投げると、一本抜いてあったらしい煙草に蓋の小さな銀色のオイルライターで火をつけた。あまり似ていないがこの子の父親だろうか。
少年はともかく見たところこの男はビジネスライクな雰囲気なので、僕は不安を隠せない。何者だろうか。
「いいじゃないですかぁ、どうせ生徒さん達だって来ないんでしょう?」
「私は他の人間と共に暮らすつもりはないと言っているんだ」
「なんですか人嫌いぶっちゃって、この男やもめ!」
「私がいつ結婚したのか言ってみろ」
「えーっ、てっきり奥さんと死に別れてしまったんだとばかり思ってました」
「妄想も大概にするんだな」
野分くんは「じゃあ童貞かー」と頷いて男にものを投げられていたが余裕な表情でひらりと避けた。身軽な子だ。やがて彼は僕の方に笑顔で話しかけてきた。
「彼は森教授。司馬大学の先生なんですよ。僕は教授って呼んでます」
「准教授、だ。教授なんて大層な職には就いていない」
「准教授って長いじゃないですか。それにやっぱり呼び方は教授じゃなくっちゃ。ねえプロフェッサー」
「どうでもいいから早くでていけ」
「もちろん彼も人死にに関係するような犯罪には手を染めていませんので安心してください」
「厄介事はごめんだと何度も・・・」
「あ、ちなみにここは教授の研究室なんですよ。教授はここに住んでるんです」
「聞け」
「だからあわよくば貴方の寄生を許してもらおうかと思ったんですが、思いのほかお許しが出ません」
「当たり前だ」
「けち!」
二人のテンポのいい漫才のような会話を呆然としながら見ていた。そんな僕の様子など気にしないで野分くんは「さて」と話を進める。森准教授はそんな野分くんと僕を面倒くさそうに一瞥して早くも二本目の煙草に火をつけていた。
彼の顔を眺める。僕を遠ざけたいのは何かを知っているからなのではないかと疑ってしまう。知っているとしたら、それは一体なんだろう。
「ここにいる、いない、おく、おかないはさておき僕と貴方は知り合ったのですから、呼び名が必要かと思うんですがどうでしょう」
「・・・そう、ですね」
早口気味でとても滑舌のいいこの少年は、まるでどこかの特命係のボスのように後ろに組んでいた手を崩して右手の人差し指をぴんと立てて見せた。
「名乗れないんだとすると呼び方には困りますよね」
「・・・そう、なりますね」
「では貴方の名前を提案してもいいですか?」
「は、はい」
「バニーはいかがでしょう!?」
僕は再び身が凍る思いをした。凍結しそうな思考を回転させ、三種類ほどバニーの言葉で表現できるものを思い浮べたが、どれも自分を誤魔化すことはできなかった。
「・・・え・・・えと」
何か言わなくは。言葉を選んでいる間に、輝く笑顔の野分くん僕の寝ているソファの背から座椅子の部分に回り込んでちょこりと僕の腹の近くに座った。僕の身が(特に腹筋が)危険を感じている。
「ではバニーの暮らす屋根の話ですが!」
そして野分くんは笑顔のまま話を続ける。
その言葉を遮るために、僕は思い切って声を上げた。
「ど、どうして、僕を、バニーと・・・」
「え? それはもう、僕がラッフルズだからです!」
・・・ん?
自信たっぷりに胸を張って言ってのける野分くんは、どうだ参ったかと言わんばかりの顔をしている。ちょっと意味が分からない。
「・・・ラッフルズ?」
僕が野分くんの方を手でさして尋ねると、野分くんは親指で己を指して「ラッフルズ!」と答えてくれた。
「・・・二人で泥棒を?」
「E.W.ホーナング!」
「・・・」
「珍しく同士に出会いました! 英語、読めます? まだ翻訳されてない長編を読んでみたいんですけど・・・」
・・・ああ、そうか。
ラッフルズとバニーシリーズはイギリスの小説の一つである。作者はE.W.ホーナング、シャーロック・ホームズの生みの親であるコナン・ドイルの妹婿だ。イギリスでは人気の作品だが、日本ではマイナーな方に入る作品だろう。
・・・うん、そうか、うん、よかった。
ふしゅ、と空気が抜けた僕のことを野分くんと森教授は不思議そうな目で眺めていた。
ここは、安心だ。
「ではバニーの暮らす屋根の話ですが!」
それにしてもこの子僕の意見なんてはなから聞くつもりなしらしい。僕自身の意見がどうであろうと僕のことをウサ耳を彷彿とさせたりタイガーとバディ組んでそうな呼び名で決定する気満々なんだな。そのつもりならどうでしょうと僕に聞くのは詐欺のようなものなのではないだろうか。思わず乾いた笑いを浮かべてしまった。
「ねぇ教授ー。バニーは怪我をしてるんですから、動かすわけにもいかないですしぃ・・・やっぱりここに置くのが一番いいとおもうんですがぁ」
「何度断ればわかる。そんなにこいつを目の届く範囲においておきたいのか?」
「おきたいです! すごくおきたいです! なぜってバニーがいれば何か面白いことが起こりそうだから!」
何やら変な期待を持たれている・・・。
「財力に自信があるなら保険証なしで入院させるなり療養用の家を買ってやるなりしたらどうなんだ」
「忘れたんですか? バニーは追われてると思っていいと思うんですよ。だから一人にしたり信用ならない他人と一緒にさせるのはいけないと思いません? そうすると教授の秘密基地のが断然安全じゃないですか!」
「追われている云々には根拠も何もない。もしそれならばそれで逃げるもつかまるも本人の好きにさせておけ」
森教授の言葉に野分くんは唇をとがらせてぶーぶー言っていたが、その様子は夕ご飯を外食に誘っても一蹴されてしまってすねている子と親ぐらいのノリにしか見えず、とても僕の処遇について話し合っているようには見えない。僕って軽い存在なんだなと改めて感心してしまった。
実際自分は蚊帳の外なのだし、こっそりここから抜け出しても気が付かれないのではないだろうか。いや、先ほどの腹の痛みでは一人で動くのはやはり無理だろうか。それに今の僕の格好は正直言って変態だ。けれどなんだかこの二人にはこれ以上関わらない方がいいような気がするので早くお暇したい。だが会話になかなか入れるような隙がない。八方塞がりとはこのことだろうか。僕は人知れずため息をついた。
「目の届く範囲に置きたいが、金をかけるのはいやだ。そういうのならばお前の家に置けばいい」
「え、いやですよ」
野分くんのあまりにきりっとした顔の即答ぶりに泣きそうになった。
「いらないならもう一度改めて海に沈めて来い。放っておいてここで死なれても迷惑だ」
「え、あの」
「いらないわけじゃないんです!きっと彼役に立ちますから!住をどうにかしてくれれば衣食はどうにかしますから!絶対僕が面倒見ますから!だからここに置いてくださいよう!」
「そのパターンは後々母親がペットの面倒を見る羽目になるパターンだ。お前流にいうとフラグがたったというやつだな」
「いやだからその」
「お願いです教授!家賃はそれなりに出しますから!」
「一日百万」
「高い!! なんでもお金で解決しようとするんですね!? 大人って汚い!!」
「先に言い出したのはどっちだ」
だめだ、全く会話にはいれない。それにしてもこの二人どういう関係なのだろう。会話の内容からは想像ができない。
「それで、お前はいつまで駄々をこねるつもりだ」
「教授がイエスと言ってくれるまではずっとここにいますよ! 家にも帰りません! 小学校だって単位がたりないとかそういうことはないでしょうしね!」
「・・・」
森教授は吸い込んだ煙草の味が意外なことにひどくまずいかった、というような顔をすると天井に向かって煙の輪を一つ吐き出した。それを見た野分くんは黙ったまま拍手を送っている。森教授はそんな野分くんを煙草の灰が落ちる寸前まで溜まった洗濯物の山を見るような目で眺めていた。
分厚いガラスの灰皿の中身が増えた瞬間、森教授は大きく息をつく。
「おい、そこの兎」
森教授はいきなり不機嫌そうな顔のままで僕のことを見る。しばらく僕も森教授を見ていて、はっと気が付いた。
「え・・・あ、僕ですか・・・?」
「お前以外に兎と呼ばれているやつがどこにいる?」
バニーという呼び名ならば仕方ないかもしれないが、僕はここでも兎なのか。
「動けるようになるまではここにいていい。出て行きたいのなら好きにしろ。止めはしない。探しもしない」
「い、いえ、あの」
「やったー! よかったですねバニー!」
「い、いや、だから、あの」
「なんですか?何か意見がありますか?」
ああ、野分くんの笑顔が眩しい。この有無を言わせない雰囲気は一体どういう経緯で身につけたものなのだろう。どこか大物のお子さんだったりするのだろうか。
「・・・い、いいえ・・・」
僕がそういうと、野分くんは心から嬉しそうな顔をした。笑顔と一緒に花が咲き誇るような少女マンガ的な効果が脳内フィルターでかかったのを感じて、右手を仰ぐようにして打ち消した。
「僕が喜んでお世話しますよ! バニー! じゃあまず服のサイズと、好きな食べ物とか教えてください!」
「え、ええっと」
張り切って僕に質問を投げかけてくる野分くんの後ろで、もう一本煙草に火をつけた森教授が小さく一言こうつぶやいていた。
「・・・続けばいいがな」