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ロマン主義的現実

 アグネスのママ(近くに寄れば寄るほど、香り立つような美しい女性である)が僕たちにお茶をいれてくれた。どう切り出したものかと僕らが迷っていると、彼女はのんびりとした口調で鬼居家の過去を語ってくれた。


 鬼居家は戦国時代にまで遡れる名家なのだそうだ。歴代の当主はビジネスでも成功を収めてきた実業家揃い。アグネスの父親は、鬼居家の長男ではなかったために家業こそ継げなかったが、自身で立ち上げた会社の経営者として、順風満帆の成功を収めていたらしい。


 会社の会計部門で巨額の使途不明金が発覚するまでは。


「信用していた従業員に持ち逃げされたの。横領ね。そんな事件が明るみに出たら、社員の管理能力がない会社とみなされて、銀行との関係も悪くなって……あとはあっという間だったわねー」


 会社は倒産、出資母体の一つだった鬼居本家との関係も悪化、ついには自己破産に至った。


 自己破産をすると全ての財産を失い、職も失い、住む場所も失い……と想像しがちだが、そうでもないのよー、とアグネス母は笑っていた。


 母親が説明する間、アグネスはうつむいたまま無言だった。


 「珊瑚、恥かしがることじゃないのよー。だって、今でもお父さんは関係者の方にお金を返済しているし、いつかは全部すっかり返すつもりなんだもの。返済義務はなくたって、必ず返すの」


 「ママ……」 


 「隠し立てすることなんかないのよー。珊瑚だって学費がかからない学校に転校したりして、協力しているじゃないのー」


 確かアグネスは学園最年少の給費奨学生だったはずだ。この制度によって、歴史が浅い香桜学園から東大進学者を輩出させる目論みなのだと、噂を耳にしたことがある。学校法人として箔がつくからなのだろう。


 「横領……」


 汀がつぶやく。


 「あ、そうだアテクシ買い物行かないと。それじゃ、ゆっくりしていってねー!」


 なんて言った今! 僕はアグネス母をキッと睨んだ。


 一人称おかしくなかったか? というか、あれ一人称でいいの? 


 アグネス母は玄関先で鍵を取り上げると、片足をケンケンしながら外に出て行った。すぐに窓からは、車のエンジン音とタイヤが砂利を踏む音が伝わってきた。


 「珊瑚ちゃん」


 汀は顔を上げて、アグネスを正面から見据えた。そこに浮かんだ表情は、期待と懼れが入り混じっている。


 「失礼だとは思いますけれど、横領の被害に遭った会社の名前って――」


 アグネスは数度まばたきして答えた。


 「トランスアロー・インターナショナル、TAI.INCだよ」


 「トランスアロー!」


 「知ってるの?」


 汀は声もなく、水を飲み込むように喉を動かした。喉元を押さえ、やっとのことで言った。


 「知っています……こんな偶然が、あるのかしら」


 そして狭いリビングの中央に進み出ると、床に座ったアグネス膝に頭をすりつけるようにして、汀は頭を下げた。


 「横領したのは、わたしの母です」


 「え――」


 さすがのアグネスも目をまん丸に見開いて絶句していた。


 汀は頭を下げたまま、続けた。


 「母は旧姓を名乗っていたはずです――西沢、と。西沢優希――磯崎優希はわたしの母です」


 「そんにゃ、いまそかりな……」


 アグネスは脱力したように肩を落とし正座していた。



 きっと汀の母親がやったことのせいで、汀も心に深い傷跡を負っているに違いない。僕の母親とは、また別の困った性質を持った人なわけだ。比較しても無意味だけど、うちのと汀のと、どちらがよりマシなのだろう。


 あんな、男に寄生して稼ぐことしか知らない女ではなく、自分をしっかりと持った母親の子に生まれたかった。あいつは自分の夢を僕に背負わせて、大学に行かせて、自分が実現できなかった夢や希望を僕の人生に投影しているんだ。


 毎週金曜日になると、滑稽なほどの若づくりでふらっと消えて、日曜の夜か月曜の朝に帰ってくる母。煙草のにおいを服に染みこませて。


 ここ数年はいいカモをゲットしたらしく、そのオッサンと携帯で頻繁に連絡をとっていた。そいつからの着信音に設定しているエレクトリカルパレードのメロディーが、僕は大嫌いだ。


 「そんな言い方ないでしょ。キーたんのためにこんなに頑張っているのに!」「キーたんのお父さんはね、それはそれは頭が良くて――」「黒神家の長男なんだから、しっかりしないと」「何のために高い入学金を払って香桜学園に入学させたと思ってるの?」


 僕の人生を、お前の尻軽の言い訳に使うな! あとキーたん言うな!!


 神愛が僕の肘をつつく。


 「……希介、顔がこわいぞ」


 おっといかん、内面が外に漏れてたか。失礼。


 アグネスの両手を、汀は正座した膝の上でぎゅっと握った。


 「わたしの父が母を脅してやらせたのです。父は籍を外した上で母に横領させて、そのお金を現金化してどこかに隠したのだと思います。留置場の面会室でわたし、何度も問い質しました。なんでこんなことしたのかって。お金はどうしたのかって」


 「結局、警察も金のありかを吐かせられんかった……」


 アグネスがトランス状態に似た超然とした態度をとる。一生懸命、感情と肉体を切り離しているのかもしれない。


 「父が隠しています。そんなお金で、わたしは育てられてきたのよ。蹴られても、利用されても、見捨てられても……犬のように忠実な母さんが盗んだお金で。そんな哀れな母さんの愛で育てられてきたのが、このわたし。でも、母さんの愛を否定することはできなかった。だって――」


 「そうだな。汀の考えはわかるよ。人生は自己満足だから……君の母さんの自己満足を傷つけたくはないよな」と神愛が悲しげに賛同した。


 あらゆる人の自己満足に至る活動を邪魔をすべきではない。その活動が他人の権利を侵害しない限りにおいて。だが、汀の母親は明らかに他人に甚大な迷惑をかけている。アグネスの哲学ならともかく、汀の哲学では、そのような悪徳は許されないことだろう。


 人生という名の、縦横に重なった愛と罪の織物。そこに絶え間なくかかる相反する力が、汀を引き裂いているのか。


 このときはそう思った。だが、すぐに思い違いを悟ることになる。


 「父はそのお金で愛人を囲っているの。そのせいで、また一つ大きな不幸を、他の家族に及ぼそうとしています」 


 「愛人!? お母さんを利用して裏切っておいてそんなものまで? 極悪だな、親父」と神愛。


 汀は身を縮めて身震いした。


 「そうね。だから、わたしは……」


 どこか遠くから伝わる、消え入りそうで――それでいて僕の気を惹くエレクトリカルパレードの音色。


 はは、そんな偶然があるわけ――。


 「まさか」


 全員が僕を見た。汀も蒼白な顔をこちらに向けている。


 「親父の愛人って、僕の――」


 汀の表情が全てを物語っていた。


 ああ神様、ちょっとした悪ふざけで人間界にちょっかいを出すのはやめてもらえますか?


 神愛が沈黙を破ってコメントを述べた。


 「十九世紀イギリス文学的なロマン主義的偶然だな」 


 もっと一般的な例えにしてくれ、神愛。


 神愛は僕を一瞥する。


 「まあ、つまりご都合主義ってことだ。でも、汀、君の悩みはこのことなのか?」


 アグネスも身を乗り出す。


 「ナギサちゃんが、ナギサママのしでかしたことの責任を感じることなんかないよ。超いまそかりに全然許されてるよっ」


 「…………」


 汀は沈黙している。


 まさか、まだ何かあるのか? 汀が途方もなく凶悪なジョーカーを隠し持っているなんてことが?


 「知れば、みんなはわたしを軽蔑するわ」


 出たー! まだ巨大な隠し玉を持ってるよ、この人。


 「殉教者ごっこはやめろ! ここまで聞いておいて、汀を黙って帰すと思うか? 全部吐き出してしまえ! 吐くまで帰さない」


 神愛の堂々たる監禁宣言であった。


 「わたし……」


 すし詰めの小さな部屋は暑くるしい。そのためか、汀の額は汗でじっとり濡れて、蝋の白さを呈している。とても不健康な色だ。


 「お父さんと……ました」


 「え? 良く聞こえなかったよ」と僕。


 「お父さんと……をしたの」 


 「…………ええ!?」


 不意に時空が時を刻むのを止めた。


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