其の三
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僕はその日、夜中までうどん作りの練習をしていたんだ。
あの時は、確か、夜中の一時だった気がする。もうだいぶ時間が遅くなっていたし、たっぷり練習して疲れていたから、寝ようと思って、調理場を出ようとした。
けれど、そこで勝手口にゴミを出しに行くのを父さんに言われたのを思い出したんだ。
あそこにゴミを置いておかないと、明日の朝、収集場に出しに行くのを忘れてしまうからね。
だから僕は、眠いのを我慢して、外にゴミを置きに行ったのだけれど、
そこで――。
一人の人物に出会ったんだ。
もう夜もすっかり深まっている時間帯だったし、僕も変だと思ったんだけれど、その人物は、電柱の脇に前かがみになってしゃがみこんでいて、必死に何かを探している様子なんだ。
こんな夜中に、酔っ払って財布でも落としてしまったのかと僕は考えてさ。もし、良ければ一緒に探してあげようと思って、それで、その人に近づいていった。
すると、案の定、その人物は小声で、
「無い……無い……無いなあ」
そうつぶやいている。
僕はその人の肩を叩いた。何を無くしたのか、訊ねようとしたんだ。
するとさ、その人が立ち上がって、僕の方を見たんだ。
そしたら、
その人の顔、のっぺりした卵みたいな顔でさ。
なんと、目も耳も鼻もなかったんだ。
口だけはついているんだけれど、それ以外のそこにあるべき顔のパーツが全然見当たらなくてさ。
そして、
「目と耳と鼻を無くしてしまったんです」
って言うわけさ。
だから僕は彼に、
「一緒に探しましょう。どこら辺に落としましたか?」
って――。
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「そこは驚けよ!!」
話の途中に、夜彦の突っ込みが割って入った。
「え、え? 何が?」
面食らっている秋正を尻目に、夜彦はバンバンとカウンターを叩く。
「そこは普通、悲鳴を上げて驚くところだろ! お前、驚かなかったのかよ」
「それは、まあ、びっくりはしたけれど」
「なら、驚くべきだ。お前のその口は何のために付いてるんだよ。悲鳴を上げるためだろうが」
「そんな極端な……っていうかさ、驚くって、どう驚けばいいのかな?」
「え?」
急に真顔で秋正がそう聞いてきたので、夜彦は焦った。
「ええと、そうだな。うぎゃあああああ、とか、ちょえええええ、とか」
「う、うぎゃああああ」
相変わらずの無表情のまま、秋正は夜彦の真似をしてみせる。それは評価するにも値しない、何ともぎこちなく、さらにわざとらしく、間の抜けたリアクションだった。
夜彦は嘆息する。
「あのなあ、今頃そんなリアクションしてどうするんだよ。その場じゃないと意味ないの、その場じゃないと!」
「うーん、面倒な世の中だね」
「ったく、妖に対する礼儀がなってないんじゃないか?」
「れ、礼儀って……そういう問題なの?」
「そういう問題なんだよ」
夜彦は肩肘をついて、口をむっと突き出す。
まあ、秋正のリアクションの鈍感さはこの際、横に置いておいて……。
また、妖かと夜彦は思う。
しかも今度は、つい先日のもの(音楽室の幽霊事件)とは違い、正体がはっきりしている。
のっぺらぼう、ねえ。
これは言わずと知れた、とても有名な妖である。
よくある話としては、まさに秋正が体験したように、真夜中に、人通りの少ない通りの角で、しゃがみ込み、物を探している人がいる。
その人物に声をかけると、なんとその顔には、目や耳といった、人間の顔にはなくてはならないパーツが無く、それを見た人間はとても驚いて気絶してしまうのである。
その妖に、秋正はこの町で出会ったのだ。これは十分に、検証に値する事例ではないだろうか。
そこで夜彦は隣で、相変わらずうどんをおいしそうに啜っている妖の少女に顔を向けた。
「っで、葛葉はどう思う、今の話」
「うう?」
彼女はうどんを口に入れたまま、夜彦を向いた。その顔は楽しみな食事の時間を邪魔するなという怒りに満ちているようだったが、ふん、と一度鼻を鳴らすと、うどんを噛み切って、口を開けた。
「別に、私は今の話からでは、どうということもないと思うがな。意見は特にないぞ」
どこかつんけんした言い方なのが夜彦の癪に障る。
「おい、俺のクラスメイトが妖と遭遇してるんだよ。調査が必要だろう」
「調査? お前はいつも二言目にはそれだな」
葛葉は箸を置く。
「いいか、落ち着け。今回の事件は、秋正が数日前の夜にのっぺらぼうと出会った、ただそれだけの話だろう。これだけ分かれば、調査資料としては十分だ」
「お、おい。それは職務怠慢ってやつだろう。伝聞の情報だけで、きちんとした実態を把握せずに決め付けるのは、あまりにもいい加減じゃないのか?」
「職務怠慢? あのな、我々の中では、人間たちのようにしち面倒臭いがんじがらめにされた仕事上のルールなど存在しないのだよ、夜彦。はっきり言って、ただ妖が出たからといって、馬鹿正直にいちいち現場に向かうなど愚の骨頂だな。わざわざそんなことをしていたら、身がやつれてしまうぞ。私が本格的に動くのは、人と妖の間のバランスが大きく崩れた時だけでいいのだ、分かるか? それに、お前だってこの前学んだだろう?」
「あん?」
「先日の学校の音楽室での件だ。忘れたとは言わせんぞ。私にあんな無駄足を踏ませおいて」
葛葉が夜彦に睨みを利かせる。これにはさすがにぐうの音もでなかった。確かにあの一件では、夜彦があれだけ大口を叩いておきながら、結局、事件と妖の関与を匂わせる証拠は、何一つも見当たらなかったのである。今思い出しても、面目ない。
と、そのやりとりを不思議に思ったのか、秋正が口を挟んできた。
「あの、さっきから二人とも何の話をしてるの?」
「い、いや、こっちの話だよ」
夜彦は一瞬ヒヤリとする。葛葉が白狐であることは、他の誰にも秘密なのだ。
「ところで、秋正」
器から顔を上げて、葛葉が言う。
「うん、なんだい?」
「私は、この男の余計な突っ込みによって遮られたお前の話の続きが聞きたいんだがな。そののっぺらぼうに驚かなかったお前は、その後どうしたんだ? いろいろ検証するのは、それからでも遅くはあるまい」
「続きかい?」
「そ、そうだ、俺もそれが気になっていたんだ!」
と、夜彦は慌てて指を鳴らす。
「ふん、調子がいい奴だ」
「で、秋正、お前は本当にそののっぺらぼうと顔のパーツを探したのか?」
夜彦が訊くと、秋正は首を振る。
「いや、違うよ。二人とも興味があるなら、続きを話すから……」
そうして、再び、話をはじめた。