哲学の園
あのあとのことをお話しよう。
人間の価値は全て等しい。その原則を体現するのが法律というものだ。いくら正当防衛とはいえ、神愛や僕も、人を傷つけたことで警察の事情聴取と現場検証を受けることになった。
完全な正義などというものが子供向けの物語の中にしか存在しない概念である以上、仕方のない手続きだった。
僕が意図していた汀救出のシナリオでは、もっとエレガントに汀父の悪行を陽の下に引きずり出す予定だったのだが、その目論見はあっさり引っくり返ってしまった。
汀が自殺したと警察を信じさせ、レイプの証拠(捏造ともいう)もつきつけてのっぴきならない立場――まあ、一言で表現するならば地獄――に汀父を叩き落してやるつもりだったのだが。
まあ、しょせんは付け焼刃、その場しのぎの計画だったのだから、このへんの体たらくが妥当な結末なのだろう。僕の頭の傷は三日月形のハゲになってしまうかもしれないけれど、その程度で済んだのは幸運だったのだ。
汀父は傷が癒え次第、横領教唆と横領物収受の罪で逮捕されるだろう。あとは東京地検に送検、今年中には公判という流れになるんじゃない、と刑事課の人が教えてくれた。
僕たちは傷害で、汀は未成年者に対する強制猥褻で被害届を提出することを勧められたけど、そのつもりはなかった。そこまでするのは、オーバーキルというものだ。
それに。
仮に汀父が刑務所から出てきたとしても、僕たちに危害を加えるおそれはまずない。なぜならあのとき、僕が携帯で録音した音声が、汀父への充分な脅しになるからだ。彼も保険金詐欺の容疑まではかけられたくはないだろうからね。
汀はアグネスと同じ給費生に認められて、香桜学園に残ることができた。柔軟な対応ととってくれた学校には感謝しきりだ。
きっと、世の中は僕が思うほど悪いものではないのだろう。
◆
僕はドアを前にして立つ。
この物理的障壁の向こうに広がるのは、哲学の園だ。
そう、もちろんここは県立高校ではない。僕の部室、僕の香桜学園だ。母には悪いけど、拝み倒して学園に残るのを許してもらった。
僕のような貧乏人が入学するなど、本来なら絶対に考えられない学校だ。なにがなんでもしがみついてやる。そのためなら、「全ては許されている」の最強呪文を唱えて、どんな手を使ってでも、現れた敵を叩き潰してやるからな。
自恃だ、ただそれだけが人の行ひを罪としない、か。うーん、至言だねえ。
神愛がいつか言っていた、スーパー・フィロソフィ研究部の活動内容――それは、『人生を捧げるに足る対象を見出す』こと。
いいぞ、一緒に探そうじゃないか。内在化せし神ってやつを。
いつもの牛乳が入ったビニール袋をぎゅっと握り締め、僕は意を決してドアを開いた。
隙間から光が溢れ、僕の顔に、エアコンディショニングされた心地よい風が吹き付けた。ゆっくりと瞼を開き、用意していたクールな台詞を口に出そうとして――舌先から言葉が蒸発した。
アグネスが真っ先に僕を発見して、無邪気な笑顔を浮かべた。
「ん、おおキスケ、やっと来たのか。重役出勤ってやつか?」
「な、なにしてんだ、お前ら……」
神愛が振り向きざまに、悪戯好きな天使の――いや、割と善良な方の悪魔のような微笑みを浮かべ、逆に問い返した。
「何に見える?」
「強いて言うとね――」
「うんうん」
神愛は、僕の前でくるりと一回転してみせた。長い髪はポニーテールにまとめられている。
「――オタクに見えるね」
「そうだろう!」
慶喜に耐えぬ、いといった風情で顔をほころばせる神愛。
神愛――ついにとうとう、いかれてしまったのか?
「ん? なんだ、そのかわいそうな生物を高みから見下ろすような目つきは」と唇をとがらせる神愛。
「今度は何をやらかす気だ?」
神愛と汀とアグネスが即答した。
「決まっているだろう」
「決まっています」
「決まっておる」
神愛はバックパックに丸めたポスター的な物体を突き立て、ジーパンにワイシャツをインした格好で。
汀はグリーンを基調にした迷彩服に武骨なアサルトライフルを片手にした格好で。
アグネスは『一-三 おにい』と個体識別も明確なスクール水着に、浮き輪を配した格好で。
「夏休みは世界最大の同人誌即売会で内的救済だ」
「まともな人間は、死ぬか気が狂うという、戦場を疑似体験してみませんか?」
「プールで一斉放尿して、悪徳の極みをみせつけるのでありをりはべりいまそかり!」
わかったわかった。つまり夏休みが待ちきれないんだな。よくわかるよ。
僕は苦笑いを浮かべ、おもむろにベルトを外した。支えを失ったズボンが、足下に力なく落ちる。
「キスケェェェェ!」とアグネスが絞められた鶏のごとき悲鳴をあげる。
さすが天才の呼び声も高いアグネス、素晴らしいレスポンスタイムだ。
「わっ、希介君! えええ!?」
間隙開きまくりの指で、目を覆う汀。お約束だね。
神愛は腕を組んで、ニヤニヤしている。
汀たちの反応に満足して、僕は更にワイシャツのボタンを外した。そして、露出狂がコートをフルオープンさせるがごとく、胸元をバッと大きく開く。
歴史あるSF研部室に、悲しいかな、淡いピンクのブラジャーを着用した男が出現していた。おまけにガーターベルト付きの黒ストッキングを装着。
ある意味、完全体である。
いない。親が見たら泣く格好ランキング、安定上位ゆるぎなしのいでたちだ。
「お、おま、おま――」
アグネスが僕を指差して、ちょっとヤバめに同語反復。
おま――なんだい? オヂサンに全部言ってごらん。
「お前、なにやってんだぁー!」
はい、よく出来ました。
「決まってんだろ」
僕は落ち着き払った紳士の物腰で、哲学娘たちに提案した。
「来るべき夏休みは、コスプレで内的救済を図ってみようぜ!」
「…………」
汀とアグネスは神愛を見た。
神愛は菩薩のごとき笑みを浮かべ、僕に告げた。
「それ、コスプレじゃなくて、ただの女装癖だから。じゃ、風紀委員のところに出頭しようか」




