情けは人のためならず 1
「もうできた?」
いい加減、暇つぶしテトリスにも飽きた僕は、汀にたずねた。
「もうちょっとです。わたし、機械は苦手で……あ、もう終わります。はい、投稿」
たどたどしくマウスを操作する音がする。いまどきパソコンが苦手って、お婆ちゃんかよ。っていうか、あんだけたくさん投稿しておいてまだ苦手って、半端な機械音痴じゃないだろ。
「どれどれ」
神愛と僕は知恵袋のウェブサイトをリロードした。
【copernican-rev-nagisaさん】からの回答:
『長文失礼します。
あなたのお話をよく読んでいると、すべて自分の事ばかりですね。自分ばかりが楽に生きたいという願いに縛られて、周囲の人の気持ちが見えなくなっているように思えます。
未来を気づかう心は悲惨です。あなたは、自分で自分から希望を奪っているのです。
あなたが仰るには、あなたの過去は淋しい荒野だった。でも、美は見つめるものの目にあるものです。あなたが歩んできた荒野の中にも、美はあったはずです。私たちの心理状態というものは、外界の物事のありようにまで、影響を及ぼすものなのですから。曇りのない眼で見渡してください。新しい角度から眺めた世界は、きっと明るい兆しに溢れているはずです。
また、カッコイイともてはやされる人には、顔立ちや体型だけではなく、もっと本質の部分でカッコイイ要素があるものです。その人にしかない魅力と求心力がなければ、外見だけでカッコイイともてはやされることはありません。
自分がカッコイイと自称する軽佻浮薄なお調子者は、本当にただのお調子者でしょうか。ときに垣間見せる見せる優しさや思いやりで、お調子者もその果が知れます。純金を金メッキしても、木片を金メッキしても、遠目にはわからないものです。外見だけ金ピカの木片は、やがて見捨てられるでしょうから。
人生は、あなたを傷つけた人から受けた不当な扱いを忘れずに過ごすには、余りにも短いと思います。では、今まで過ごしてきたあなたの青春は、荒野でただ空しく費やされたのでしょうか。いいえ、違います。あなたを傷つけた他人の言葉や態度が、あなたを鍛える偉大な教師になってくれるはずです。きっと、無駄なことなどこの世にないのです。
さて、これからのことです。
先の見えないトンネルのような人生を前にして立ちすくんでいるならば、今後は他の人のために生きてみたらどうでしょうか。
まだ目前に現れてもいない不安にさいなまれて、ひたすら損をしないように危険を避けて生きるなど、消極的な人生です。たった一度の人生なのですから、積極的に生きてみませんか。不安を遠ざけるためではなく、誰かの心を喜びで満たすために生きてみてはいかがでしょう。
威厳ある扱いを求めて寡黙にふるまうより、心を明るく保つことで、みんなと一緒に笑いましょう。自分から歩み寄ろうとする努力が人を幸せにするのです。たとえ笑顔のペルソナの下に涙が隠れていたとしても、笑顔を絶やさない人を周囲は放っておきません。あなたの人柄を知る友が一人でもいれば、あなたは憎悪や復讐の念に心を焼きつくされることも、失望に打ちひしがれることもなくなると、私は思います。
あなたの心に平安をもたらせるのは、あなただけです。幸せはあなたが自分で探し求める時、はじめて得られるでしょう』
やはり、知恵袋の常連なだけはある。中庸を捉えた有意義なアドバイスだった。神愛やアグネスの書き込みは、どこか暗い影を帯びて、人を突き放したものだった。それに比べて汀のアドバイスは清らかで力強い。さすが知恵袋グレード5は伊達じゃない。
「他の人のために生きる、か。汀節が出たな」
神愛はニヤリと笑って汀を振り返った。
「もちろん。それがわたしの道徳方程式を完成させる鍵なのですから」
はて、道徳方程式? なんか変な言葉が出現しやがったぞ。
疑問符が僕の顔にでも出ていたのだろうか。汀がさっそく説明を申し出た。
「道徳方程式とは何か、希介君も疑問ですよね。先週説明したとき、神愛ちゃんや珊瑚ちゃんも同じところでひっかかっていましたから」
「んん? 先週って……」
「あ、説明しませんでしたっけ? わたしたちスーパー・フィロソフィ研究部は先週結成したばかりなんですよ」
「超最近じゃんか。先週って、この部室でアグネスが毒カレー製造した週だろ」
「ええ、希介さんにわたしがぶつかった日の、前日に発足したんですよ」
歴史浅っ。
汀は正座した膝の上に、しとやかに両手を置いた。
「かつてカントは次のように言いました。『無限に善とみなされうるものはただひとつ、善なる意志である』と。これがどういうことかわかりますか?」
もちろん僕は首を振る。
「では、『情けは人の為ならず』という諺は知っていますね?」
「ああ。情けをかけられた人が成長する機会を奪ってしまうから、無闇に情けをかけるべきじゃないって意味だろ」
「その通りです。でも、別の角度からこの諺を吟味れば、それ以外にもう一つの意味がありますね」
首をひねる僕に、神愛が助け船を出す。
「『情けは人の為ならず』ってさ、情けをかければ、いずれ見返りを期待できる、結局のところ他人に情けをかけるのは自分のためになるよ、って意味にもとれるだろ」
「ああ、なるほどね」
そういう風にも読めるな、確かに。
「情けは人の為ならず。『もし』自分が他人から利益を得たい『ならば』、情けをかけるべきである。これって、結局は自分のための自愛の原理に過ぎないでしょう。もし~ならば……そんな条件付きの道徳はみせかけだけの道徳だと思います。つまり仮象の道徳ですね。
そんな下心が動機になって現れる道徳などに、意味はないんです。純粋な道徳性とは、下心のないところにうまれなければならないのです。
なぜなら、『他人に情けをかけて得させるくらいなら、自分が感謝されたり親切にされたりしなくてもいい」という考えの人も、中には絶対にいるでしょう? そうなれば、見せかけの道徳の輪は、簡単に途切れてしまいます。よって、もし~ならば……そんな条件付きの道徳、下心がある道徳は、普遍的妥当性を持ちません」
他人に情けをかけて得させるくらいなら、自分が感謝されたり親切にされたりしなくてもいい。そういうやつは少なからずいるだろうな。その部分だけは充分に納得できた。
自分が少々の親切を受けるくらいなら、相手が情けをこれっぽっちも得られずに、破滅する様を見物したい。そういう気持ちの悪い奴には、これまで何人か出会ってきた。たった十五年の人生でこれだけそういう輩に遭遇するということは、統計的にいって誤差ではありえない。そういう気持ち悪い奴は、この世に一定数存在するのだ。
「それに、下心があれば自分がした親切への見返りを求めるでしょうし、その見返りが全然なければ失望して不満を抱きますよね。だから、下心の道徳は確実に見返りを得るために、他人に見返りを強制したり、どうしても見返りが得られないならば、報復として他人を弱い立場に置いたままにしようとさえします。
下心の道徳は、偽善やエゴイズム、更には悪にまで堕落するのです。だからこそ、見返りを期待しない自己犠牲こそ、純粋な道徳性を備えるのです」
僕はさっき汀が引用したカントとかいう人の言葉を思い出した。
『無限に善とみなされうるものはただひとつ、善なる意志である』
下心の混入が道徳を腐らせてしまうならば、善と呼びうるものは『純粋に善であろうという意思』しかありえないだろう。そして、そのような善は見返りを一切求めない。よって、善は自己犠牲の形をとるはずだ。
僕がその理解に達したのを察知したかのように、汀は言葉を継いだ。
「下心のない善は見返りを求めません。善は、それが自己犠牲であるときのほかは善の名に値しないのです」
僕は根本的な疑問を呈した。
「どうして自己犠牲なんかしなくちゃいけないんだ? だってそれは、とても苦しいことじゃないの? 苦しい思いをするくらいなら、善なんかクソ喰らえだと思うのが普通だろ」
汀はどこか悲しそうに、だが口元を引き締めて答えた。
「実は、生を課題として生きる人間には――自己犠牲などはありえないのです」
「自己犠牲じゃない? だったら、何なんだ?」
汀の言葉が紡がれた。
「自己満足です」




