18
「ちょっと! 放してください! 嫌、放して」
千影が空の社の幹部達に立ち向かっていた後、雪葉は声を荒らげていた。すぐさま千影の後を追おうと思った雪葉だったが、その足は茜と楓に止められていたのだ。
「待ちなさい! 今あんたが出ていったって何ができんのよ! 私の腕さえも振り払えないほど消耗しているのに、そんなんじゃ、ただの足手まといでしかない」
「それでも! 千影様を置いて逃げるなんて私には――」
茜の腕を振り払おうとするも、雪葉の全身には最早、力など残っていない。高温刺激にすべてをかけた雪葉は、戦う力のみならず、ここから逃げ出すことさえもぎりぎりの状態だった。
「それが、秦野君を見捨てることになってもか?」
もみ合っている二人の後ろで、傷だらけの楓が冷たく言い放った。
「それをしようとしてるのはあなた達です! 自分の命、可愛さに、千影様を見捨てようとしてるじゃないですか」
「それは違う」
「なら、早く千影様を助けないと――」
「俺達に何ができるっていうんだ!」
突然の怒声に、茜も雪葉も体をびくつかせた。
「茜は立ち上がることができない、俺も自分の油断でこの様だ。君だって、茜の言うとおり立っているのがやっとだろ? 千影君だけが、なんとか戦える状態だったんだ」
その問いかけに、雪葉は言葉を告げられない。
「なら今、俺達にできることはなんだ。最後の力を振り絞って、応援を呼ぶことだけだろ。それ以外の道は犬死しかない。秦野君を助けるためには、俺達はまず自分の命を守らなきゃならないんだ」
ふと雪葉の体から力が抜ける。それを見て楓は表情を緩めると、ゆっくりと雪葉へと語りかける。
「君の大事な人を守るために、協力してここから脱出する。異論はないな?」
その言葉を受けて、雪葉は千影達がいるほうへ視線を向けた。そこでは、一度、距離を開けた千影達が再び衝突を繰り返していた。三対一という不利な状況であり後ろに一人控えているという不利な状況の中、千影はその命をなんとか守っていた。
雪葉はその後ろ姿を見て、そっと涙する。自分を守るために命を削るその姿が、何にも代えられない想いを呼び起こすのは、不思議なことではなかった。
「それなら早く行きましょう。早く助けを呼んで、千影様を助けなくては」
そういって茜の腕を取り肩を組む。雪葉の膝はそれだけでもがくがくと震えていたが、視線はまっすぐと屋上の出口を捉えていた。
「ええ、早くいかないとね。あいつじゃ、すぐにやられちゃいそうだもん」
軽口を交わしながらも、その表情には緩みがない。皆、同じ想いを抱きながら、孝明を回収し、急ぎ足でその場を後にした。
◆
もう何発撃っただろうか。もう何度、刃を牙をすり抜けただろうか。幾重にも重なる残像の中、千影はまだ命をつないでいた。
その犠牲になったのは、もう上には上がらない左腕と、強い痛みが走る右足だ。いくら先が予測できるからといって、それは万能ではない。すべての動きに対処できるわけでもなく、千影は当然、数の利に押されていた。
「はっ、はぁっ、はあっ……」
「いい加減お疲れみたいだけど、もうあきらめたら? 一応、仲間は逃がせたみたいだし。もう目的は果たせたでしょ? いい加減、秦野柚子葉の研究の情報、吐いちゃいなよ」
桜庭が満身創痍の千影に詰め寄るも、千影は息も絶え絶えで答えることができない。
「何? 無視? 別にいいけど――ねっ!」
突然、飛んでくるナイフ。そのナイフの軌道は読めていてもかわせない。そのナイフは、千影の頬を切り裂いて、赤い一文字を刻んでいた。
「あせるな、桜庭。お前も、もういい加減にいいだろう。勝ち目はないのはわかってるはずだ。それで、その研究の資料なり情報はどこにある? お前の自宅か、それとも常に持ち歩いているのか?」
「……だよ」
「は?」
「嘘だよ、って言ったんだ」
千影の言葉に空の社の面々は目を見開いて驚いている。
「母さんの研究なんて知らない。そんなのどうだっていい。皆が逃げられたんだ。それだけで満足だ。ははっ」
そういって千影は力なく笑う。その笑みは決して自分を蔑んだものじゃない。ようやく戦いの終わりが見えてきたことに、少しの安堵さえ感じていた。
「そうか、それなら仕方ない」
柳原はゆっくり歩きながら千影に近づいてくる。その表情は冷たく、柳原とともに冷気が屋上を満たしていった。
「時間の無駄だったな。早々に死ね」
柳原が作り出した氷の刃が、千影目掛けて振り下ろされた。
と同時に、すさまじい爆音とともに、屋上の地面にひびが入る。ちょうど、千影と柳原達を分断するように走ったひびは大きく、両者の距離を引き離した。
「なんだ? これ」
「爆発か」
「おい、柳原。これ、お前の指示か? 俺らが戦ってる間に、サラのやろう、いなくなってるぜ」
氷の刃をかかげる柳原に、白田は気だるそうに問いかける。柳原はゆっくりと首を振りながら、ひびの向こうに立ちすくむ少年に視線を送った。
「ねえ、柳原さん。これ、結構やばいかも。このままじゃこの学校崩れるね。早く逃げなきゃ」
桜庭はそう言いながら、早々に姿を消した。白田や権田もそれに続いていく。柳原は千影に視線を向けながらも、名残惜しそうに踵を返していった。
「もしかして助かったのか?」
そう呟きながら、千影はその場に崩れ落ちる。
爆発は未だに続いており、徐々に校舎の原型は崩れてきていた。千影が座り込んでいる地面も、最早地つながりの所などなく、かろうじて鉄骨に引っかかってその場に留まっているだけだった。
多量の煙と衝撃波の中、千影は動かない自身の体を見つめながら笑っていた。
――千影。これだけは覚えておいて?――
そんな千影の脳裏に、かつて聞いた母親の言葉が響いてくる。
――みすぎちゃだめ……見てしまったものがあったなら、それはあなたの心の中にしまっておきなさい――
「約束やぶっちゃったね」
最早、血の涙は枯れ果てており、透明な雫が頬を撫でていく。
――ごめんね、千影……でも――
おぼろげな記憶を呼び起こしながら、千影はどこか満たされていた。OBSである自分から逃げずに、誰かの役にたてた。それだけで、千影にとってはこの上なく嬉しいことだったのだ。初めて自分自身で何かを成し遂げられたような、そんな感覚に陥っていた。
「でも、思ったより気分はいいもんだね」
――でもね…………――
記憶の中で、途切れていた台詞。その台詞は唐突に千影の頭の中に響いた。
「大事な人のために使うなら、それは誇りに思いなさい」
千影は、すぐ目の前からその言葉をかけられたように思い、咄嗟に視線をあげる。その刹那、千影がいたコンクリートの地面は崩れ、千影は未だ爆発を続ける校舎の中に落ちていった。
「そうだよね。ならよかったんだ……」
千影はそう言いながら、暗闇へと吸い込まれていく。千影が最後まで見つめていたのは、あるはずない声がした場所。そこには、確かにもうこの世にはいない千影の母親が立っていた気がしたから。
「これで、よかったんだよね、母さん」
その声は、瓦礫の崩れる音と爆発音に紛れ消えていった。
◆
「何よ! この爆発は!?」
「おい! 急いで外へ出るぞ」
急な爆発に、外を目指していた楓達は困惑した。咄嗟のことであり、さらには歩くのさえぎりぎりな状態で、迅速な行動などできるわけもなかった。
「千影様!?」
後ろを振り向きながら、雪葉は悲鳴のような声を上げる。と同時に、四人が歩いていた廊下の窓ガラスが、けたたましい音をたてて砕けた。そして、その窓から人影が数人飛び込んでくるのが見えた。
「おい、このうすのろ」
そこに現れたのは、中年の男。髪の毛は後ろに流れており、露わになっている額と眉間には、深いしわが刻まれている。不機嫌そうに睨みつける視線は鋭く、雪葉は咄嗟に身構えていた。視線とは裏腹に、ボリュームのあるたるんだ腹からは貫禄が滲み出ていた。
「宮本さん!」
茜が表情を明るくして声を張り上げる。楓もその姿をみて安堵した様子だった。
「遅すぎです。それより、俺達よりも――」
「あなた、警察関係者ですね!? 千影様が、千影様がまだ屋上に!」
茜と楓と宮本と呼ばれた男とのやり取りで、雪葉は瞬時にその関係性を見抜いていた。そして、おそらく助けにきた警察関係者だと自分の中で断定すると、すぐさま千影に対する救助を要請をするに至っていた。
見知らぬ少女からの突然の懇願に宮本は困惑し、楓へ視線を向ける。すると、楓は顔をしかめて頷いた。
「楓、お前がいてガキども全員、連れて来れなかったのか?」
「っ――! ……すいません」
宮本は傷だらけの状態でうな垂れる楓をみて舌打ちをする。
「とにかく、お前らはこっから脱出だ。爆発の規模は今までとは桁違いみたいでな。それほど時間をおかずに、この学校は崩れるぞ」
そう言うと、宮本の後ろに控えていた男達が、茜や雪葉に手を貸そうと近づいた。しかし、その手を雪葉は払い、宮本へと食って掛かる。
「私達よりも、早く千影様を助けてください! 早く――」
「うるせぇ!」
突然の怒号に、その場の空気は凍りついた。それを感じ取ったのか、叫んだ本人である宮本は罰が悪そうに頭をかきながら話し出す。
「黙って避難しねぇならそこの窓から放り出すぞ! 屋上には別の救助班が向かってる。間に合ってることを祈ってろ。今からこっから向かったって間に合わん。それくらいの状況判断ができないで、戦場に踏み込んでんじゃねぇ。俺たちゃ、ガキのお守りするために仕事してんじゃねえんだよ」
宮本の言うことは正論だった。その正論に、雪葉は反論すらできず、ただ悔しさからか歯を食いしばっている。
茜は、そんな雪葉を見ながら、宮本の言葉を頭で反芻していた。自分にも浴びせられたかのような宮本の言葉は、茜の心を深く貫いていた。
楓達は救助班により校舎の外へ避難した。燃え続ける校舎を、崩れていく校舎を、離れた場所でただ見つめていた。
屋上から戻った救助班のヘリコプターには、千影は乗っていなかった。その事実だけが、茜や雪葉の肩に、重くのしかかっていた。
◆
校舎が崩れる少し前。真っ黒になった一階では、一人の女が寝そべり不気味な笑い声を上げていた。
「あは、あははは! あの小僧の読みも最後のとこで詰めが甘かったねぇ」
そこにいたのは悪魔の如き顔をした、金髪の鬼、サラ・ブレーク。ぼろぼろの四肢でここまでたどり着いたのはもはや執念、怨念。サラは、最後に一つだけ、やり遂げなければならないことがあったのだ。
「制限時間まであと二十秒だ……。いくら撒き餌だって言ったって、爆発くらいするんだよ」
そう言いながらサラは手に持っていたスイッチに指をかけた。見ると、そのスイッチの先、サラの胸元にはおびただしい量の爆弾が抱えられている。
「私がただ壊されるだけで終わるわけないだろう? 壊さなきゃ、こんな気持ちよさ味わえないんだから。だから壊すんだ。これだけの大きさの校舎なら、きっと気持ちよさも倍増さ……」
そう呟きながら笑顔を浮かべながらも、その瞳からは一筋の水滴が流れ出る。
「泣いてる? 私は泣いてるのかい……? 冗談じゃない。涙なんかとうの昔に捨て去ったはずじゃないか……」
そういいながらも止め処なく溢れる涙。サラの脳裏に浮かぶのは捨て去った過去、幸せな思い出。思い出すことなんかなかった光景が胸中に立ち込める。
混乱の境地にいるサラだったが、無常にも時間は淡々と過ぎていく。既に、タイムリミットは数秒しか残されていなかった。
サラは涙を流しながらふと笑みを浮かべると、おもむろに右手を天井へとかざした。その仕草はひどく繊細であり、その表情は悪魔とは程遠い、天使のような顔だった。
「お父さん……お母さん……」
その言葉が言い終わらないうちに、サラは手元のスイッチを押していた。