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茜が強く地面を蹴る。
すると大きな音とともに、茜が皆の視界から消えうせた。それとほぼ同時に、茜はサラの背後へと回り横っ腹へと蹴りをお見舞いする。サラはその蹴りに耐え切れず、素直に横へ飛んでいく。
「速っ――」
そう漏らす千影の横で、雪葉は小さく口角を上げた。
「おそらく前頭葉の運動領野のOBS……。下半身の筋力向上が脳力でしょうか」
「え?」
唐突な雪葉の言葉に、千影は呆気にとられたように口を開けながら雪葉を見上げた。
「ご存知ないですか? OBSは脳の障害部位の活動が活発になる病気……あの方の場合は下半身の筋力を司る脳の一部、つまり運動領野の一部がOBSに侵されているのでしょう。それ故のあの速さ――千影様でしたら、あの動きを追うのに、それほど苦労なさることはないでしょうが」
雪葉の言葉に、途端に口を噤む千影。その様子をみた雪葉は苦笑いを浮かべるも、視線を目の前に戻し諭すように口を開く。
「今はそんなのどちらでもいいですね。あの方の脳力と私の脳力があれば、間もなくあの暴徒を取り押さえられます。しばらくお待ちください、千影様」
「君は――」
問いかけようとした千影を尻目に、雪葉もサラの元へと駆けていく。その後姿を、千影は歯がゆそうな表情を浮かべて見つめていた。
雪葉が駆けつけた頃、校庭の真ん中では骨の軋む音とうめき声が響いていた。
茜が縦横無尽に飛び回り、上段、前蹴り、かかと落としと、あらゆる角度から足技を繰り出していく。それを受けるサラは防戦一方であり、時折、防御をすり抜けた攻撃を食らうごとに顔をしかめている。
そんなサラから茜は距離を置くと、粗く呼吸をしているサラへと大声で問いかけた。
サラは、しゃがみこみ下を向いている。
「いい加減あきらめて降伏しなさい。これ以上やっても結果は見えてるでしょ? 武器を捨てて手を挙げて。ほら、早く!」
その声にサラは顔を上げて茜を見据えた。すると、おもむろに服のポケットに手を入れる。すると、突然口に赤い三日月を作り、笑い始めた。
「ははっはははっ! あんた馬鹿だね! あたしから距離を置くなんて! ほら、あんたみたいな馬鹿にはこれがお似合い――」
ポケットから取り出した爆弾を茜へ投げようと振りかぶった瞬間、その腕は力が抜けたようにだらりと落ちた。
「馬鹿はあなたですね。敵があのウドの大木だけだって誰が言いました?」
そっとサラの後ろへ近づいていた雪葉が、サラの腕の付け根に細長い針を刺していた。
「腕の神経伝達は遮断しました。しばらくは動けませんよ。さあ、大人しく降参してください」
「くそっ!」
サラはもう一方の腕を雪葉に叩きつけようとするが、雪葉はすかさずサラとの距離をとる。
茜と合流した雪葉は、不敵な笑みを浮かべながら茜を一瞥した。
「一体どうやって……」
「私の脳力の一つですよ。解説はまた後ほど。さらっと説明しても、きっとあなたの頭じゃ理解しきれませんからね」
非常時にも関わらず悪態をつく雪葉に、思わず顔をしかめるが、そんな場合ではないと茜は頭を振った。
「まあいいわ。あんたの腐った言葉を聞くよりも、サラをどうにかするのが先決だからね。とりあえず、後で覚悟しときなさい」
「望むところです」
そうして二人は弾かれたように左右に分かれて飛び出した。
その後は一方的だった。
茜はサラに対して容赦なく足技を浴びせていく。雪葉は、太もものベルトから取り出した長く細い針を巧みに使い、サラへと突き刺しながら攻撃を重ねていった。
対するサラはなんとか攻撃を避けようと努力するが、片手の自由を失った状態では、二人がかりの攻撃を避けることなど出来ない。全身、あざだらけ、血だらけになったところで、力尽きたのか地面へと倒れていく。
その胸元は大きく、そして速く上下を繰り返していた。
「終わりね」
呟きながら、茜はサラへと近づいた。その手には、腰の辺りから取り出した手錠が握られている。
「ちょっとあんた。頼むけど、サラの腕を押さえてくれない?」
茜の依頼に、雪葉は渋々ながら足を進めた。
脱力していない方の腕を、雪葉が全体重をかけて抑えると、茜は落ち着いた動作でその腕に手錠をかける。否、かけようとした瞬間――
「きゃああぁぁぁ!」
サラの腕が倍ほどに膨れ上がり、雪葉を瞬時に空中へと振り払った。そして、いつのまにか手に握っていた砂を、茜へと投げつける。
「ぅ――」
声を漏らす間もなく、尋常ではない太さのサラの腕に殴られ、茜は数メートル先まで吹き飛んでいく。
そして、空中から落ちてくる雪葉に向かって、サラはすかさず拳を突き上げた。雪葉は少しでも攻撃を防ごうと腹と拳の間に腕を割り込ませたが、その腕ごと衝撃が雪葉へと伝わっていく。
突き上げた拳から、ずるりと落ちていく雪葉。地面に横たわる雪葉には、身をよじる力も残っていなかった。
その様子を遠くから見ていた千影の目の前には、口から血を流している茜がいた。呼吸も浅く、痛みのせいか表情もこれまでにないほど険しい。
千影はそんな茜や雪葉を見ながら、どこか人事のように呆けることしか出来なかった。
静まり返った校庭の真ん中には、サラだけが立ちすくんでいる。脱力した腕はそのままで、全身傷だらけであるにも関わらず、その佇まいはどこか力強かった。そんなサラはしばらく押し黙っていたが、徐々に体を震わせ、声を漏らす。
「ふふっ……あは、は」
一度声が出てしまうと耐え切れなかったのか、次第にその声は大きく校庭へと響き渡っていった。
「あはは、はははは! なんてざまだろうね。あれだけ自信満々だったのに。今じゃ、そうやって寝転んでいることしかできないなんて!」
サラが顔を上げると、その表情は歓喜で染まりきっていた。
「我慢してるのつらかったんだよ? いい気になってお前達が私をいたぶってるのを見てると、おかしくってねぇ。必死になっちゃって馬鹿みたいだよ! 最後には虫けらみたいに這いつくばるのに、お前達の体を私のこの手がぼろぼろにしてやるっていうのに、がんばっちゃって……あぁ。さっきの感じからいって、お前達の骨、折れちまってんだろ? ぽきっていう感触が伝わってきたよ。もう、なんていうか。……気持ちいい……気持ちいいよぉ!」
ひとしきり叫ぶと、サラは狂ったように笑い続けていた。
「狂ってる」
ぽつりと呟く千影の顔面からは血の気が引いていた。常軌を逸した相手を前に、再び全身を恐怖が支配していく。
「――げて……」
その声に反応して、千影がサラに縛り付けられてた視線を外すと、千影の目の前で茜が必死になって言葉を紡いでいた。
「逃げて……」
「五十川さん!」
咄嗟に茜を抱き起こす千影。そんな些細な衝撃でさえも、痛みの為か茜は歯を食いしばり声をもらす。
「あ、ごめ――」
「いいから!」
痛みを耐えながら話す茜の必死さに、千影は気圧される。
「あいつは私と同じ、前頭葉の運動領野のOBSで、腕の筋力向上が脳力って言われてる。爆弾使いの剛腕鬼姫の異名は伊達じゃなかったってわけね……んぅ――」
息切れをしてしまい言葉の途切れた茜を腕の中で見つめつつ、千影は次の言葉を待つ。
「あいつの目的はあんたよ。理由はわからないけど、あんたを守るのが今のあたしの仕事。だから頼みがあるの。今すぐあいつから逃げて。そして警察に保護してもらいなさい」
「でも、二人とも動けないのに……」
「そんなこと言ってる場合じゃない。あいつがあんたに何をするかなんて、私にも分からないのよ! いいから、逃げて。あんたもOBSならそれくらいはできるでしょ?」
茜の言葉に千影は目を見開いた。それをみて茜は表情を歪めながらも、小さく笑う。
「何びっくりしてんのよ。隠してたつもり? あんた、この前、下着泥棒捕まえた時の高速移動中の私と目が合ったでしょ? 普通の人ならありえない。なら、自然と答えは出るわ」
茜の言葉をそこまで聞くと、千影は苦々しく表情を歪める。
「そんな顔してたら余計ばればれ……わかったら、ほら、早く!」
千影は促してくる茜に従い、ゆっくりと立つ。そして、少しずつ後ずさっていき、ついにはふっ切れたように校舎に向かって走っていく。
茜はそれを見て微笑んだが、その表情はすぐさま苦痛に染まっていった。
「あああぁぁぁぁぁっ!」
茜の叫び声に千影は咄嗟に振り向いた。そして、目の前の光景をみて、校舎に入る寸前のところで足を止める。
千影の視線の先では、茜がサラに踏みつけられていたのだ。
「いいのかい? お前が逃げればこいつは死ぬよ? 必死で助けれくれたのに薄情なんだね!」
「いいから! 逃げ――ぐ――っ!」
「うるさいね。あたしがあいつと喋ってんだよ。邪魔すんじゃないよ」
サラはそう言い捨てると、踏みつける足に力を込める。それに呼応して、茜のうめき声は大きくなっていった。
「五十川さん!」
「そうそう、戻ってきな? 悪いようにはしないから。あんたの母親について聞きたいだけなんだからさ。大人しくこっちにきなよ」
サラはそう言うと、満面の笑みを浮かべた。ただ、その笑みからはそこはかとない悪意が見え隠れし、見ていてほだされるようなものではない。
千影はサラと、茜、雪葉を順番にみて立ちすくむ。どしうていいのかわからずに。
現実感のない惨劇を見つめながら、千影は現実から目を背け、過去の記憶をすがるように思い出していた。