Story-10 『おままごと』
わたしは仕事から帰ると、真っ先に妻のもとへ向かった。
ベットで眠っていた妻は、どうやらわたしの帰宅に気づかなかったらしい。二つの瞳を閉じたまま、ぐっすりと眠っている。
愛らしい彼女の寝顔を見ていると、起こすのはしのびなく思われた。夕飯まで眠らせてあげようと、わたしは妻の頬にひとつキスを落として立ち上がる。
*
一度私室でラフな格好に着替えて、それからキッチンへ向かう。エプロンをつけ、冷蔵庫を開けて材料を確認する。今日は一段と冷えたから、なにか温かいものがいいだろう。
冷蔵庫には、鶏肉、ニンジン、玉ねぎ、ジャガイモ、その他にこまごまとしたものが入っていた。
そう、昨日はカレーを作ったので、その余りの材料が大量にある。残念ながら、妻はあまりスパイシーなものは口に合わなかったようで、ほとんど口に入れることなく残してしまった。
しかし、これならシチューを作ることが出来そうだ。シチューなら、クリーミーだし、様々な食材を使うので栄養もある。じっくり煮込めば、野菜も柔らかくなり食べやすいだろう。
妻は少食だから、シチューだけで満腹になってしまうに違いない。
出来ることなら、そこに付け合わせのパンやサラダ、デザートにゼリーのひとつでも食べてほしいところだが、無理強いするのも健康に悪い。
もし妻が望んだら、いくらでも追加で作ることにしよう。恐らく、そんなことはないのだろうが。
わたしはため息をひとつつき、うんと背伸びして気持ちを切り替えた。
そうだ、わたしが落ち込んでどうするのだ。妻のために、美味しいディナーを作らなくては。
妻の安らかな寝顔を思い出し、わたしはふんと鼻をふくらませた。
さっそく、調理に取り掛かった。
*
ここまで読んで、多くの読者は気がついただろうが、わたしの妻は病弱である。
家事はもちろんのこと、日々の瑣末なことすらおぼつかない。
妻は、女として何もできないことを恥じるような素振りを見せるが、私はそんなことは気にならない。
愛しい妻を守ることが、夫であるわたしの務めだからだ。
そこに、面倒くささや煩わしさを感じたことは一切ない。
ただ、妻にわたしの傍にいてほしい。それだけが、わたしの生涯の望みだった。
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コトコトとシチューを煮込んでいると、ぷぅんと美味しそうな匂いが立ち込めてきた。
ヘラで時節鍋を混ぜながら、妻との思い出に心を巡らせる。
かつて、妻は、病気でやせ細り、薄汚れたみずぼらしい娘だったが、ともに暮らすうちに少しずつ変わっていった。
毎日風呂に入れてやり、身体を隅々まで洗ってやれば、薄汚れたなりはかなり良くなった。
ずっと家にいため陽に焼けることのなかった肌は、透けるように白く、ともすれば中の血管まで見えるのではないかというほどだ。
ほつれていた髪も、ちゃんとシャンプーで洗い、ドライヤーで乾かし、櫛で梳かしてやれば、見違えるように艶やかになった。
高価な服を買ってやり、着替えることすらままならない妻を手伝ってやる。
毎朝妻の髪を梳かしてやり、顔を洗ってやり、服を着替えさせる。そんな毎日が、わたしにとっては何物にも換え難い日常だった。
*
出来たてのシチューを器に盛り、妻を呼びに彼女の私室に向かった。
妻はまだ眠っていて、規則正しい寝息をたてている。
私は苦笑して、妻の骨ばった肩を揺らし、声をかけた。
妻は、わずかに唸り、目を開いた。まだ覚醒はしていないようで、寝ぼけまなこである。
わたしは妻に夕食が出来たことを伝えて、自力で歩くことが出来ない妻を抱え上げる。
なすがままの妻が、わたしの胸に小さな頭をもたれかけるのを見て、じんわりと胸が温かくなった。
*
まるで子どものように軽い妻を椅子に腰かけさせ、首にナプキンを巻いてやる。
妻がうっかり食べ損ねて食べ物を落としてしまったとき、服を汚さないためだ。
わたしは、今日は自信作なんだよ、と笑いかけ、妻の隣に腰かけた。
本当は、向かい合って楽しく談笑しながら食事をしたいのだが、妻は自らの力で食事をすることが出来ない。
食器を持つことも、食べ物を口元まで運ぶことも出来ないのだ。
だからわたしは、すぐ隣でその補助をしてやらなければならない。
全然苦ではない。年の離れた弟が赤ん坊の頃、よくしてやったことだ。
木製の匙にシチューをのせ、ふーふーと冷ましてやる。熱々のほうが身体が温まるだろうが、舌を火傷したら大変だ。
ほどよく冷ましたところで、妻の口元に匙を運ぶ。
しかし、妻は口を開こうとはしなかった。
食べないの?と聞くと、俯いてしまう。
少しは食べたほうがいいよ、と言っても、妻は頑として口を開けようとはしなかった。
昨日食べていないこともあって、そんなんじゃいつまでたっても病気は治らないよ!と、少し強く言って、無理やり口内に匙を滑り込ませる。
半開きだった妻の口にシチューは入っていったが、飲み込まれることはなく、まるで舌に押し返されるように、デロリと零れ落ちた。
ビチャ、と妻の膝にそれは落ちた。そのとき、初めてわたしはハッとした。
熱くない!?と叫び、慌てて布きんで服を拭う。
妻は火傷はしていないようだったが、わたしはついカッとなってしまった自身を恥じた。
ごめんよ、本当に火傷しなかったかい、苦しかっただろう、無理言ってごめんね。
妻はわたしの言葉に、微かに首を横に振った。
わたしは妻の心の広さに顔をくしゃくしゃにする。
涙を堪え、妻の服を洗濯機に入れ、そのままお風呂に入れてあげた。
結局、妻は、また何も食べなかった。
*
入浴を済ませ、妻の髪を乾かした後、一緒のベッドに入って、妻の大好きな本を読んであげた。
妻は、心なしか、楽しそうに見えた。
そうだ。病気がなんだ。食べないからなんだ。妻は妻だ。妻の笑顔を守っていきたい。
いつの間にか、妻は眠ってしまっていた。その天使のような寝顔にキスをし、私は自室に戻る。
ベッドに横になり、日中の仕事の疲れもあり、すぐさまウトウトし始めた。
明日も、妻を中心に、わたしの一日が始まる。
妻を起こし、顔を洗ってあげることが、第一の仕事だからだ。
こうやって、眠りに落ちる寸前まで、わたしは妻のことを考えている。
そう、今日も妻は具合が悪そうだったが、きっと出会ったそのときよりは……。
あれ?
妻は初めて出会ったとき、どんな格好をしていただろうか。今よりも具合が悪かっただろうか。それとも、今よりはマシだった。
そもそも、妻とはどこで出会ったのだったっけ。
病院か?
けれど、わたし自身、生まれてこの方病気一つしたことなく、病院になどここ十年ばかり行ったことがない。
もしや、車いすか何かで散歩をしていたときに、わたしたちは出会ったのか。いやいや、妻には、自力で車いすをひくような力などない。
そもそも、妻とは言うが、それならわたしは彼女と結婚式を挙げているはず。けれど、その記憶もない。
わたしは、いつから彼女と暮らし、いつから彼女の世話を焼き、いつから彼女を妻と呼ぶようになったのか。
わたしは、一体何をやっているのだ?
ドクンと心臓が跳ね、焦燥にも似た感覚が身体を突き動かす。
そうだ、わたしは知らない。あんな女を妻などと。世界一愛しているなどと。誰なんだ、あの女は。
助けを求めなくては。誰に。警察?それとも悪魔払い?
しかし、恐怖が募れば募るほど、わたしの頭は水を吸ったスポンジのように重くなる。まどろんでいく。
怖い。もしや、わたしはこんなことを毎日繰り返しているんだろうか。
ただ、怖い。忘れていくことが怖い。怖い。
*
朝、今日は快晴のようで、カーテンの隙間から朝日が差し込んでいる。
このようにいい天気だと、妻の体調も少しは良くなるだろう。わたしは、嬉々として妻の私室に向かった。
やはりまだ眠っていた妻を優しく起こし、横抱きにして洗面台に連れていく。
洗面器に水を張り、さぁ、顔を洗いなさい、と妻に言った。
まだ眠いのか、一向に動こうとしない妻に苦笑し、わたしは妻の背中をそっと押してやった。
バシャン、と派手な音を立てて妻の頭が洗面器に突っ込んだ。
あぶくひとつ立てず、妻の頭は髪ごと洗面器に沈んでいる。
わたしの腕が、妻の頭を押さえつけているのだ。
今まで身動きひとつしなかった妻は、やはり今も抵抗しなかった。
数分して、わたしは妻をそのままに、外へ飛び出していた。
感情のままに叫んでいた。そこに言葉はなく、なにも考えずに、獣のように咆哮した。
やがて、わたしの絶叫を聞きつけた近所の者がしかるべきところに通報し、わたしは屈強な男達に引きずられるように、どこかへ連れて行かれた。
*
果たして、わたしの愛する妻とはなんだったのか。
わたしは彼女がわからなくなってしまった。妻は人間だったのか?人形だったのか?それともこの世のものではなかったのか?
いや、人間でも、人形でも、死体でも、幽霊でも、なんでもよかったのだ。
わたしは確かに、あのおままごとが楽しんでいた。
かくして、わたしは病院に入れられた。
病弱だった妻に近づけたようで、わたしは少しだけ笑った。
END
今の子供がするおままごとって
とんでもなくリアリティが高いですよね……