馬鹿
頭の悪い現実が目の前を通り過ぎる。しかし、それと同じくらい頭の悪い俺はそれをただ茫然と眺めていた。ごうごうと、もうもうと。そういう思慮の欠ける表現がとてもよく似合う光景だった。きたねぇ花火だなと思った。
「明日からどうするの?」
「さぁな」
「何が、さぁな、よ。あなたのことじゃない」
「とはいっても、な。こうもよくも燃えると、どうでも良くなってくるだろ」
昔から注意力が欠けるとか、集中力が低いとは言われてきた。だからといって、落ち着きがないわけではなく、周りがどんなに騒いでいてもそれにつられてしまうことはなかった。それどころか、当たり前の情動すら俺にはなかったように思う。
熱い。寒い。眠い。目の前から放出される熱と、季節として当然の寒風、普段はとうに寝こけている時間。ふと気を抜くと、明日は遅刻するだろうなぁ、なんて寝ぼけた考えを抱く。周りのうるさい音や声でどうにも考えというものがまとまらない。何でもいいから早く寝たい。
「あ」
大きな音とともに、目の前の建物が倒壊していく。およそ、俺の半生を語る上では、まぁまぁ必要な場所だ。俺の手の内にあったであろうものが煤となり、中空を漂っていく。なぜか両肩が軽くなったような錯覚を覚えた。
「おじさんやおばさんは?」
「分からない」
「そう」
いつまで経っても姿が見えないという事は、つまりはそういうことなんだろう。助けに行きたい気持ちはあるが、さすがに無茶である。留まるのが吉。
彼女の横顔を見る。どうにも、口端が上がっているように見える。憶測ではあるけれど、この予想も間違っていないんだろう。
「……」
現状すら呆けたように見つめることしか出来ない俺は、何かに向かっていく勇気なんていつまで経ったって身につくことはないのだろう。真実が何であろうと、俺はただ望遠するだけなのだ。いつだって、どこだって、色々なことを他人事に捉えるのだ。
現状を正しく知覚することは出来る。ただ、考えることも反芻することもない。おそらく、自分に降りかかる現実を全て当たり前だと考える.頭上から降る雨や雪に気を払うことなんてない.それは当たり前のことなんだから.当たり前のことに気を払うほど,俺は細かい性格をしていない.
「しょうがない」
「そうね、これは多分、しょうがないことなのよ」
微笑む彼女に、呆れる。もう少し、分かりにくければいいのに、と思う。分からないままの方が気が楽だ。
「私はあなたに隠すことなんて何もないから、隠す気がないだけだよ」
どうやら口に出ていたらしい。どうにも居た堪れなくなり、頭を掻く。髪に煤がついている。
難しいことが分からない代わりに、そういう分かりやすいことにはよく気づく。およそ感情的な、衝動的なことに関してなら他の人よりもよく分かった。ただ、それに対して何もしないからこそ自分は愚かなんだろう。 まぁ、いいさ。そういう安直な思考停止こそ、自分の愚鈍さの最たる所以なのかもしれない。
「君が何をして、どうしたかとか、理由とか感情とか、いいんだよ。俺も、こうして目の前の現状がどうなろうが、どうでもいい。あったものが予定よりも早く無くなっただけなんだから」
良し悪しの問題を問うていない。俺にとって現状とは、渡されて飲み込むだけのものだ。最低限、自分の命がここにある以上、他に考えることはない。
「あなたが死んでしまったら、と少し心配だったのよ」
彼女は一瞬だけ悲しそうに表情を変えるが、すぐに心底安堵したように俺の手を握る。
「思ってた通り、あなたはここにいて、全て察した上で私の隣にいてくれる。それ以上の結果がどうしてあるのかしら。予定通り、あなたは身一つの、あなた自身のみ残ってくれた」
朗々と彼女の言葉が流れていく。あぁ、そうか。自分に付随する他全てをリセットしたかったのか、と納得する。そういう考え方もあるのか、と少し感心する。
「おそらくこれから俺は親戚中をたらいまわしにされるだろうけど、もしそこでここじゃないどこかに落ち着いたら、どうするんだ?」
「もちろん、今以上の状況が出来るだけよ」
予想と違わず至極まっとうに彼女は答える。
「この考え方が間違えであることは分かっているのよ。でも、間違えであると分かっていても、自分の心に嘘をついてまで我慢することでもないでしょう。この考え、あなたになら分かってもらえると思っているけど
」
その彼女の信頼に、俺は素直に答えることはできなかった。その優柔不断さも含めて、俺の頭の悪さ所以なんだろう。決断も、判断も、決定もしない。それをするのは本当に、ただ純真に願った時だけだ。本当であれば、この状況にも俺は何か思わなければならないんだろう。この状況に、自分の奥底のあるべき権利とか何かを最大限に発散し、無力な自分に絶望するべきなんだろう。
「正直、君のその考え方になんて同意を示せないけどね。でも君が俺に対してそういうイメージを持っているなら、そうなんだろうな」
こんな、投げやりな言葉に彼女は笑って答える。多分、俺に対してその程度の期待しか抱いていないんだろう。おそらくそれが彼女の期待していたものだったのだろう。
彼女は俺の手を強く握り、少し自分に寄せる。捕まってしまったのだろうか、と何の気なしに思う。彼女は昔からこんな風に独占欲を満たしていた気がすると振り返る。
空を仰ぎ見る。星なんてよく見えないこんな町で、地上の邪魔な光の中でなおのこと見えない星が今日はなぜか見える気がした。
「あなたの、恐ろしく浅ましく、狡猾な様が私は好きよ」
その言葉に俺は思わず頬を緩ませる。それが自分を表す言葉としてしっくりきていた。
いつからそうだったのか覚えていない。いつからか俺は色んな重荷を削っていた。最初に関係を、次に情動を。親の愛情が分からなくなったのはいつだっただろうか。まぁ、これからは気にする必要もないのだけど。
「私に勝手に死ぬなんて、絶対だめだからね」
彼女のそんな一言に、俺はただ笑ってごまかすだけだった。
おそらく、これからも。