意地
「結局,人は自分が信じたいことを信じたいだけなんだ.それ自体に意義も道理もなく,積み重ねて上塗るのは嘘か見栄か,意地くらいなものなんだ.だから,本当に信じることはその実,純真であるべきだけど,余計なもので見えなくなってしまってるんだ」
「その言葉自体も,嘘か見栄か,意地の結果か?」
俺の問いに,彼はさも当然のように答える.薄暗い外灯の光が控えめに彼の顔を照らしていたが,彼の身の回りの物全てが彼の言葉を邪魔しないように静かに耳を澄ましているようだった.吹く風の音も静かに,輝く星の光もチラチラとしている.本日の月はちょうど綺麗な三日月型をしていた.
「そうだね.僕が信じたいものだって,おそらく純真で,僕自身でさえ言葉で表現することが難しいものだと思うんだ.誰だってそういうものがあるんだって,僕は考える」
「世の中の人全てが何かを信じてるわけがないと俺は思うけどね」
「それはきっと気のせいだね.気づいてないだけさ,そんなのは.人は大なり小なり信じるもの,信じたいものがあるはずさ」
「その根拠は?」
「そんなのは簡単さ.信じるもの,信じたいものがなければこんなゴミみたいな世界,生きようと思わない」
「それは簡単だな」
至極当然に答える彼に,思わず俺は笑い出してしまう.そんな反応に,女顔を膨らませる.
「何がおかしいのさ」
「いや,おかしいというか,最初の言葉は甘いのに,理由が予想以上に悲観的だったからさ.その心は?」
大喜利のように俺が相槌を入れると,納得いかないという表情を隠さず彼は言葉を続ける.
「僕はこういう甘さは悲観的な状況なほど必要だと思うんだ.指針がなければ,攻略本も何もないこの世界でどう生きればいいか分からない.そもそも何も持ち合わせずに生きていくことなんて出来ないはずさ.誰しも何かしら考え,行動し,明日も,その後も続く毎日を生きていくんだろう.そうした考えの先,行動の先が信じたいものになっていくんだろう」
「考えも行動も止めた人たちはどうなるんだ?」
「死ぬんだよ.そういう人は,生きていたとしても死ぬんだよ.人として,生物として」
近くで鳴く蛙の声よりも大きく,風の音のように歌うように語る彼に少しばかり嫉妬してしまう.自分には彼ほど声を大きくして言えることがない.小さな虫の音にも負ける自分の矮小さに気づいてしまう.
彼のような堅固さを羨ましい.古びて乾いて簡単にはがれてしまう,この小さな公園の椅子のような自分の考えがとても恥ずかしく思える.言いたいことすらも簡単に風化させてしまう自分が嫌になる.
「……分からないな」
「それは分からないふりをしているだけではないの?」
「どっちなんだろうな」
「生きながらにして死ぬ,なんて言葉,そういう今更使い古された言葉について,僕は改めて講釈するつもりはないよ.でもね,思い思わず考えない毎日が正しいはずがないんだ.あぁ,これがよもすると,僕の”信じたい事”なんだろうね」
自虐的な彼の笑みさえも,羨ましくなる.でも,多分これは嫉妬なんかではない.嫉妬という気持ちさえもうまく組み立てられない自分が情けない.
「君がどんな風に俺を評価しているかは分からないけど,俺は君が思うような人間ではないよ.俺には君のような考え方なんて,多分いつまでたっても出来ない.……ちょっと違うのかもな.多分,俺は俺自身でそういう考え方をすることに,ひどく怯えているのだと思う」
ちょっとずつ言葉を綴る.絡まる蚕の糸を解き編むような,そんな感覚がした.湯立つ身が至極ざわつく.四指が,四肢が解けていくような,そんな感覚がした.
「多分これが俺にとっての嘘で見栄で,意地の結果なんだと思う.強がりっていう表現の方が正しいのかな.いろんな事を突き放して,思わず考えないようにして,あれはだめだと決めつけて寄せ付けない.そういう自分の歪さに,あまり自覚がないのかもな」
「君は歪でないと,僕は思うよ.ただ君が人よりもちょっと潔白なだけなんだよ.それがとても嘘っぽくなるのは,その実当たり前なのかもね.だって,普通ではないもん.あぁ,これは確かに見栄と意地の結果ではあるのかもね.見栄と意地がなければ,こんなにも純真でいることは見るのかもね」
そう言って,彼は邪気なく俺に笑いかける.
彼の無条件の賞賛に俺が傷ついていることに,おそらく彼は気づいているのだろう.急き立てているのだ.なぜそうしているのかは分からない.彼が俺に何を期待しているのか分からない.
でも,しばらくはこの嘘と見栄と意地に,引っ張られてみてもいいのかもしれないと,少し思ってしまった.