其の二
春の日の放課後のことである。
八守中夜彦は自宅から少し離れた町の中通りにある、とある小さな店を訪れていた。
うどん処「和泉」と暖簾のかかったその店は、夜彦がたまに向かうことがある、馴染みの場所である。
近所の住民からもおいしいうどんという事で昔から名を知られているその店は、うん十年という歴史があるということで、全体的に魅力に欠ける古びた店ではあるものの、その安定した味の良さから、客足の途絶えることのない人気を維持している。
夜彦はそこのカウンター席に座っていた。
「ふう、ふう、ふう……」
熱い湯気の上がる麺に息を吹きかけながら、一気にうどんを啜る。
もっちりとした何ともいえない腰のある麺が喉を通り抜けていく。うむ、いつもながらに絶品である。
ふと、目を横にやると、夜彦の隣には、どこか異質な雰囲気を纏った、一人の少女が席に座っていた。流水の輝きのごとき美麗な銀髪に、白くふんわりとした古風な印象の水干を着ているその少女の名は、葛葉と言う。
あまりおおっぴらに公表出来るわけではない彼女の正体は、実は人ではない、妖と呼ばれる存在である。今でこそ、彼女は人間の姿をしているが、本来は白い毛並みをした白狐なのだ。
ちなみに、妖とは、闇に生き、不思議な力を操る者たちのことであり、怪異、物の怪、妖怪、などという別称でも世に広く知られている。彼らはその昔、人々とともにその縄張りを争い、それでいて共生をしていた存在なのである。
しかし、昨今は急速に発達した人間の文明の力によって、その勢力を失い、すっかりその数も減らしているのが現状だった。
そのため、白狐である彼女は、別世界(正確に言えば、幻妖界と呼ばれる場所)からこの地に舞い降り、人と妖のバランスを図るという極めて重要な使命を帯びているのだ。
が、当の彼女は、現在、夜彦と同じように店のカウンターにおいて、暢気にも、うどんを啜っている。そう、暢気にも。
つい数十分前、学校からの帰り道、いつものように夜彦はちょっと神社に寄って、葛葉の様子を見た後、去り際にこのうどん屋に行くと言うと、暇を持て余していたらしい彼女は、嬉々としてついてきたのである。
これが過激な職務に、ほんのひと時だけ訪れる心やすまる休息というのならば、理解できるものであるが、彼女の場合、万事が万事この調子で、妖の調査などの基本的な仕事をまともにする気もなく、お気楽に人間の世界を楽しんでいるのだから、呆れてしまう。
夜彦はこのため、やる気のない彼女を日々刺激しつつ、彼女の代わりとなって、妖と人に対する危機的な意識を持たざるを得ないのが常である。
少なくとも、夜彦は自分が出来るだけ彼女の隣にいて、そうあることが自分の使命であると思っている。
毎日のように怪談話を彼女のためにそこここで聞き集めてくることも、その一環だった(そもそもそれ自体が、夜彦の個人的な趣味であるという事実も否めないが)。
しかし、その一方で、そんな夜彦の不安に満ちた胸中の苦悩など、まるで気がつく様子などなく、なんとも言えない至福の表情で、葛葉は油揚げに食いついている。
ちなみに彼女が頼む品物はいつも決まっていて、きつねうどんだった。
その理由については、言わずもがなだ。
ところで――。
そもそも、一体全体どうして、夜彦がこのような妖の少女と接点を持つようになったのか、という事態の成り行きについては、物語を進める上で、大いに重要で且つ、早急に語るべき事柄なのだろうが、それは後々に話すこととして、今は置いておこう。
「うーん、やっぱりうまいなあ、ここのうどんは」
しばらくして、うどんを食べ終わり、夜彦は器を置きながら言った。
「全国、いや、世界に通用するレベルといっても過言ではないね」
すると、カウンターの向こうから、少年の顔が覗く。
「毎度、どうも」
そう頭を下げた彼は、夜彦と同じクラスで、友人の京極秋正という少年だった。
「いつも来てくれてありがとうね」
彼は夜彦からの褒め言葉を喜んでいるのかどうか分からない無表情で、そうお礼を言った。もしかすると、怒っているのではないか、と普通の人なら勘違いされるのだろうが、夜彦は知っている。
彼は元来、あまり感情を表に出さない人間なのだ。何をしたって、能面のような顔のまま、ぴくりともしないものだから、周りでは不思議がる人間も多い。
しかし、表情は変わらないものの、自分の言葉は喜んでくれているはずだ、と夜彦には分かっていた。
何しろ、夜彦と秋正の関係は、もう長年続いており、彼が何を思っているのかは、その極端に薄い感情表現からも夜彦には、全て感じ取ることが出来るのである。
仲が良いから、こうして、暇があれば放課後に遊びにいく感覚で、よくこの店を訪れる。
そういえば、最近は、このように葛葉を伴っていくことも増えているのだが、もちろん葛葉の正体については、夜彦以外は知らない。彼には、葛葉が、夜彦の友人だということで、ふんわりとオブラートに包んだ説明しかしていないのが現状である。
「秋正、そう言えばさあ」
夜彦は、隣の葛葉が食べ終わるまでの時間を秋正と雑談しながら待とうと、いつもの調子で、彼に話しかけた。
「おとといの数学の小テストの結果、どうだった?」
「小テスト?」
「ああ、俺さっぱり分からなくてさ、適当に書いて出したら、後で先生に呼び出し食らってさ、追試を受けろって言われて。お前はどうだったのかなって思ってさ」
「ああ、僕も、ちょっと……」
と、苦々しい反応が返ってくる。
「悪かったのか?」
「うん、途中で寝ちゃってね」
「寝た? テスト中にか?」
これには、夜彦も驚いた。
「お前って、勉強は得意そうじゃないけど、そんな不真面目な奴だったか?」
「ちょっと、寝不足でさ」
彼は苦笑いをしたのか、鼻を少しだけ動かして、夜彦を見た。
「寝不足?」
「そうそう」
そこで口を挟んできたのは、レジ台に座っていた、秋正の母親だった。彼女は無表情で何を考えているのか分からないと揶揄される秋正に、本当に半分遺伝子が行き届いているのかと疑問を抱いてしまうほどにさっぱりハキハキとした性格の女性である。
「この子、よく夜中までうどんづくりの練習してるのよ。知ってるでしょう?」
その母親が言う。
「ああ、それで」
「それが、ここ数日は何かあったのか、うどん作りにますます熱が入っちゃったみたいで、毎日朝方まで練習してて、困ってるのよ」
「それでいつもよりさらに寝不足に?」
訊くと、秋正の母親は困ったように額に皺を寄せた。
「そうなの。ねえ、夜彦君、何か言ってあげてよ」
「え、ええと、そうですね。勉強は学生の本分。それをおろそかにするようではいかんぞ、秋正君」
「テストを適当に書いて投げ出しているお前が言っても、これっぽちも説得力はないがな」
「う、うう……」
葛葉に痛いところを突かれた夜彦は、へなへなとカウンターに突っ伏した。
それを見て笑った秋正の母親は、用事が出来たのか、調理場の奥に消えていく。
しばらくして、夜彦は疑問を口にした。
「っていうか、秋正」
「うん?」
「何で最近、そんなにうどん作りに熱が入ってるんだ? そりゃ、今までだってうどんの修行してたのは知ってるけどよ」
彼がいつかは両親の店を継ぐ、という高い志があることは夜彦も知っていた。
すると、
「え、ええと、それは……」
彼はもごもごと口の中で言葉を転がしている。
何とも釈然としない。妙だな。
と、そこで夜彦は、彼の辺りから漂ってくる、妙な匂いに気がついた。
あれ、これって、もしかして?
「あ、葛葉ちゃん」
急に、明るい声で秋正がそう呼んだ。
「うん? 何だ、秋正」
きつねうどんを食べ終わったのか、満足そうに腹をさすっている葛葉が顔を上げる。
「実はね、僕が作った新作のうどんがたった今出来上がったんだ。もし良かったら、食べてみてくれない?」
「新作のうどん? いいぞ!」
子供のように興奮して、葛葉は目を輝かせた。
「うん、これはタダでいいから」
そうして、彼がカウンターに置いた器には、色とりどりの具が散りばめられた豪華なうどんだった。油揚げが好きな葛葉のためか、通常一枚のところが、二枚入っている。
「おお、これはまた豪勢だな」
「ぜひ、食べて感想を聞かせて欲しいんだ」
「了解だ。こんなに旨そうなうどん。遠慮無くいかせてもらうぞ」
ずるずると、周りをはばかることなく、彼女は豪快に麺を吸い込んでいく。
しかし、その間も、夜彦はカウンターの向こうにいる秋正だけを見ていた。
「なあ、秋正。お前さあ……」
「うん?」
「最近、何か妙なことがあったんじゃないか?」
「妙なこと? 何のことかな?」
「例えばだが、お化けに、会ったとか」
「……」
急に、秋正は口ごもる。夜彦はピンと来た。鼻がムズついたのである。
「図星か?」
「うーん、まあ、多分ね。母さんたちには話たんだけど、信じてもらえなくて」
なるほど、それで、怪談の匂いが彼からしたわけだ。
「おい、それを聞かせてくれ」
夜彦はカウンターから身を乗り出した。怪談と来れば、黙っているわけにはいかない。
「そんな必死にならなくても」
「聞かせてくれるのか?」
「い、いいけど」
数日前のことなんだ。
と、前置きして、彼は話し始めた。
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