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食物の四次元連続体 2

 「汚された、汚されてしまった……! 水、水!」


 汚れた指を突き出し、狂おしく叫ぶ男がいた。もちろん僕だ。


 最後の「水、水!」という台詞だけ抜き出せば、「なんだ、激辛カレーでも食ったのか?」と思われがちだが、さに非ず。


 僕の脳が、また勝手に妄想劇場を開幕させていた。


 ――ああ、なんて不思議なんだろう。質量保存の法則によれば、食べ物はどのように形を変えようが食べ物のはずなのに、時系列がちょこっと前後するだけで、それは全く性質の異なる物体に変貌してしまうのだ。


 空間とは縦横高さから成る三次元の広がりであることは誰だって知っている。それに時間軸を付け加えれば四次元になる。食物は四次元連続体を時間軸に沿って通過する過程で、いつしか全く異なる存在に生まれ変わるのだ。 


 四次元恐ろしいよ恐ろしいよ四次元。どの時点で食物は食物でなくなってしまうんだ? 皿に盛り付けた時点ではない。スプーンですくった時点? 違うだろう。口に投入した時点? 咀嚼の時点? 胃酸まみれになった時点? それとも腸管を十センチ進んだ時点……。


 ……まあ、何を示したいかというと、つまり混乱していたのだ、僕は。


 勢いよくドアを跳ね開け、廊下に飛び出した。部室棟階段の横には、男女のトイレが隣り合って存在している。


 そこだ! 男子トイレに針路をとれ!


 片手の指を立て、もう片方の手にはパンツを握り締めて廊下をバタバタ走っているのを誰かに目撃されていたら、ただでは済まなかっただろう。幸いにも、廊下には誰も出てくる気配がない。


 だが、上履きのゴムを軋らせて廊下の角を曲ったとき、その幸運もついに尽きた。トイレの前に女子生徒がしゃがんで、紙袋をのぞきこんでいる。


 終わったぁぁぁー! いや、待てよ、こいつ――。


 ――磯崎汀だ。


 彼女も僕とほぼ同時にこちらに気づいた。紙袋をガサガサ探る手を休め、涙目で見上げる。


 「あ、黒神君……」


 「な、なんでここにいるんだ!?」


 このとき、彼女が僕の名前を知っていることを疑問に思う余裕など、ハヤブサが持ち帰った小惑星のサンプルほどもなかった。


 「あ、ええと……」


 彼女がパンツに目をとめた。


 「そ、それです! 返してください!」


 まずい、盗んだと思われる! おしまいだ、性犯罪者扱いで恐喝でカツアゲで金を奪われたあげく通報、社会的に抹殺――。


 暗色の未来予想図が走馬灯のスピードで脳裏を去来する。


 このパンツは止むをえぬ不可抗力で手にしているだけで、僕には一片のやましいところなどなく清廉潔白だ、などという弁解が通用するほど、この世は甘くない。そのくらい知っているさ、高校生だもの。


 とはいえ、黙ったままでは性犯罪者確定だ。しどろもどろになって、言語的解決に淡い望みを託す。


 「や、これは違うんだ。僕のものではなく、その、なんだ、妹の――」


 もうダメだぁー!


 妹の部屋から下着を拝借して、あまつさえそれを学校に持ち込む権利、ないもん。あるわけないもん!


 「届けてくれのですね!」


 磯崎は両手を胸の前で軽く打ち合わせ、ぱああ……と、マンガ的強調擬音語が似つかわしいほどの、嬉しげな微笑みを浮かべた。それは微笑みの標準サンプルとして、メートル原器の横で永久保存すべき笑みだった。


 僕は左手に握り締めた布切れに視線を落とした。そうだった、この人類を破滅に陥れる核廃棄物は、こいつのもんだった。とりあえず強気で押し切れば、この窮地からなんとか脱出できるかもしれない。


 「へ? お、おう。お前が落としたんだろ、これ」


 彼女は差し出しされたそれを受け取り、小走りで女子トイレに入っていった。


 いったいどういうことなのかはよくわからんが、とにかくこれで厄介な産廃を処分できる……と胸をなでおろした、そのときであった。


 「変態」


 その冷気をまとった声は、女子トイレの方から発せられた。


 はっとして視線を上げると、いつの間にかドア枠のところに磯崎ではない女がいた。


 「重度の変態」


 などと、形容詞を追加投入して言葉に余計な修飾まで施してくれた。この台詞を、鼻の根元にフレーメン現象風の皺を寄せつつ言い放ったのは、僕のクラスでいつも本ばかり読んでいる女子だった。


 背丈は僕とそう違わない長身。教室では、いつも長い髪で顔を隠すようにしていて、誰かと喋っているところを見たことがない。その一方で、コイツの成績はかなり良いと噂に聞いたことがある。


 本来なら僕の人生とは接点など何一つないであろうこの女の名は――坂本。そう、坂本かおるだ。


 「お前は……坂本かおる」


 「坂江神愛さかえかんなだ。まだクラスメートの名前を覚えてないとは、社会不適応者なんだな。限られた青春という名の黄金時代を共に過ごす仲間の名すら、一学期開始後一週間以内に記憶できないようでは、どう転んでも将来まともな社会人にはなれまい」


 などと、さも軽蔑したような表情で、僕の将来について超不吉な予言をする。


 そんな坂江のきつい態度に、僕はむしろほっとした。この偽善を省いた純粋な敵意、これが僕の人生にふさわしい。しとやかさや誠実さなどという、レアな異物を女の中に見出すことなど、こっちはなから望んでいないのだから。そういう健やかな性質は、僕を不安にさせる。


 坂江の罵倒に、僕は傷つくどころか喜んでいた。マゾなんでしょうか。


 むしろ、マイ人生史上最大級の長文でけなされることで、まだ自覚できていない方面の快感を開拓されてしまいそうだ。ツンケンモード最高。


 ドア枠から背中を離し、腕を組んで坂江は尋ねた。


 「で、なぜ変態は下着を握り締めていたのだ?」


 こいつがこれほど高飛車な女だったとは知らなかった。というか、会話をすること自体が初めてだ。


 こんな口のきき方をされたら、普通ならムッとして感情を害するところなのかもしれない。だが、坂江神愛にはそんな態度が板についているからだろうか、これがなぜか心地よい。美少女と罵詈雑言の親和性は意外に高い――この業界では常識です。


 ニヤニヤしそうになるのを堪えて、務めて平静な声を出す。


 「変態やめろ。黒神希介だ」


 「くろかみ? ほう、そういう名だったのか」


 「お前も僕の名前覚えてないじゃん。どの口で僕を社会不適応者呼ばわりしやがった」


 「……」


 坂江は無言のまま、自分のふっくらした下唇に指を乗せた。小ざかしウザいやつめ!


 「じゃあお前も社会不適応者決定な」


 「はぁ? なぜ私が教室のジメッた片隅に巣食った、菌類っぽい変態生物の名を覚えなければならない?」


 などと実に不思議そうな顔でのたまう。


 そこまで言うか……。こいつはどうしても僕を変態にしたいらしい。


 ぬおお、女め。僕は唐突に“業界の常識”に背を向け、女に対する敵愾心を爆発させた。報復の大義名分は我にあり! ついつい、超キモい台詞を口走る。


 「僕は教室で群れたりしないで孤高を保ってんの。いわば鋭い牙を隠し持ったロンリーウルフ。それが僕だ」


 坂江は腰に手の甲を当て斜に構えたうえで、揶揄するようゆっくり発音する。


 「うるふぅ~? 孤高~? それはそれは。授業中一度も手を挙げたこともない、牙を抜かれた生物がウルフだったとは。それどころかハスキー犬? それはハスキーに失礼というものか。菌類に犬歯が生えてるわけないもんねえ」


 唇の端をにやりと歪め、犬歯むき出しで挑発する坂江。


 どうしてそんなに挑発的なんだい? 疑問がなくはないが、とりあえず僕は歯にだけは昔から自信がある。ぐいと両手で口を押し広げ、自分の輝く歯列をクソアマに見せつけ……。


 「…………」


 瞬時に蝋人形然とした顔面に変貌した僕は、その場で釘付けになった。


 かすかに震える指を、そっと口から引き出し、何か重要なメッセージでもそこに表示されているかのように、半ばキレイになった右手の指先を見つめた。


 女子トイレのドアが開き、磯崎と小柄な少女が湧いて出た。


 小柄な方は小学校から迷い込んだとしか思えない幼い少女だったが、一目瞭然なその特質も僕の目には入らなかった。ただただ、メデューサに睨まれた蛙のように石像化するのみ。


 小柄な少女がいきなり頓狂な声を出す。


 「おわ、なんじゃこの少年、指についたカレーを眺めとるぞ。変なやつだなー。あ、もしかしてお前がわいのぱんつ、持って来てくれたのか……って、んんんー!? これはわいのうんもじゃなかりしか! うんもだうんも」


 「……ええ!?」


 磯崎汀が、きょとんとした直後に驚きの声をあげる。


 磯崎は片手をガードするように掲げ、身をのけぞらして引いている。完全に引いている。おおらかな寛容の心と人徳で、学園の女神とも称される清楚な乙女にすら、引かれちゃったよ。


 どうやら、聖人磯崎にも越えられぬ壁があるようだ。


 凍りついた空気をガン無視して、小柄な少女が腹を抱えて笑っていた。


 「食糞族発見じゃー! わいのルー・ゲーリックな液状ウンモを食してるぞこいつあははー! でも許されてるよ、うん、絶対!」


 「食糞……」「嘘ですよね……」


 坂江と磯崎がそろって同じポーズでドン引きするなか、僕は目の前の女子トイレに駆け込んで、すっかり胃液にまみれた酸っぱい昼飯を大逆流させたのだった。


 おそらく一億通りもあるだろう女の子と出会うシチュエーションの中で、下から百位以内には確実に入る、最悪の出会いだった。



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