エピローグ
千影はその日、退院を迎えていた。先日の事件からは一週間後のことだったが、それにはわけがある。
例の如く、千影は多くの検査を受けることとなったしまったのだ。多重脳力という稀有な症例、しかも暴走の症状を呈している患者を、医師が何もせず放っておくわけがない。しらみつぶしに調べられた後、やはり異常がないということで、やっと退院が決まったのだ。
千影はすっかりなまりきった身体を伸ばしながら、荷物を持って病院の外にでた。体調はすこぶるいいので、前回のときのように叔母が迎えに来ることはない。代わりに来たのは、目を覚ました日から毎日訪れる見慣れてきた面々だった。
「やっと退院か。ほら、そっちの荷物持つぞ。病み上がりなんだから無理するなよ」
「そうです。ほら千影様、もう一つのほうは私が持ちます。貸して下さい」
両手に群がる孝明と雪葉は、強奪とも等しい様子で荷物をかっさらっていく。二人の勢いに気圧されつつ、なんとか残った意地で、千影は口の中で文句をたれた。
「それぐらい大丈夫なのに。二人ともおおげさだよ」
「そう思ってるなら、直接言えばいいじゃない」
千影が悪態をついていると、真後ろから茜が近づきぽそりと呟いた。突然の声に驚き千影は身体をひるがえしながら茜と距離をとる。
「ま、あんたじゃ抵抗するのも無理か」
からかうように笑った茜を見て、千影は思わず唇を尖らした。
「でも、五十川さんだってわざわざ来なくてもよかったのに――」
「ほら! また五十川さんって。この前、皆で話したじゃない。チームになるんだから他人行儀な呼び方はやめようって」
話しは数日前に遡る。
千影の目が覚めてから、四人は病室で多くの言葉を交わしていた。最初は孝明と距離のあった茜と雪葉だったが、赤毛という見た目とは裏腹に人畜無害だとわかると、次第に軽口をかわせるまでになっていった。孝明のOBS対する偏見のなさもそうさせたのだろう。
そんな中、茜が唐突に切り出したのは、千影と雪葉への特殊犯罪対策課への勧誘だった。
二人の脳力を間近でみた楓からの発案だったようだ。当初、出ていた千影に対する勧誘の話は、空の社から狙われている千影の保護の目的が強かったのだが、思ったより戦える様子をみて拾い物だと思ったらしい。人手不足の対策課がそれに飛びつかないはずがなかったのだ。
その申し出を二つ返事で受け入れたのは千影だった。
「もうOBSである自分から逃げたくない」
そんなことを言いながら茜を見つめる千影の視線は、いつも異常に力強かった。千影が行くならと雪葉が便乗したのは言うまでもないだろう。
三人とも研修生扱いになるため、しばらくは三人一組で任務にあたることになるらしい。そんなわけで、一応チームとなった三人は、互いの親睦をはかるため、名前で呼び合うことを茜が提案したのだ。
その時の茜は落ち着きもなく赤面していたのは余談だが。
「あ、ごめんね。茜」
「いいのよ……ち、千影」
自分から言い出したにも関わらず、どことなく茜はぎこちない。そんな様子に首をかしげながら、千影は軽くなった身体をゆっくりと前に進めていく。
「明日からまた学校か。今は地区会館で授業をしてるんだっけ?」
「そうなんだよ。今時、木造だぜ? この時期だからいいけど、空調もないなんてこれからどう生きていけばいいんだよ」
荷物を肩に駆けながら、孝明は大きくため息をついた。
「私はあの雰囲気、嫌いではないですけどね」
「そう? 雪葉ちゃんも物好きだね」
ちなみに、孝明が雪葉を名前で呼んでいるが、茜や雪葉から名前で呼ぼうなど、孝明に打診したことは一切ない。
ごく自然に会話に入り込む孝明に関心していたのも昔の話。千影も違和感なく、その会話に加わっていく。
「地区会館ってあの十字路のとこでしょ? なんか分かる気がするな」
「木に囲まれたあの雰囲気は、心が落ち着く気がします」
「私は虫が出そうだし、苦手かな」
「生憎、牛さんには聞いていませんが」
茜の言葉に雪葉が間髪いれずに切り出した。この二人だけは、和気藹々と話すことはほとんどなく、いつも言い争っている。
「何よ、別にあんたの許しがないと喋っちゃいけないわけじゃないでしょ?」
「別に許可はいらないと思いますが、牛なら牛らしく、もぉーとでも言っていればいいんです」
「……あんたねぇ」
「ちょっと、二人とも待って!」
袖をまくりながら雪葉に詰め寄ろうとする茜。それを千影があわてて止めに入っていた。後ろではその光景を孝明が笑いながら眺めており、最近はこのような光景をよく見るようになっていた。
「ほらほら。二人とも。今日は千影のめでたい退院の日だろ? 喧嘩は後にしてもバチは当たらないと思うけど」
笑いながらも孝明がさりげなく仲裁にはいる。その言葉にはっとした二人は、すぐさま離れ落ち着きを取り戻した。
「ごめんなさい、千影様。せっかくの記念すべき退院の日なのに。私……」
「悪かったわよ」
とりあえず、落ち着いた状況をみて千影は小さく息を吐いた。
「……退院とかはどうでもいいんだけど、喧嘩もほどほどにね」
「そうですよ。牛さんはもう少し、自重してください」
「あんたがそれ言うか!」
そう言いながら、再び感情の沸点に到達した茜。その様子をみて今度は千影は大きく息を吐く。
「もう、いい加減にしてよ」
特に特別なことのない日常の一コマ。千影の帰路はにぎやかだった。
◆
「っていうか、これどういうこと?」
千影が病院から自宅に帰ると、家の前にはトラックが停まっておりその荷台からは忙しなく荷物が運びこまれている。
「あら、言ってませんでしたか? 私の荷物です。今日からよろしくお願いします」
「ちょっとちょっと! 聞いてないよ。え? 雪葉、ここに住むの? なんで!?」
千影が慌てふためき、孝明と茜が放心している中、雪葉は颯爽と千影の家へと入っていった。
「どういうことだよ、千影」
「いや、俺もよくわからない」
皆の頭にはてなマークが多量に生み出されている。きびきびと動く引越業者の動きに見惚れていると、指示を出している人物が千影の顔見知りであることに気づいた。千影の叔母だ。千影は叔母の姿を見て、我に返ったように叔母に近づいていく。
「叔母さん!」
「あら、千影。遅かったじゃない」
「ずっとここにいたんだけど……。って、それより雪葉のこと、どうなってるの?」
叔母に詰め寄る千影。その剣幕に叔母はすこしだけ眉をひそめたが、すぐに落ち着き払った。
「言ってなかったかしら? 雪葉ちゃん、ここに引っ越すのよ」
「だからなんで!」
「なんでって、柚子葉が世話してた子なんでしょ? 養子にとってたから戸籍上は娘みたいだし。つまりあんたの兄妹ってことよ。仲良くやんなさい?」
「きょ、兄妹……」
あまりの展開に千影は思考が追いつかない。
「うちに連れてきてもよかったんだけど。ほら、うちの人の稼ぎじゃ大した家が買えなかったのよ。空いてる部屋がなくてね……。雪葉ちゃんにそれを話したら、あんたと一緒でも住んでいいっていうから仕方なく……」
そう言って家の中に入っていく叔母。その後姿を見つめながら、千影は顔を引きつらせていた。
「ちょっと、どういうことよ! 養子とか一緒に住むとか。一体どうなってんの?」
目の前で起きている事柄が信じられないのか、茜は怒りを滲ませながら千影へと詰め寄った。
「な、なんか、雪葉は俺の母親の養子で、俺の妹で、保護者公認でこれから一緒に住むみたい」
「なんですって!」
「なんだって!」
千影の説明に孝明も茜も驚きの声を上げた。
「一緒に住むって……、血の繋がらない兄妹だなんて……。そんなの、そんなのって……」
「なんでこいつばっかり……。どうしてなんだ。どうして俺は……」
千影の説明に、俯く二人。ぶつぶつと何か言い続けているが、それは千影には聞き取れない。
「千影様! 叔母様が引っ越し蕎麦を用意してくださったみたいです! 早く中に入ってください!」
「みんなの分はあるから、よかったら上がっていってね」
家の中から飛んでくる雪葉の声は、喜々としてとても嬉しそうだった。皆の動揺と興奮とは裏腹に、叔母の声は終始落ち着いている。
「だそうです。皆、とりあえず中に入ろうか……」
放心している二人に千影はそう促した。その言葉にはっとした二人は、苦々しい顔を浮かべながら千影へと悪態をつく。
「待たせちゃ悪いからとりあえず行くけど、あとでもっと詳しく聞かせてもらうからね。覚悟してなさい。明日を無事に迎えられると思わないでよね」
「そうだぞ、千影。お前はここ数日で俺の一生分の恨みをかっている。夜道にでも気をつけとけ」
「二人とも恐いよ! やめてよ」
ぎらついた目で千影に捨て台詞をはいていく二人。その二人の眼差しから、千影は冗談でないことを悟った。そんな二人は玄関に立っていた叔母の前で会釈をしながら中に入る。それを後ろから眺めながら、千影もゆっくり後を付いていった。
玄関で靴を脱いでいると、叔母がゆっくりと千影に近づき声をかける。
「皆、いい子そうじゃない。ね、千影」
そう言いながら叔母は先にリビングに上がりこんでいる三人を見ながらそう言った。三人は、やいのやいのと言いながら、蕎麦の準備を手伝っている。
「そう……だね」
「この間までの暗い顔が懐かしいくらいだよ。最近の千影をみてるとさ」
そういって微笑む姿は、生前の千影の母親とどこか重なっていた。
「もう、大丈夫だね」
それだけ言うと、叔母は中に入って蕎麦の準備を仕切り始めた。その後姿はどこか嬉しそうだった。
「あ、千影様! 早くこっちにきてください。蕎麦、伸びちゃいますよ」
「相変わらずどんくさいんだから。先に食べちゃうわよ」
「もうあんなやつは放っておいて、ほら。雪葉ちゃん、茜ちゃん。食べよ食べよ」
皆が笑顔で騒いでいる。そんな光景を見ていると、千影も自然に微笑んでいた。
家の中に停滞していた空気がゆっくりと動き出していた。皆の動きや笑い声が、千影の暗い家の中に光を送り込んでいた。そうして作られた空間は、いつしかかけがえのない居場所となっていく。
今と思い出を重ねることは意味はない。しかし、昔を懐かしんで今を尊ぶことは前に進むためには必要なことなのだろう。千影は、ふとそんなことを思いながら胸が締め付けられるのを感じていた。
「OBSも悪くないかもね、母さん」
そう呟くと、千影はリビングへと足を踏み入れた。今まで遠ざけていた、「自分」という存在を認めてもらえるその場所に。
ひとまずこれでbrainsyndromeー脳過活動症候群―は一旦終了とします。
本当はもっと千影たちの物語は続いていくのですが、私が未熟なため、ずいぶん長くこの作品と関わってしまいました(書き上げられず停滞してしまっていました)。本当はもっともっと千影たちの話を書いて、もっと幸せな形で物語を終える予定だったのですが……。
一度この作品を完結扱いとして、改稿を終えたら、別の作品にとりかかろうと思います。
千影たちの先が見たいという物好きな方がいたり、また私が思い立ってこの続きを書こうと思いましたら、再度更新していこうとは思っています。
長い間でしたが、拙い作品にお付き合いくださいありがとうございました。
では、機会があれば別の場所で。
失礼いたしました。