16
千影は吐ききった息をやっとの思いで吸い込んだ。
「ばぁっ、はぁっ、はぁ」
千影の目の前には倒れこんだサラ。近くには足の痙攣している茜が寝そべっており、後ろのほうでは雪葉が気を失って倒れていた。周囲を見回すと、楓は屋上の入り口の奥のほうに回りこみ、砕かれたコンクリートの被害は受けていないようだった。孝明は相変わらず、フェンスにもたれかかっている。
「やったじゃない。おいしいところ、もってかれちゃったわね」
「五十川さんや如月さんのおかげ、なんでしょ? 俺にはよくわからなかったけど」
「わかってるならいいわよ」
そういって茜は笑う。つられて千影も笑っていた。
「千影様!」
そんな千影に、後ろから雪葉が飛び込んでくる。
「如月さん!?」
「千影様、怪我はありませんか!? この女の傷を見る限り、千影様が最後を決めてくれたんですね! さすがです! すごいです!」
「ちょっと、ちょっと待ってよ!」
千影の必死の抵抗もむなしく、雪葉につぶされて千影は倒れていく。雪葉は涙を流しながら、千影の無事を喜んでいた。
「本当に千影様が無事でよかったです! 千影様がいなくなったら、私は何を支えに生きていけばいいか……」
「大げさだって――」
「そんなことないです! とにかく千影様はすごいです! 私の目に狂いはありませんでした」
ようやく落ち着いた雪葉はそっと上体を起こすと、満面の笑みを千影に向けた。その視線に射抜かれた千影は不覚にも心臓を高鳴らせてしまう。
「……あんたたち。それより、そこに倒れてるサラをどうにかしてよ。また起き上がられたら面倒よ」
千影と雪葉のじゃれあいに、茜は呆れた声で呟いた。
「私は立ち上がれないんだからあんたたちでやってくれなきゃ」
そう言うと、茜は懐から手錠を取り出した。その刹那――
周囲の気温が途端に下がる。冷たい空気が広がり、千影の吐く息さえ白く変えていった。
「急に……なんだ?」
手錠を受け取る手を止めた千影。千影が顔を見上げると、貯水庫の上には見覚えのある人間が立っていた。背の高い銀髪の男。柳原と呼ばれていた男は、いつのまにかそこに立っていた。
「や……なぎはら……」
茜も同じ方向を見ながら放心している。雪葉は、柳原が持つ威圧感を感じて、険しい表情を浮かべている。
「そこに倒れている女は一応、仲間なんだ。申し訳ないが、ちょっと話をさせてもらえないだろうか」
そういって柳原は、貯水庫から飛び降り悠然とサラに向かって歩いていた。
◆
銀髪の男は、ごく自然に千影達の前を歩いていた。その動きは力みもなく、街中を歩いているかのような優雅さだ。
対して千影達は、その男から意識を逸らすことはできない。茜はこれでもかと歯を食いしばり睨みつけ、雪葉は観察するように凝視していた。千影はその立ち振る舞いに見とれるように、ぼんやりと歩くのを眺めている。
そんな中、千影は思い出したかのように声を出した。
「あ、あの――っ」
柳原はゆっくりと千影へと振り向いた。
「あなたはこいつの仲間って言いましたよね? そしたら空の社ってことですけど……あなたも俺を捕まえに?」
そう言いながら千影はゆっくりと銃口を柳原に向けていた。柳原は少しだけ目を見開いたが、その後は千影から視線を逸らし、サラの真横に立った。サラを見下ろし、ゆっくりと問いかける。
「作戦の実行が早すぎる。単独行動は禁止といっただろ。お前の独断専行が原因で俺が助けにくるのは二度目だ。これについてはどう思う?」
「……ろせ」
「今回のお前の行動で同志達の命が数多く失われた。それについてはどう思う?」
「げふっ……殺せ」
「お前が組織に与えた損害はかなりのものだ。それについ――」
「殺せ」
サラは自由のきかない体を動かすこともなく、ひたすらに同じ言葉を紡いでいく。そんなサラを見ていた柳原は、困った様子でため息をついていた。
「なら、殺しちゃえばいいじゃん! いいでしょ、もう使い物にならなそうだし。あとは俺らでどうとでもなるし」
「極論だな。論外だ」
「そうかな? そんなことないでしょ。どうせそんなやつ使い捨て――」
「まあ、言いたいことはわかるが……柳原がそんなことするわけないだろ。それくらいわかれ」
聞き覚えのない声に、皆一斉に声の方向へ振り返った。
その目線の先、貯水庫の上には、見覚えのない男が三人も立っていた。軽薄そうな茶髪の若い男、道着を着たがたいのいい男、そしてやたらと口が大きい太った男の三人だ。
その三人が、サラと柳原を見下ろしながら、思い思いのことを話している。
「殺さんよ。とりあえず見ての通りなんだが、運ぶのを手伝ってくれないか。俺だけじゃ、ちょっと厳しい」
柳原のその言葉に、三人は渋々ながらも貯水庫から降りてくる。
茜はその光景を見ながら、手だけでなく肩までも震わせながら、真っ青な顔をしていた。
「えっと、これってどういう状況だと思う? 五十川さん」
柳原達の毒気のない態度に困惑しつつ、銃口を既に逸らしていた千影は安穏と茜に問いかけていた。
「知らないわよ……」
「え?」
「わかんないわよ、こんなの! 柳原をはじめ、他のやつらだって空の社の主戦力……。こいつら全員……サラよりも強いはず」
「まさか――」
千影は茜の言葉を疑った。先ほど、自分達のすべてをかけて、やっとのことで倒したサラが、ここにいる奴らよりも弱いという言葉を信じることが出来なかったのだ。理解してしまえば、一気に飲み込まれそうな事実を、千影は必死で否定する。
「そんなのって……、なら、こいつらは……何を?」
「そんな心配よりも、しなきゃいけないのは――、私達の命の心配よ」
茜は千影と言葉を交わしながらも、一点を凝視している。考えがまとまらないのか、どこか放心していた。雪葉も男達の強さを肌で感じてるのか、先ほどから言葉を発することはない。眉をひそめ、息を整えていた。
そんな中、男達は柳原の下、もといサラの近くまでやってきて、何か言いながらサラへと手を伸ばそうとしている。その時――
無機質な破裂音が屋上に響き渡る。黒い銃弾は男達が伸ばした手をかすめていく。振り向く空の社の面々。その視線の先には千影が立っていた。
「何のつもりだ?」
柳原は先ほどとは表情も変えずに千影に問いかけていた。サラに手を伸ばそうとした男達はその手を既に引いており、柳原と同じように千影を見つめている。
「五十川さん、如月さん、逃げて」
その言葉に、茜も雪葉も言葉を挟もうとしたが、それは千影に遮られる。
「五十川さんのお兄さんと如月さん、二人でなら五十川さんも孝明も連れて行ける。時間を少しでも稼げるのは、俺しかいない」
あまりにも唐突な千影の叫びに答えたのは、茜や雪葉ではなく柳原だった。
「そんなかっかしないでも、君達《・・》を傷つけるつもりなんてないよ」
「五十川さんのお兄さんを殺そうとしたのに? 俺をだしに孝明をさらっているっていうのに?」
「それはサラの独断だ」
「それを信じられるよう行いを、空の社がしていたとは思えない」
柳原はその言葉を聞いて、鼻で笑った。そして、千影を見据えて話し出す。
「君の気持ちはわかるがね。無駄な争いはしたくない。それはわかってもらえないか?」
千影はその言葉を聞いても、銃口を柳原達から背けることはなかった。
「ずっとひっかかってたんだ。サラはなんで爆弾解除なんて条件を出したのか。そいつの性格から言って、俺達を痛めつけたいなら孝明を誘拐しただけで事足りる。ならなぜか。それは、爆弾がある場所に誰かを呼び寄せたかったからだ」
千影の言葉を柳原達は無言で聞いている。
「なら誰を呼び寄せたかったか……。最初は俺かと思ったけど、俺相手ならそんな回りくどいことは必要ない。罠にでもはめないと足止めできない人物を呼び寄せたかったんだよ。例えば、五十川さんのお兄さん…………。サラは『超熱体温さえ殺せたらそれでいい』って言っていた。五十川さんがつっこんだせいで有耶無耶になってたけど、それが目的だったんだよ。お兄さんを、始末することが。だから、俺達がここまで持ってきた爆弾のことなんかサラは気にも留めていなかった。爆弾は単なる撒き餌。きっと、爆発も何もしないんだろうから」
千影の独白に、茜は表情を強張らせる。
「推測だけど、OBS患者が関わっている事件は特殊犯罪対策課が担当するってことになっていない? もしそうならお兄さんがここにくるのは想像できる。今回は校舎の中に入っていたからよかったけど、入っていなくても、爆弾を使えばそれなりの罠なんてはれる。孝明の誘拐や俺の母さんの情報なんて二の次、もしくは隠れ蓑。本当の目的は、百五十人もの人間を相手取れるお兄さんという戦力の排除。そして、その目的は空の社の目的でもあるんじゃないかな。なら、今目の前にいるあんたたちが、それを果たさないとは限らない。君達《・・》の中にお兄さんは入っていないんでしょ?」
千影の視線が柳原に突き刺さる。しばらく沈黙が二人を包みこみ、重苦しい空気が蔓延った。
「君が言ったことが全部、本当だとして、それで君に何ができる? 君の予想通り殺されたいのか?」
「俺は、母さんの研究のデータを持っている」
その言葉にその場にいた全員の顔色が変わった。全員の視線が千影へと集められる。
「そして、そのデータを渡す気もなければ、殺される気もない。だからといって逃げる気もなければ……な、仲間を見捨てる気もない」
そう言いながら、千影は雪葉や茜を一瞥する。その視線の意味がわからない二人は、険しい顔の中に疑問を少しだけうつしだした。
「俺は戦うよ。そして、全員で生きて帰る。それが俺がすること――すべきことだ」
そう言って、千影は前髪をかきあげた。
◆
「無茶よ! 何考えてるの!?」
「そうです! 戦うだなんて、そんなの許せるわけないじゃないですか」
千影の背に隠れるような形になっている茜と雪葉。二人は怒りを感じさせる声で話しかけていた。
「無茶じゃないんだ」
「何をいって――」
茜が捲くし立てようとしたが、いきなり振り向いた千影の表情に言葉を飲み込んだ。
「このまえの病院での精密検査。その検査結果なんだけどさ、」
このような状況にも関わらず千影はかすかに微笑んでいた。それでいて少しも楽しそうではないのは気のせいではないだろう。そんな表情を浮かべながら、千影は話続ける。
「暴走、じゃなかったんだ。この前の目から血が流れてくるのは……。あれは単純に、向上した神経伝達物質が引き起こした副作用、みたいなものなんだ。瞼の裏の毛細血管の損傷は認められたけど、ただそれだけ。視力にも影響はない。ただ、普通と違うのはその血じゃなくて、脳力の発現方法だったんだ」
千影の言葉に茜と雪葉は首を傾げる。
「俺の脳力は視力向上じゃなかったんだよ。いや、言い方がまずかったかな。視力向上、だけじゃなかったんだ」
「何が……言いたいの?」
「結論から言うと、俺のOBSの障害部位は、前頭葉の有視野だけじゃなかったんだ。そこに至る途中の縁上回と呼ばれる所も障害されているみたいなんだよ」
茜はそのことにぴんときていない様子だったが、雪葉は驚愕の表情を浮かべて慌てて問いかけていた。
「そんなっ――! そんなことあり得ません! OBSの障害部位は一箇所しかないのが普通です! 二箇所だなんて、そんなの生命の維持そのものが難しい……」
「でも本当なんだ。何が原因か分からないけど、俺の脳力は二つの障害部位から引き出されてるのは確かなんだ。有視野領域の視力、そして縁上回領域の知覚の統合、分析能力、その二つの能力が向上し合わさったもの。それが俺の脳力なんだ」
そこまで言うと、千影は二人から視線を逸らし、再び柳原へと向き直った。その背中からは頼もしさとか男らしさなんていうものは伝わってこない。伝わってくるのは、寂しさと儚さ、それだけだった。
「多重脳力。先生はそんな言い方をしてたかな。普通の人は一つしか持っていない脳力を俺は二つもってる。だから大丈夫なんだ。少しくらい、皆が逃げる間くらいは時間を稼ぐよ。だから、だから孝明を連れて逃げて。お願いだから。そして、お兄さんを守ってあげて」
そう言って、千影はその場から飛び出した。その勢いに置いていかれた赤い雫は、名残惜しそうに、茜と雪葉の前に滴り落ちていた。