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妖げんげん  作者: ヒロユキ
第二話 動じない男
7/40

其の一

 釜の中から濛々と白い湯気が立ち上っていた。京極秋正きょうごくあきまさは、その様子を無言で眺めながら立っている。

 現在の時刻は、夜の十一時。

 うどん処「和泉いずみ」が閉店してから、もうずいぶん経っていた。店の中には客の姿はなく、明かりも消えているため、調理場以外の空間は闇で埋まっていた。静かなものである。


 さて。

 秋正はそこで、今からするべきことを考える。まずは、目の前の釜のうどんが茹で上がるのを待ち、そこで、味見をしてみなければならない。

 それが終われば、もう一度麺を打つ練習をして、それから、片付けをして、後は頭の中でイメージトレーニングだ。


 それは、秋正が毎日繰り返している、練習のメニューである。もう、かれこれ数年間、同じメニューを繰り返していた。営業が終わった店内で、ひたすら夜遅くまで麺を打つ。秋正にとって、それは全ては絶品のうどんをつくるための修行だった。周りの人間にそれを話せば、よく続くものだと目を丸くすることが多いのだが、今や秋正にとって、それは普通のことであり、毎日学校に行くのと同じように、何の疑問も抱かない日課となっていた。


 うどん打ちのことを頭の中でぐるぐると考えていると、ふいに、店の奥の階段から、ひょっこりと父の顔が覗いた。生真面目そうな顔で、額にシワを寄せて、秋正を見ている。


「なんだ、また練習しているのか?」


 その声には、感心半分と呆れ半分の気持ちが混在しているように聞こえた。


「うん」


 秋正は返事をする。一度だけ父親のいる階段を一瞥するが、すぐに視線を釜に戻す。意識は集中させておかなければならない。


「もう少しで、何かが掴めそうなんだ」

「全く、お前のうどんへの熱中具合には、心底驚くばかりだな」


 そう言った後で、父親は夏生をたしなめるように言う。


「頑張ることはいいことだが、あんまり根を詰めすぎるなよ。お前はまだ学生の身だ。うどんに熱中するのもいいが、勉強もおろそかにしないようにな」


 そして、階段先の奥のドアを指さしながら、


「それと、風呂が開いてるから、それが終わったら、入りなさい」

「うん、分かったよ」


 返事をすると、父親の足音が、二階に消えていく、が、それが途中で止まった。

 妙に思っていると、どうやら、階段を引き返してきたようだった。


「秋正」


 再び、父親が顔を覗かせる。


「何?」

「忘れていたが、調理場のゴミを裏の勝手口に出しておいてくれ。明日の朝、出しに行くからな」

「ゴミ、ね。分かったよ」


 秋正は、そっと横目でポリバケツの中のビニール袋を確認した。そっと意識のメモ帳に書き記す。

 全部が終わったら、ゴミ出し、と。

 そう思っていると、傍らのキッチンタイマーのアラームが鳴った。慌てて、止める。


 よし、これくらいで麺が茹で上がるはずだ。

 秋正は麺の固さを確かめるために、箸で一本すくった。




 全ての練習が終わると、秋正は調理台の片付けをした。汚れてしまった食器や調理具をスポンジで洗い、台に立てかける。換気扇を切って、流れっぱなしになっていた水道の蛇口を止めた。

 ふう……これでやるべきことは全て終わっただろうか。

 パンパンと手を払い、汚れたエプロンを外す。すると、同時にそれまで引き締まっていた気持ちがふっと緩んだ。急に眠気が襲ってくる。


 時刻は既に夜中の一時だった。

 風呂に入れと言われていたはずだが、どうにも面倒くさい。明日の朝でもいいか。

 そう考えた秋正は、ゆっくりと調理場を後にしようとして、そこで、あることを思い出した。

 そうだ。ゴミを勝手口の外に出しておかなくちゃ。

 父親にそう言われていたのだった。それを忘れていてはいけない。

 秋正は階段に向かいかけた足を再び戻して、ゴミ袋を掴み、調理場の奥にある勝手口のドアノブを捻った。

 暗闇に包まれた外の通りに人気はない。ぽつぽつと闇を遮る外灯が道に沿って並んでいるだけで、何とも言えない雰囲気が漂っていた。


 うーん、静かな夜だ。人々の喧騒はちっとも聞こえない。

 ま、深夜だし、それもそうか。

 秋正はそこで深呼吸を一度し、ドアの傍にゴミを置いて、そして、中に戻ろうとした。


 しかし――。

 振り返る瞬間、何かが視界の端に映った。驚いて、もう一度、その方向に目をやると、そこには、誰かが、いた。

 暗闇でぼんやりとしているため、よく分からないが、草臥れた青いシャツを着た、中年の男性らしき人物である。

 道の端にしゃがみ込んで、何かを、している。


 こんな時間に、妙だな。秋正はそう思う。

 人気のない、こんな場所で。

 普通に考えれば、そんな人物は十中八九、不審者だろう。秋正のいる場所から見る限り、警察に通報しなければならないほどのことを、しているようには見えないが、あまり近づくべきではない。

 しかし、だとしても、一体何をしているのだろうか。

 気になった秋正は、数歩、その人物に近づく。それでも尚、危険な空気は感じられなかったので、そのまま、その人物につかつかと歩み寄ってみた。

 一度、声をかけてみよう。

 しかし、その人物の肩に手を伸ばしかけて、気がつく。その男性が、何か小さな声でぶつぶつとつぶやいているのだ。


「ない……ない……ないなあ……」

「あの、何が無いんですか?」


 秋正はその人物に声をかけた。

 すると、男性はそれに気がついたようで、おもむろに立ち上がる。そして、無言のままで、まるで首の骨がないように、ぐにゅりとねじ曲げるように、顔を秋正に向けた。


「え?」


 秋正は、その瞬間、前髪の間から覗いた、その人物の顔を、見た。凝視した。

 その顔は、なんと、その顔は――。



 それは、京極秋正の身に起こった、ひとつの怪事件である。

現時点の予定では、次回は二日後となっております。

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