すべては許されている 2
というわけで、栄光の歴史に恵まれたSF研に三個の卵が託卵されたわけだが。困ったことにそのうち一個は、部室でたった一つの長椅子に長々と寝そべっている。邪魔なことこの上ない。
「おい、起きろ」
と乱暴に起床を訴えるも無視された。
そんなに強力なスタンガンじゃないはずなのになぁ? と首をかしげる僕を肩で押しのけた神愛が、低い声で警告する。
「珊瑚、いい加減にお前、内的救済活動をやめろ」
むにゃむにゃ、などとテンプレートな寝言を漏らしつつ、眠りを貪るアグネス。その寝顔がどことなくぎこちなく感じるのは気のせいだろうか。
神愛は溜息をついて諦めたように力なく言う。
「ふむ、仕方がない。希介、スタンガンを貸してくれ、もう一度ショックを与えてみれば目を覚ますかもしれん」
即、むくりと起き上がるアグネス。眠っている人の耳に煮え湯を注ぎこんでも、これほど素早くは目覚めないだろう。
「ん? おお、これはどうしたことか。どうやら気を失っていたみたいだ」
「なんだ、気を失ったのはフェイクだったのか?」
どんだけ上手なフェイクだよ。
「クトゥフフ、バレたか。いかにもフェイクだ。良い内的救済を味あわせてもらった。少々わいの貞操が危険にさらされはしたが、まあ許容の範囲内だわな」
「貞操の危機なんて微塵もねーよ。っていうか、例の排泄事件の釈明をしろ。もし正当な理由があったんなら、懲罰を与えずに済むだけの情状酌量の余地が見つかるかもしれないし、僕的にも気が楽になる」
「よろしいっ」
アグネスは芝居がかった仕草でポーズをとる。
「このアグネス・ファトウス御自ら説明してしんぜよう」
もう、自分からイグニスではなくアグネスと言っているが、面倒なので指摘はしないことにする。
「なに、単純明快なこと。わいは大いに背徳を為していただけなので、ありをりはべりいまそかりっ」
「はぁ?」
マジで意味がわからん。
「フッ、わからんか。そうであろう、これは凡人には難解な理論。無理もない」
「天才なんだろ? 僕にもわかるように天才的に説明できなきゃ、天才とは言えないぞ」
「ぬ、そうか。わかった、天才的に説明するから絶対に理解するのだぞ。ゴホン。わいはな、この部室のエアコンを点けっぱなしにして電力を浪費し、見ず知らずの他人に過失の濡れ衣を着せ、悪徳の極みをみせつけようとしておったのだ。だがなぜだろう、わいはいざ悪徳を実行しようとすると、猛烈な腹痛と下痢に襲われる習性があるのだ。難儀なことである」
アグネスはドヤ顔で説明をしめくくったが……意味がわかりません。
だが驚いたことに、居並ぶ神愛と汀は、「ガッテン、ガッテン」と大きくうなづく始末。
あれ、僕の方がおかしいのかな……。
「ってことはさ、SF研のエアコンをツケッパにして、僕を罪に陥れようと?」
大きく首肯するアグネス。
「うむっ。……まあ、例の件はイニシエーションの儀式とでも――」
ビリッ。
「いまそかりっ」
スタンガンを押し付けられたアグネスが、床から十五センチ余り垂直に飛び上がる。
「あ、あにふんでふかぁっ。ゆるしゃれない、ぜんぜんゆるしゃれないよ、しょれっ」
ガクガク震えながら、ろれつが回らない舌で抗議するアグネス。
「だからエアコンの制御盤の前で毒カレーを漏らしてやがったのか。判決、有罪。電撃の刑。残念だが情状酌量の余地はゼロだったな、許されざるものよ」
「判決の前に刑を執行してるのでありをり(略……」
アグネスはどこかうわの空で、力なくラ変を語尾に付け足した。そして、ニヘラァ……とおもむろに笑みを浮かべた。
「あ、でもこの痺れの拘束感、けっこう癖になるかも……うへへ」
笑ってるんですけど。やばい、電撃の後遺症か?
「うへへ、いひひ……」
長椅子に寄りかかり、虚空を見つめるアグネス。あーあ。
「ナギサちゅああん、あのスタンガン奪って、わいにもっと電撃してぇ、してぇっ」「お断りします」などという会話を交わすアグネスたちをクールに一瞥して、神愛は肩をすくめた。
「さて、アグネスはステータス異常になってしまったようだし、説明は私が引き継ごう」
ダンボール箱から飛び出している丸めたポスターを適当に引き抜くと、それを指揮棒のように掲げた神愛が前に進み出た。
「すべては許されている。これが誰の思想かわかるか」
唐突な質問だ。当然わからない。
「無知なやつめ」
神愛は長身をそびやかして言い放つ。言いたい放題だよまったく。
「ドストエフスキーが小説の中で語ったことだ。彼はこう訴えたのだ。人は何をしてもよい。この世の法も道徳も人を縛ることはできない。人は神のように自由な主権者たるべきなのだ、と」
「そうとう昔の人だよねその人。にしてはムチャクチャなアナーキストだな」
「そうだろう。だが、この『全部許されちゃってるよ教』を広めたのは、彼が最初ではない。もっと前の時代に先駆者がいる。ドナチアン・アルフォンス・フランソワ・ド・サドだ」
「サドって、あのサド?」
「そうだ。珊瑚はサド公の悪徳哲学に自我の保障を求めているのだ。つまり、悪徳の実践こそが、彼女の生きる目的になっている」
なんだってそんな馬鹿なことを考えたんだ? まだ年端もいかぬ中学生が、そんな末法思想に染まるなんてあり得ないだろう。
アグネスを確認すると、まだ長椅子の上で電撃の快感に悶えている様子。彼女にサドの気質は感じられない。むしろドマゾっぽいんですけど。
「うむ、その指摘はもっともだ。サドとマゾは表裏一体、サドにはマゾの資質が必要だし、マゾにはサドの資質が必要なのだ。そう考えれば、痛みの快楽に打ち震えるアグネスの、この哀れな痴態も納得だろう」
「うーん……納得はできないけど理解はできるかな」
にしても、サドだのマゾだの大声で語る女が、この部室にかつていただろうか。SF研の先輩方は草葉の陰で涙を流していることだろう。――たぶん喜びの涙を。
だって、この男の園に女が三人(しかも美人ばっかり)が集っているのだよ。宇宙誕生以来、鉄の意志で貫かれてきた自然界の物理法則が、この部室でスポット的に緩んでしまったのか? だとすると、この世の理なにするものぞ、といきり立って、霊界から懐かしの部室に突入してくる先輩の霊がいてもおかしくはないだろう。
いや、たぶん先輩たちはまだ一人も亡くなっていないという事情はともかくとしてね。
「ここから『善悪の秘密』という悪徳哲学の最重要部分だからよく聞け。テスト出るぞー」
「出てたまるかよ」
シンプルな僕のつっこみに、片眉を上げることで答え、上機嫌で神愛は説明した。
「理性にしたがって忠実に考えた結果、サドは次のように考えたの。盗みが悪ならば、どうして自然は人の間に能力や性格の差をつくったのかと。
例えば学校に置き換えて考えると、わたしたちにはみんな学習能力や運動能力に差があるわね。どうしたってテストをすれば成績には上下の差が生まれる。でも学力が低くて成績がふるわなくても、それを“悪”とは言わないでしょ。
逆に成績が良くてもそれは“善”じゃない。成績を上げるために努力して、他人を追い落として成績順位を上げることは悪ではない。ならば、生まれつき能力や容姿が劣っていて、生きていく力が強者に劣る人が、富める強者から盗みや詐欺を働くことも悪ではない」
そんな無茶苦茶な。
「自然がもたらした力の不平等によって、富に差が生じる。つまり、富は分配能力の不平等による貧困の存在を前提とする。それなのに、貧しい状態に置かれた者が、動員可能なあらゆる手段を講じて富の不平等をくつがえそうとする行動が悪だと言い切れるのか? 力の不平等はもともと自然が与えてくれた性質だというのに。もし富の不平等をくつがえす盗みや詐欺が自然に反しているならば、はじめから自然は人間に力の不平等を認めなかったのではないか?」
「待ってよ。確かに成績が悪くても自分だけの責任だけど、富を盗むことは全然別の話だろ? それって、他人のものを奪うことになるじゃん」
「他人のもの? 所有権の源流まで遡ると、そこには力による強奪しかないのだよ。日本中が焼け野原になった戦後すぐのことを考えてみて。大勢の人が亡くなって、役所に保管されていた土地の権利書も灰になってしまったとき、力づくで他人の土地を自分のものにした人たちがいた。そういった自分の欲望に忠実な人たちは戦後大金持ちになったけど、それは違法なことじゃないの?」
息継ぎもそこそこに神愛は続けた。
「法律はしょせん人間が作った約束事だ。この世の善とか道徳と呼ばれているものは、人間がつくった枠に過ぎない。自然はそんなもの決めていない。だから、自然によって命を得た人間には、すべてが許されている!」
「いや、ものには程度というものがだな……」
「偉大なる先駆者・サドは、社会的に価値があるとされているものを破壊し、蹂躙することで、道徳の自己欺瞞を暴露するのが快感だった。悪にすらも普遍的な善性を認めようと試みる、真の革命家だったのだ! さすがはサド哲学。そこに痺れる、憧れるゥ!」
はい、僕のいうこと聞いてねえ。
「世間一般のカビが生えた道徳などにしがみついて、私は立派な大人ですよー、なんてドヤ顔している人間は、自然の欲望を押しつぶして我慢して、それで安全を買っているつもりの卑怯者だ。そんな狡猾な人を善と呼ぶなんで、それこそ欺瞞、自然に対する冒とくじゃない。
もっとつきつめると、悪をなすことで覚える罪の意識などというものは、犯した罪が露見してペナルティを課せられるのではないかという小心が招く、利己的な感情に過ぎないのよ」
「…………」
だめだこいつら……言ってることはいちおう論理的だけど、完全に過激派だよ。危険思想だよ。
「お前もそんなこと信じているのか?」
「誤解しないでよね希介。悪徳哲学は私の好みじゃないけど、私の超人哲学にちょっとは通じるものがあるから理解を示しているだけだ」
神愛はアグネスが作った王蟲とリングワールドの祭壇に顔を向け、厳粛に正対した。
「この祭壇がアブラクサスを祭っていることは聞いた? アブラクサスというのは、とっくの昔に見捨てられたある宗教の神様で、神的なものと悪魔的なものとを結合する一つの神性の名。……そうだったわね」
いつの間にか復活していたアグネスは、長椅子に暗い面持ちで腰を下ろしている。
「そーそー。悪をも含んだ全世界を、わいは崇める。善だけでは世界の半分しかカバーしてないもんね」
僕の顔を眺め、アグネスはクトゥフフと笑った。
「心配するな、わいは心底から最善と極悪の神を崇めているわけではない。アブラクサス様は単に、わいの哲学の一つの象徴として借定したまでのこと。クトゥフフ、宗教とはつまり、わいらが心穏やかに生きていくために必要な聖なるおとぎ話に過ぎぬ。つまりわいの悪徳哲学は、わいのだけのおとぎ話というわけ。キスケ、わい許されてるでしょ?」
「許されてるのかもしれないけど……SF研の中では悪徳哲学の実践は封印だからな」
「良いぞ良いぞ。その程度の交換条件ならウェルカムだ。クトゥフフ、これでやっと腰をおちつけて真理を探究できるのう」
「真理の探究って、具体的にはどうするんだ? 何をしたいんだよ」
「決まってるじゃない」
神愛が髪をかきあげ、腰に手を当てる。そして、何かを与えよう、もしくは奪い取ろうとでもするかのように、手のひらを下に腕を突き出した。
「この無意味な世界で、わたしたちが人生を捧げるに足る対象を見出す――それが、わたしたちスーパー・フィロソフィ研究部の活動内容だ。共に『いかに生きるか』を探るのだ、同志よ! 生きる目的にできそうなことを、片っ端から試してみるのだ!」
なんだろう、この神愛の無駄な力み方。はなはだ不安なのだが……。
グレゴール・ザムザがまどろみの中に感じたような漠然とした不安は、次の日に現実化することになる。