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セイドレ 2

 わたしは頬を硬いものに押し付けていた。夢をみていたのか、それともまだ夢の中なのかわからない。


 父の声が聞こえる。


 頭を上げようとすると、首に鋭い痛みが走った。目を開くと、フローリングの床が映った。それに、床の振動。誰かが地団駄でも踏んでいるのか。


 そうだ、わたし家に戻って、ゴミ箱をあさっていたところで、父に後ろから抱きつかれたんだ。


わたしのお尻を撫で回す、父のいやらしい手つきを思い出して、鳥肌が立つ。


違う。この体、わたしのこの体の反応を思い出して、鳥肌が立ったのだ。あれは単なる生理的反応に過ぎないはず。そのはず。そのはずよね? 


 残念ながら、その答えはわかっていた。


 信じたくないけど、わたしはそうなのだろうか。


 わたしの父は横領犯で、人を人とも思わない人間だ。


 今でも父の愛を信じて、口を貝のようにつぐんで服役している母。父はそんな母の想いを、当然のごとく裏切って、他所の女の人と盛大に遊んできたような人間だ。そしてわたしの半分は、あの男からできているのよ。わたしが実父の愛撫に感じるような、どうしようもない淫乱女だったとして、どこに不思議があるのか。


 ああ、愛と自己犠牲の道徳方程式ですら、わたしを救えない。誰も救わない。


 頭の中に、ネオンサインが点灯する。黒い光を放つそれは、一つのメッセージを表示している。


 ――やはり、オマエは死ぬべきだ。


 不規則に明滅するそれから、目を放すことができない。足がからみついて、逃げることもできない。


 ごめんねみんな。わたし、やっぱり本当に――。


 「ごはぁっ」


 鈍い音と同時に、強化ガラス製のテーブルが砕けて、わたしの手元まで飛んできた。


 我に返って、首をそちらに巡らす。


 視界に入ってきたのは、額から血を流した――希介君だった。


 なんでここに?


 決まっている。外で待機していた希介君が、わたしの悲鳴を拾って駆けつけてくれたんだ。


 さっきわたしは、父に寝室まで引きずられて、ベッドの上にモノのように放り出された。制服のままのわたしに手錠をかけて、悪い霊に憑かれたかのように乱暴に、わたしを組み敷こうとするお父さん。   


 そのとき、希介君が父を突き飛ばした。ついでにわたしもベッドから弾き飛ばされたのだ。


 「希介君っ」


 わたしの叫びのせいで、希介君は注意をそらされたのだろう。父のくり出したフックがみぞおちにめり込んで、希介君は前かがみになってよろめいた。


 ゴルフ焼けした父の顔は、怒りが加わったことで、ほとんど黒に近くなっている。


 「オラァッ」


 フルスイングの蹴りで、希介君が窓際に吹き飛んだ。


 「やめて!」 


 「どこのノラ猫じゃゴラァッ」


 希介君は、新たな蹴りが入った瞬間、父の足をつかんで胸元に引き寄せた。


 父は手近にあった重たいフラワーグラスを頭上高く振り上げた。バスローブがはだけて、首にかかった金のネックレスが大きく揺れるのが見えた。


 ああ、希介君が殺されてしまう!


 「やめて、お父さん!」


 足に力を入れて、立とうと試みる。わたしは手錠のせいで自由にならない腕に苛立ち、歯ぎしりしたくなった。


 振り上げられたフラワーグラスは、高速度撮影の世界と化したわたしの視界を、ゆっくりと弧を描いて横切っていく。


 間に合わない!


 白いぎらつきが、矢のような速さで迫るのに気づいたときには、もう勝敗は決していた。


 揺れる長い髪、突き出された腕、そして細い刀身のレイピア。玄関ホールの壁に掛けられた一振りの剣が、父の肩から突き出していた。


 「ぐおっ」


 父はくぐもった悲鳴をあげた。無言で、傷ついていない方の腕を後ろ手に伸ばすが、剣の柄に届かない。


 「まだ仲間がいやがったのか。んん、貴様、女か」


 神愛は、素早く傷ついた方の腕を殴った。


 「ぐっ」

 父は目を大きく見開いた。汗が父の額に吹き出しはじめていた。


 「やめて、お父さんが死んじゃう」


 咄嗟に叫んだわたしを、神愛は冷たい瞳で見下ろした。


 「私達は受精したその瞬間から死にはじめているさ」


 神愛とわたしの受け答えを耳にして、父ははじめて怯えの色をみせて身を縮めた。


 「お前たちは何者なんだ。金か? 金なら渡す。いくら欲しい」


 「全部だ!」


 少しもがいて立ち上がった希介が、強欲な要求を突きつけた。彼は素早く神愛に目配せする。わたしには、父から見えない角度で電話のサインを示した。


 わたしは後ろ髪引かれる思いで廊下に出ると、家に戻る前に渡されていた、希介君の携帯を取って戻った。


 希介君たちは父の両脇で威圧するように立っている。上背のある父の姿が小さく見えた。


 「救急車を呼んでくれ、とても痛いんだ、頼む」


 父は血走った目をぎょろつかせて、希介君と神愛を交互に見た。


 「黙れ、お前がトランスアロー・インターナショナルから横領させた金だ。二十四億だったな」


 「なあ頼む、そんな金は――」


 神愛がレイピアの柄を指で弾いた。不意をつかれた父が悲鳴を漏らす。神愛は父の襟首をつかみ、巧みに膝を突いて跪かせる。神愛がカラテを習っていたのは本当なのね、とわたしは思った。


 「近親相姦野郎が、人並みに直立するな。そうだ、四足の動物が相応しい」


 ドスを利かせたその声は、女が出せるとは大抵の男が知らないし、知りたくもない部類のものだった。


 携帯をわたしから受け取った希介君は、慣れた手つきで操作すると、すぐに厳しい視線を父に向けて言った。


 「いくら盛大に浪費しても、まだ十億は残ってますよねえ。それとも黒神とかいう女に全部吸い上げられたましたか?」


 父が目を剥いて、ぜいぜいと喘いだ。


 「な、なぜあいつのことまで知っているんだ」 


 神愛は、仔猫やウサギのような小動物なら、視線を浴びただけで気を失いそうな目付きで、父を見据えた。


 「さあね。女を殺して保険金をせしめる目論見だったなら、おあいにくだったな。女は全部知っている」


 「あいつがそう言ったのか。馬鹿な。そうか、お前らみたいなガキがこれを計画したわけがない。あいつの差し金で動いているんだろう、そうだな!?」


 父の顔色は土気色に変色していた。そしてわたしを正面から見据えて、聞いたこともないような哀れっぽい声で懇願した。


 「お前たちは騙されてるんだ。全部あの女の、黒神の妄想だ。お父さんが保険金詐欺なんかするわけないじゃないか。なあ、汀のお友達なんだろ、この子たちは。お父さんを病院に行かせてもらえるように頼んでくれないか。ほら、この男の子も、かわいそうに血が出てるじゃないか。早く治療しないといけないよ、は、はは……」と乾いた笑いを漏らす。


 「よくもいまさら娘に頼ろうなんて思えたものだな、恥知らずめ。金のところに案内しろ。そしたら救急車を呼んでやる」


 父の身動きが止まった。レム睡眠期の眼球のように、その眼はキョドキョドと眼窩の中を泳ぎまり、ハッハッと気ぜわしい呼吸音が静寂をかき乱す。


 「嫌ならスタンガンでこの剣に電流を流してやろうか?」と神愛。


 希介君がすかさずポケットからカメラモドキを取り出して、パチパチと火花を呼び出した。


 やがて、父はうなだれた。


 「地下室にある。八億だけ残っている」

 

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