メフィストフェレスの誘惑
かさ、ぺらり。
さっきからページをめくる音がやけに大きく聞こえる。ときに、「ふひゃぁ、中で出てりゅぅぅ」だの、「やぁぁ、触手の赤ちゃんできちゃうぅぅ」などとアグネスが独り言を漏らす以外には、誰も口をきかない。
アグネスは長椅子で横になり、神愛は爪を噛みながら恐い顔をして熟読中。汀はというと、持ち込んだ私物の座布団の上で横座りしている。椅子よりも床の方が落ち着くのだそうだ。
彼女が座った様は、一幅の水彩画のような清らかさだ。白い肌、こころなしやつれているような横顔。背景にするなら水仙や梅の古木が相応しい光景だ。
彼女はひどくまじめくさった顔をして同人誌を熟読している。ときおり、「なるほど」「そうだったのですね」などと独り言を漏らす。その様子からして、部外者が見れば、彼女が手にしている本は明治の文豪が書いた古典か詩集以外には考えられないだろう。
だが、残念ながら彼女が読んでいるのは、数年前にテレビアニメ化して人気を博したライトノベルのヒロインが、大変なことになってしまう内容の本のはずだった。
――なんて残念な子。
哀れみ混じりの眼差しで汀を眺めていると、僕の視線をキャッチして、彼女はやんわり微笑んだ。つられて僕も微笑む。
汀は本の表紙を隠すように膝に置いた。
「どうした?」
「ええと、希介君、良かったら教えてもらえますか」
「いいけど……」
僕は同人誌に特に詳しいわけではないが、全然知らない人よりはマシだろう。
「この本には、よくイジメたりイジメられたりがお好きな方々が登場しているのですが――」
そこで躊躇するように言葉を切る汀。
「ああ、うん。よくあるシチュエーションだね」
「アクメ顔とはなんですか?」
「アク……メ?」
汀……。沈黙を破って、最初の会話がそれか……。
ふと向かいに座った神愛の視線に気づく。眉をしかめて不機嫌そうだ。女子二人の目にさらされて、その質問にどう答えろと? 毎年正月にうちに来る親類のエロ話大好きなオッサンなら、喜び勇んで説明するだろうけど。
僕は鼻の頭を掻く。
「それは、その――」
「おや、知らないのか?」と神愛が口を挟む。
「そんなことないぞ。そうだ、確かこんな感じだったかな……。メフィストフェレスって知ってるよな」
神愛は怪訝な表情でうなづく。
「それが関係あるのか? ゲーテの『ファウスト』に登場する、何でも望みを叶えてくれる悪魔だろう?」
「そうそう、それ。アクメというのは、あるキャラクターが肉体への強烈な外部刺激に耐えていることを示す表現で、『悪魔メフィストフェレスの誘惑に屈せず戦う、心強き乙女の苦悶の表情』って意味じゃなかったっけなあ。『悪魔メフィストフェレス』を略して『悪メ』=『アクメ』だな」
少々無理やりすぎたか。まさかこんなデタラメ信じる馬鹿がいるわけ――。
「なるほどです。だからこの子たち、アクメ顔をしながらピースしているのですね」と汀は一人で納得して、ポンとてのひらを叩く。
「以前映画で見たことがあります。ナチス占領下のフランスで、レジスタンスの勇敢な男女が、最終的な勝利を信じ、抵抗の現場に残したという『勝利のV』。それのオマージュなのではありませんか?」
神愛がさも感心したかのように汀を誉める。
「ふむ、なるほどな。さすが汀はよく歴史を知っている。なあ、希介」
「お、おう……」
……まあいいか。
いつしかアグネスは読みつかれて居眠りをはじめていた。汀と神愛は黙々とストイックに読み続ける。
ときおり、無言で読み終わった同人誌を机に戻し、適当に新しいのを一冊引き抜く。そんな単調な時間が続いた。
僕はといえば、表紙絵やタイトルで自分の好みではないジャンルっぽいのを選んでは、適当に目を通していた。もし、マイ・フェーバリットな作品をまかりまちがって引き当ててしまったら……かなりマズイ。実は密かに、直立歩行するには少々サワリがある状況なのであるからして。
というかこの状況、なんという拷問なのだろう。誰得なんだかさっぱりわからない。
「希介……」
いきなりの切ない響きを帯びた声に驚いて、神愛を見た。彼女の顔は髪に隠れて陰になっている。思い違いでなければ、肩がかすかに震えているようだ。
僕は腰を浮かせて尋ねた。浮かせただけ。というか、直立できません。
「気分でも悪いのか!?」
神愛は目の下をピクピクと引きつらせ、眉間に皺を寄せている。
「お前たち男という生物はこんなことばかり考えていたのか……同じ人類という種に属しているからといって、少々買いかぶり過ぎていたようだ。脈絡もなく主人公の男にぞっこんの女とか、都合の良い妄想ばかりだ。しかも女を孕ませることしか考えていないではないか。それにこのセリフ。『赤ちゃんでてくるとこ見て欲しいよおっ』『もう出さないで! そんなにかけられたら、おっぱい孕んじゃう~』とかさ、もはや意味不明なんだけど。なんなのだ、おっぱいが孕むって。読んでいる方が自殺したくなるレベルだぞ」
おいおい、自殺レベルのセリフを自ら口走るなよ。
言いたいことを吐き出して、神愛はフイッと横を向いた。
彼女の顔は、夕陽のせいでは片付かないほど、赤く燃えている。僕も自分の頬が上気しているのを意識した。
「あのなあ。別に問題ないだろ。同人誌ってのは同じ趣味の人間が妄想を発表する場なんだし……」
「同じ趣味……そうだったな。ん、そんな胡乱な目でわたしを見るな、触るな変態め。まさかお前、『俺のせ、……がクラス女子のし、……にテレポートし過ぎて困る』の主人公、精飛亜のつもりか。こっち見るな!」とわめき、へその下あたりを両手で隠すようにする神愛。
「触ってないじゃん。胡乱な目はしてるかもしんないけど」
なんだこいつ、こういうの全然平気なのかと思ったら、意外と耐性ないのな。
とりあえず、アグネスの真似をしてからかってみる。
「クトゥフフ、遮ったところで我のテレポート能力は防ぎ得ぬ。クオオ……」と片手を神愛にかざす。
「だめっ。やめろこの馬鹿、見るな!」
神愛は鞄をひったくるように取ると、それをお腹に押し当てた。そして、神通力あらたかな十字架ででもあるかのように、勝利のVサインを僕につきつける。
「うう、くそお、こんなもんに内的救済なんかあるかぁ!」
神愛は部室の戸口で振り返って叫ぶと、脱兎の勢いで部室から逃げて行った。
あらら、からかい過ぎたか。思い込みの激しいやつ。
ぺらり。隣では、今の騒ぎが耳に入っていないかのように、汀が熱心にページをめくる。
……汀よ、何がお前を、そんなにも薄い本にかき立てるのだ?
僕は首をかしげて汀の横顔を眺めた。