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千影はその日、学校の授業など手に付かなかった。あっという間に時間は過ぎ、放課後になるや否や、早々に帰途につく。
正門を出てしばらく歩き、学校の最寄駅を通り過ぎるとそこは河川敷だった。千影の家は隣の駅なのだが、ゆっくりと河川敷を歩きながら帰宅するのが嫌いではなかった。
道端の自動販売機に立つと、すこし悩んでいつもの缶コーヒーを買う。甘めのそのコーヒーは、千影の母親が入れてくれたカフェオレによく味が似ていたのだ。特に親に未練はないはずだったが、何か飲むときにはついその缶コーヒーを選んでしまう。
「なんだよ。結局いつものコーヒーかよ」
千影が後ろを振り向くと、そこには孝明が立っていた。
「どうして、ここに……」
呆然と立ち尽くす千影の横で、孝明も同じように自動販売機で飲み物を買っていた。
「やっぱり男はブラックだろ、なあ?」
孝明はそう言うと、缶コーヒーを開け即座に口へ運んだ。
「苦っ――」
小さく呟く孝明に、千影は思わず苦笑いを浮かべる。
「孝明、ブラック飲めないじゃないか」
「知ってるなら早く止めろよ」
そういって孝明は笑いながら歩き始める。
「何か、あったのか?」
しばらく無言で歩いていた二人だったが、孝明が唐突に切り出した。互いに視線を逸らしながら、時々コーヒーを一口すすりながら。
「ん……あっと、その――母さんが死んでたんだ。あの転校生が言ってた」
「ああ……そうか」
そういってまた無言で歩く。
既に日は沈みかけており、二人の影は長くゆらゆらとゆれていた。
「それよりもさ……知ったんでしょ? おれがOBS患者だって」
「噂になってたからな」
「ならなんで、話しかけるのさ」
孝明はその質問には答えない。二人の間に再び静寂が訪れた。千影は孝明の様子をうかがいながらも、そ知らぬふりをして歩く。
夕日は二人の背をオレンジ色に染めていた。時折通り過ぎる自転車や散歩をしている犬を横目で見ながら、穏やかな空気が二人の頬を撫でていく。それがとても心地よく、千影は穏やかな笑みを浮かべていた。
「あのな、千影」
少し気を抜いていた千影は、咄嗟に孝明に視線を向けた。そんな千影を見ていた孝明は、小さく笑うと視線を再び彼方に向けて話し出す。
「俺のおふくろは小さい頃に死んでるんだ。だから顔も何も全然覚えちゃいない。まあ、おやじがいるだけ、千影よりはましかもしれないが」
千影は孝明の言葉に小さく相槌をうつ。
「何年か前からおやじは女見つけてきて、そいつがしょっちゅう家にくるんだよ……。昔の俺はそれがすごく嫌だったみたいでな、親には反発したかったけどぐれる度胸はなくてさ、結局はそれから逃げるみたいに中途半端なオタクになっちまった」
中途半端なオタクというしっくりくるフレーズに、千影は思わずひっそりと笑う。
「そんな風にふさぎ込んでた時に高校に入学したもんだから、特に人と関わりをもとうだなんて思わなかった。だからしばらく一人だったな」
孝明は思い出すように、視線を少しだけ高くあげた。
「でも、千影はそんな中途半端でふさぎこんでる俺に、変な色眼鏡しないで話してくれたじゃないか……。オタクだからって蔑むこともなかった、塞ぎこんでたってそれを責めはしなかった、家庭の事情が複雑だからって変に同情することはなかった。千影がそういうスタンスで話してくれたの、結構嬉しかったんだぜ?」
照れるように笑う孝明は、すっと視線を千影へと向けた。そして、表情を正して声に力を込める。
「俺の中で、OBS患者って知る前の千影と知った後の千影はなんら変わらない。オタクだろうがOBSだろうが複雑な家庭環境だろうが、それを知ったところで目の前にいるやつは何も変わらない。それに千影は、その、脳力? だっけ? それで俺になんかしようと思うのか?」
「そんなの――思わない……」
「ならそれでいいじゃないか。そうだろ?」
孝明はそういっていつもの笑みを浮かべると、手にもっていた缶コーヒーを、千影へと渡す。
「あとな、おふくろさんのことは……その、しんどかったよな。つらいよな」
途端に顔をくしゃくしゃにさせる孝明。そんな孝明の表情を見た千影は、おもわず受け取った缶コーヒーを一気に飲み干した。
「げほっ、ごほっ……なんだよ、この缶コーヒー苦すぎるよ……。飲めないくせに、こんなの買うなよな」
そういってむせ続ける千影。孝明は、そんな千影から付かず離れず、千影の嗚咽が落ち着くまで無言で歩いていた。
外は既に暗くなっており、切れかけの街灯がちかちかと瞬いていた。
孝明と別れた後、千影はファーストフード店で夕食をとっていた。普段は自炊をしているのだが、今日はそんな気分にはならなかったのだ。
仕事帰りのサラリーマン達と一緒に帰途についた千影は、もう両親のいない自宅を一通り眺めてから中へと入る。慣れきったはずの一人の夕食に一抹の寂しさを感じつつも、その感情を懐かしさと共に微笑むだけのゆとりが千影にはあった。
千影一人には少しだけ広いリビングに、テレビの音が響く。疲れた身体をソファに投げ出しつつ、千影は大きなため息をついていた。
そんな折、ふと見た携帯電話に着信があることに気づいた。
(だれだろ?)
見ると、そこには見慣れない電話番号がうつっている。千影は首を傾げつつも、その番号にかけ直そうと電話の画面を指でなぞる――その瞬間に、その番号から再び電話がかかってきた。あわてて電話を取ると、電話をかけてきた人は孝明の母親だった。母親といっても、孝明にとっては二人目の母だったが。
『千影君!? はぁ、よかった。つながった』
「どうしたんですか? そんなにあわ――」
『今、孝明君とは一緒!?』
千影の言葉を遮る孝明の母親の様子に、千影は気圧されつつ驚いた。
「い、いえ。さっき河川敷で別れましたが……」
『あぁ……どうしましょう……』
電話越しですら落胆の様子が伝わってくる。それほど暗い声だった。
「どう……したんですか?」
千影は嫌な予感を胸に抱きつつ、孝明の母親へと問いかける。すると、その答えは千影の予想を裏切った。
『孝明君が誘拐されたって……。秦野千影を学校につれてこいって……』
千影の血の気が一瞬で引いた瞬間だった。