情けは人のためならず 2
「自己……満足?」
「はい。生を課題として生きる人間には、自己犠牲などはありえない。自己満足だけ。カントは、『道徳を支える基盤は人間の自由である』と言いました。そして、カントに影響を与えたルソーは自由をこう呼んでいました……『自分自身の主人になること』」
汀はまるで温もりでも確かめているかのように、自分の心臓の上に手を軽く押し当てた。
「自由とは、自らに由る(ミズカラニヨル)という意味です。この言葉の意味が示すのは、自由より先に原因が存在しないということです。
自由はそれ以上遡ることのできない究極原因です。背後にいかなる条件をも前提しない絶対的自発性こそが、自由。そして自由の主体は人間の意識です。自由であることこそが、世界の究極目的とすら言えます。
わたしは自由な一人の人間として、道徳的に生きようと――決めました。他人のためではなく、自分の良心の声に従いたいという自由な意思によって、自分のルールに従っているのです。
だから、みなさんに『どうして自分を犠牲にしてまで他人を助けるの?』と問われれば、こう説明するしかありません。『自己満足のため』と。道徳を成立させるのは結局のところ、自由な個人の自己満足だけしかないのです」
自由、自由か。それは『自分自身の主人となること』。デカルトが『我思う、ゆえに我あり』と悟り、世界と自分が無関係だと叫んだのと、なんと似ていることか。いや、事実上同じことを言い換えているだけなのだろう。
「私は道徳方程式の完成を目指しています。あらゆる場面のあらゆる行為においても、道徳として成り立つような普遍的な道徳法則を。
その場限りでしか役立たない道徳ならば、それは道徳でも哲学でもありません。自己の利益にのみ従う、単なる処世訓に過ぎません。『情けは人の為ならず』のような……。そういった処世訓ならば、自己啓発本でも読めば幾らでも頭に詰め込めます」
厳しい、厳しすぎるぜ、その生き方。そんな生き方を抱えてしんどくないのか? もちろんしんどいに違いない。でも、汀はそのしんどい思いをすることもひっくるめて、自分の自由な意思を守ることに自己満足を見出しているのだろう。
ふと考えた。
しんどい生き方を布教する汀と、悪徳の快楽を布教するアグネスでは、どちらも反対方向に突き抜けていて接点がない。でもこの二つの哲学は、自己満足――つまり自分だけの快楽のため、という一点では同じなんじゃないか? 『両極端は合致する』とはこのことか。
汀はぽーっとした夢心地の表情で、さらに言葉を紡いだ。
「生きることとは死ぬこと……生きることは愛すること。愛こそ全てです……」
「何のことですか!?」
ついに理解の限界を超えたぞ。愛こそ全てだって? そんな恥かしい台詞が汀の清らかな口から出てくるなんて信じられない。
どこかのDQNが、若さゆえにドパドパ分泌された脳内ホルモンに踊らされて、「永遠にお前しかいねーぜ!」と思い込むのならともかく、下らない感傷の底に沈むことを恥と思うに違いない汀が、それを口に出すか?
汀は夢見るように、なおつぶやく。
「人生において、何に自己満足の源を持ってくるか、どのように生きるか、それを見つけるのが哲学です。人間にとって、人生は自己実現の過程であり、自己実現の目的は自己満足です。つまり人生は自己満足の場です。よく言うではありませんか、最後に笑って逝ければ最高の死に方だって……。
人は自己満足を持って死ぬことしかできないのです。良く生きることとは、自己満足を持って良く死ぬこと。すなわち、生きることは死ぬことです。
わたし、道徳方程式の変数にどんな値を代入しても成り立つ場合が、一つだけ存在すると思うの。それは、愛。
わたしにとって、道徳方程式は愛の方程式なのです。下心が含まれない相手への愛=自己犠牲こそが、最上の自己満足を得る道だと思います。人生は自己満足です。愛=自己犠牲こそが世の中にあるうちで最上の幻想であり、即ち人生の真理だと思うのです。だから、わたしはこの世の全てを愛し、慈しみたいと願っています」
「……それってつまり、汝の敵を愛せよ――キリスト教じゃね?」と僕。
「そうですね、イエスの悟りと同じところに行き着いちゃいました」
てへ、と舌を出す汀。
……!。
僕は驚いていた。普段なら、女のあざとさに無茶苦茶敏感な僕が、このときの汀には全然イラッとしなかったからだ。
そっかー、もう突き抜けちゃってるからかなあ。僕は妙に納得してしまった。
普段の上品な振る舞いからは想像もできないけど、汀こそ、他の誰よりも変人という面では、取り返しのつかないレベルに達してしまっているのだと思う。アグネスも神愛も、汀に比べてれば可愛いもんなのだ。
単独でイエスの境地にまで到達してんじゃねーよ、まったく。なぜだか目頭が熱くなって、慌ててまばたきしてそれを追い払う。
ふと外を見やれば、西の空からは最後の明るみが消えようとしていた。思いのほか時間が経過していたようだ。
窓ガラスに映った自分の姿に問いかける。
こんな暗い夜道を女の子独りで帰らせて大丈夫かな。アグネスは無事に帰宅したか?
「今日はこのへんにしようぜ。みんな、もう帰ろう」と呼びかける。
神愛は疲れた様子で重たそうに立ち上がり、汀は両手を床についた状態で固まっていた。
「なにやってんの?」
僕が問いかけると、汀は困ったようなはにかみをみせた。
「恥かしいのですけど……足、痺れちゃったみたい」
いつもはこんなことないんだけど、とつぶやきながら、たどたどしく僕の手にすがる汀。
いつしか僕は、彼女には自然な笑みを浮かべることができることに、気づいていた。そして、あの女のことも、以前ほど嫌ってはいないことを悟った。
あの女が恩着せがましく次々と恩義をかけてきても、それがなんだっていうのだろう。それは彼女の勝手だし、彼女が恩義をかけることと、僕が恩義に感じるかどうかは、全然関係がなかったのだ。
どうしてそんなことに気づかなかったのか、今となっては不思議なくらいだった。
部室のエアコンを消して外に出ると、部室の壁をはさんだ反対側、つまり廊下の壁に背中を預けたアグネスが体育座りをしていた。
そうだ、こいつの携帯をルーターにしてネットしてたんだから、近くに潜んでいたに決まってたんだ。
僕はアグネスに手を差し伸べた。
「一緒に帰ろう、アグネス」
アグネスは僕の顔をじっと見つめる。
「えっ、えっ? キスケ、なんか変わった?」
彼女の手を取ると、軽い体が浮き上がるほどの力で立たせてやる。
「そう思うか?」
「うおう。キスケ、力あるぅ。ねえ、キスケのこと、お兄ちゃんって呼んでも、わい許されてる?」
唐突な申し出だ。別に構わないけど、うーん、どうしてお前はこう僕のノスタルジーを刺激するかなあ。
僕はこう返した。
「許されてるさ、何だって」
アグネスは僕の腕をぎゅっとつかんで、クトゥフフと笑った。
「わいのお兄ちゃんみたい」
「お前、兄貴が居るのか?」
初耳だけど。
「いないよ。わいの妄想お兄ちゃんなら何年も前から心に監禁してるけど。名前もつけてるんだ。知りたい?」
「いや……」
まったく、底知れないやつだぜ、アグネス。
暗くなった廊下を渡りながら、僕は自分の心の内に生じた変化を強く意識していた。そして、それを打ち明けたくてたまらなくなっていた。
それは素面ではとうてい言えそうもないことなのだが、『親友』になら打ち明けられる。
幾度も口を開きかけては躊躇して、もう校門まであと少し。今日の高揚した雰囲気を逃したら、二度とこれを口に出す勇気は出てこないかもしれない。急げ。
「あのさ」
今にも別れの挨拶をしようとしていた汀たちが、おしゃべりを切り上げて僕を振り返った。
「今日から僕は第二段階希介になる。もう女嫌いはやめにする」
「そう、よかった」
ニコ。汀がみせた笑顔だけで、一挙に救われた気がした。神愛とアグネスも口々に祝福してくれた。
「……そうか。いかに生きるかを決めるのは君だからな……第二段階にグレードアップ、おめでとう」
「全ては許されてるんだから、いちいち断らんでよろしーよ。クトゥフフ、第二段階キスケ、わいは思うのだよ。憎しみも、恋愛も、相手を一つの人格と見なして強く意識し、己の心に住まわせるという面では、同じことなのだと。本当に嫌いなら憎みはしない、無関心になるのだから」
言い方がアレだけど、彼女たちが喜んでいるのは察せられた。僕はそこまで鈍感じゃないさ。
ああ、この刹那の感情を永遠に引き伸ばせたならば、きっと僕は明日までの命だとしても、満足のうちに死ねるだろうに。この刹那を終わらせないでほしい……。
……って、あれ? これって神愛が説明してくれた、ニーチェの『永劫回帰』の境地に似てね? ひょっとして、こういう気持ちなのかな。
夜空を流れ星が過ぎる。
そして、不意に街のざわめきが戻ってきた。
無意識的に息を殺していたらしい。永遠の刹那が解けると同時に、ほう、と溜め込んでいた息が漏れた。
そ して、すぐそばからの、「ひ、ひ、ひっ」と、引きつるようにしゃくりあげる音に気づいてぎょっとした。汀は手の甲で涙を拭って、また抑えきれずに「ひっく」としゃくりあげる。
汀の足元がフラフラと揺らいで、彼女はしゃがんで顔を覆った。
「ちょっと、大丈夫か」
今までの僕は「大丈夫か」と聞くヤツが大嫌いだった。『大丈夫じゃなかったら、お前に何ができるんだ? 意味のないことを聞くな』と冷ややかに感じるのが常だった。でも、今では僕にも、この言葉が同情の意思表現だとわかっている。
汀が言うとおりだ。そこに相手への愛があれば、どんな言葉でも温かい。逆に愛がこもっていなければ、『愛してる』と告白したところで寒々しいばかりだ。隠し通せるものじゃない。
確かに、相手に寄せる愛だけが純粋な善。言い換えれば、『愛が全て』なのだ。
「ちゃんと食べてんのかお前、フラフラじゃないか」と手を伸ばした。
僕の手が汀に触れようとした刹那、彼女は飛び退くようにして身を竦ませた。
「汀?」
「大丈夫、大丈夫だから。何も心配要らないの。わたし大丈夫だから」
そう早口で言うと、汀は小走りで校門を抜けた。
街灯の光はアーチ状の校門に遮られて、影になっている。そこで急に立ち止まって振り返る。彼女の顔は影に入っていて見えない。
「希介、もう女の人を嫌っちゃだめだよ。お母さんを愛してあげてね!」
そう叫ぶと、汀は走り去った。
そのとき、僕は冷水を浴びせられたような気分を味わっていた。
どうして、どうして……あの女のことを、汀が知ってるんだ?




