逃避
もがくのは、気に入らないからだ。何もかも全てが気にいらないからだ。だから、相手も自分傷つけながらも、自分のわがままを貫こうとするんだ。損得とかそういうものじゃない。自分がそうしたいからそうするのだ。
後悔も自責もし続ける。でも、それでも、どうあっても。結局、自分の身の内で壊されるか、身の外で壊されるかの二択なんだ。
だから選択したんだ。自分の中のものを大切にすると。それがじぶんなんだから。
「わああぁぁぁ!」
暗い、足元さえも見えない道を駆ける。身体が熱くなるのとは逆に、虚脱感が身体を地面に張り付けようとする。
振り返る。まだ、追って来る。
ダメな自分が駄目だったのだ。そんな事は分かっている。何もかも、自分の弱さが原因なんだ。全部自分のせいなんだ。自分がもっと上手くやれば良かったのだ。
その方法を自分は知っていた。知っていたし、それを実行するための下準備のし高も全て知っていた。何もかも、知っていたのだ。
でも、でも、でも……。
足元で生い茂る草で皮膚が切れたのが分かった。無理な方向転換をするために木々を掴む。もう指の先まで汚れてしまっている。
逃げることばかり上手くなっていく。最短の逃げ道が視界に投射される。
出来る事なら、死にたかった。この世界に繋ぎとめるこの身体から抜け出してしまいたかった。自分というものに未練なんてない。未練なんて、あるはずがないのだ。
「っ!」
もう、自分が何に追われているのかも分からなくなってきた。
過去も、今も、未来も、他人も、社会も、家族も、友人も、金も、立場も、尊厳も。自分を形作るものですら全てが、自分にとっての逃避対象な気がしてきた。
こんな思いをされる感情すら、自分は否定したいのだ。
雨が降り始める。先ほどよりも足元が滑りやすくなる。何度も転びそうになる。でも、転びはしない。そうしているうちに慣れてくる。
いっそのこと、転んでしまえば良かったのかもしれない。転んでしまえば、全て終わってくれたのだろう。
結局のところ、自分は何がしたいのだ。
そうまでしてなぜ自分は生きているのだ。そうまでして、自分は何を望んでいるのだ。
自分の生き汚さの理由は何なんだろうか。
「夢も、希望も、愛も、勇気も、度胸も度量も欲しくないんだ! 自分が欲しいのはそういうものではないのだ! 本当は欲しくなんてないんだ! そういうものに縛られたくないんだ!」
パッと、視界が一瞬白くなる。限界がきたのだろうか。
気がついた時には自分は倒れていた。暗い、泥みたいな疲労で身体が動かない。
思考がまとまらない。
急速に身体が冷えていく。自分の吐く息だけが妙な温かさを放つ。
走らないと。逃げないと。追いつかれる。
サッと、右横に誰かが立っているのが分かった。自分を見下ろす視線を感じた。
その人はうつ伏せになる自分を足でひっくり返す。
そこには、自分と同じ顔をした何かがいた。
「どうして逃げるの?」
それは自分に問う。
「逃げるために」
「何から?」
「全てから」
「全て?」
「ああ、全てから。自分は全てから逃げだしたいんだ。本当は、この身体からも逃げだしたい。感情もいらない」
自分の周りのものからも、全て。およそ思いつく限りの全てから、自分は逃げ出したい。
「これは逃走であり、闘争なんだ。全てを敵に回して行われる、孤軍奮闘の戦いなんだ。味方も、希望もない。負けることが確定された戦いなんだ」
「そんなことに意味はあるの?」
「意味は、ある。意義も、ある。自分の中に。この戦いは、負ける事に価値があるんだ。」
吐き出される言葉が虚空に呑まれる度、自分の目が熱くなる。
「それが結局、何になるのよ」
「何にもならない」
「じゃあなんで……」
その問いに、自分は答えない。答えるための言葉を自分は持ち合わせていない。
自分の同じ顔の何かは、ひどく悲しそうな表情を浮かべていた。
「自分と同じ顔をして、そんな表情を浮かべないでくれ」
「そっちだって、同じ表情を浮かべてる癖に」
言われて、自分の表情を撫でる。雨で湿ってる以外、よく分からない。
「いつまでそうしてるの?」
自分の顔が近づく。いや、よく見ると、少しばかり造形が違っていた。もっとこう、自分よりも女っぽい顔をしていた。体つきもそれに追随するものだった。
「あと少し」
結果として、自分は再びこうして連れ戻されてしまうのだ。
いつの間にか雨が止んでいる。
曇った空が視線の先より見える。
「……本当に、気に入らない」
全てを内包する何かが、頭の上を通り過ぎた気がした。
気付かなければ、こんなにも駄目な自分にだって、何か一つでも上手くいったのかもしれない。
推論の域を出ないものに、自分を預けたくないのだ。
確かなものが欲しい。
要するに、そういうことなのだろう。