其の四
「きょ、協力?」
あまりにも唐突に展開していく状況に夜彦は追いつくことが出来ず、すっかり混乱していた。ヒチセと名乗る黒い狐から発せられた言動の意味を吟味することも叶わず、ただ、呆然と彼女を見つめ返している。
そのためか、自分がいつの間にか腰を抜かし、地面に尻餅をついていることにも気がつかなかった。
ヒチセは夜彦の前方、十メートルほど先に立っていた。肌の色が黒いためか、どこか周囲の闇と馴染んでいるような印象がある。
すると彼女は一言も言葉を発さないまま、するすると夜彦に近づいてきた。その表情は不気味なほどの笑顔で、まるで、誕生日プレゼントを心待ちにしている子供のような、妖の彼女とは不釣合いな純粋さがそこにはあった。
「あ、あの……」
夜彦は何とか彼女と会話を試みようとするが、ヒチセから生じる一種独特なオーラのせいなのか、僅かに、吐息ほどの声が漏れるだけで、それ以上の形にならない。
ヒチセはそんな夜彦の様子に気がついているのかいないのか、歩みを止めること無く距離を縮め、ついに、夜彦の足元までやってきた。
そして、何をするかと思えば、彼女は腰をかがめると、ぐっと夜彦に顔を近づけた。もはや、呼吸の音が聞こえるか、と思うくらいのほんの数センチの位置まで接近する。
「な、何を!」
と口走った瞬間だった。
彼女が夜彦の眼前に、何かを向けた。
パシャリ、と光がほとばしり、夜彦は思わず目を閉じ、顔を背ける。
何だ!? 眩しい。
「にひひひ、夜彦君の驚いた顔、ゲット」
いかにもうれしげなヒチセの声。
おそるおそる細い目を開けて夜彦が見ると、彼女が手に持っていたのは、なんと携帯電話である。どうやら、彼女は夜彦の顔をその携帯のカメラ機能で撮影したようだ。
「いいものが撮れたなあ。よし、保存。さらに、削除されないように保護して……っと」
子供のように、ボタンを押しつつ、彼女ははしゃいでいる。夜彦はその様子に呆気に取られ、すぐには反応出来なかったが、しばらくして、我に帰ると、
「な、な、なにをしてるんですか!」
そう叫んだ。
すると、彼女は携帯の画面から夜彦に目を向け、何でもないことかのように、
「何って、夜彦君を撮影」
と答えた。
「さ、さ、撮影!? うわっ!」
その瞬間、またしてもフラッシュが光る。反射的に夜彦が手で顔を覆うが、既に手遅れである。
「うふふふ、またしても面白い顔もーらい」
保存、保存、と。
鼻歌を歌うように言いながら、彼女は携帯をいじくっていた。
この自由奔放な振る舞いには、夜彦は先ほどまでの驚きも薄れ、呆れる。とりあえす、夜彦に対して害意はないようである。
「あの、ヒチセさん、でしたっけ」
少しうんざりしながらも、夜彦は撮影されないよう手で顔を覆いつつ、そう聞いた。
「そうだよー。それが僕の名前。夜彦君ってば、物覚えがいいねえ」
「あの、いいですか、ヒチセさん。とりあえず、携帯を仕舞ってもらえます?」
「ええ、どうして?」
「そうしてくれないと話が進まないし、何より、相手の許可なしに勝手に写真を撮るのは犯罪です」
すると、彼女は不服そうに眉をひそめる。
「何言ってるの、おかしなことを言うね」
「はい?」
「犯罪になるのは人間が人間を撮影した場合でしょ。妖怪にはそんな人間のルールは適用されないって。妖怪には法律なんて関係ないし」
そして、再び彼女は携帯を夜彦に向けると、
「だから……」
「だ、だから?」
「僕は好きなだけ君を撮影するってこと」
そう言うが早いか、彼女は再び夜彦に携帯を向け、連続でシャッターを切る。パシャリ、パシャリ、パシャリ。
「ふふふふ……」
これには、さすがの夜彦も腹が立った。
こっちは今の状況すら訳がわからないというのに、一体どうして、こんな一方的な扱いを受けなくてはならないのだ。夜彦はえいやっと無理やり彼女の携帯電話を抑えこむと強引に閉じさせた。
「ヒチセさん!」
「な、なにさ、そんな怖い顔して」
「まずは僕の質問に答えてください!」
「それはまた、どんな?」
「そもそもあなたは一体、何者なんですか?」
すると、彼女は急に不機嫌そうに口を尖らせる。
「あれま、失礼しちゃうな。さっき説明したじゃない。僕は幻妖界から来た妖、黒狐だって」
「はあ……それではどうして別世界から来たあなたが、僕のことを知っているんですか?」
夜彦は、初対面である彼女からいきなり名前を呼ばれた時点で疑問に思っていたのだ。
「ああ、なんだそのことか」
彼女はどこか楽しげに夜彦に目配せをした。
「それは簡単なことさ。話を聞いたんだよ」
「誰に?」
「あのむっつり葛葉ちゃん」
「く、葛葉に!?」
急にそこで葛葉の名が出てきたことに夜彦は動揺する。
「ど、どうして!?」
「どうしてって、こっちの世界に来るには必ず幻妖門を通らないといけないからね。夜彦君なら知っていると思うけれど、その世界と世界を繋ぐ幻妖門はその門ごとに幻門白狐によって監視され、通行を制限されている。つまり、ここに来るには葛葉ちゃんの許可がないといけないんだ」
それで、その時に偶然にもちらりと君のことを聞く機会があったんだよ。
彼女はまるでそれがラッキーだったとでも言いたげに興奮気味に語った。
「あなたと、葛葉は知り合いなんですか?」
「少なくとも、僕はそう思ってるよ。ちらちら向こうの世界でも会うことがあるし。まあ、最も、それは僕が思っているだけで、向こうは僕のことをどう考えているのか知らないけれど」
そう話す彼女を見つめつつ、夜彦は一つ、安堵した。葛葉が彼女の存在を認知しつつ、監視していないということは、少なくとも、野放しにしておいても、危険な存在ではないということだろう。もしかすると、このまま彼女に襲われてしまうのではないかと夜彦はうっすら恐怖していたのだが、その心配はないようだ。
しかし、それにしても、気になるのは、このヒチセという狐と、葛葉との関係だった。
あの葛葉にこんな知り合いがいたとは初耳である。いつも無愛想でむすりとしているので、てっきり友達などいないものだと思っていたのだが。
まあ、それについてはまた今度葛葉に聞いてみよう。
今は、他にヒチセに聞きたいことがある。
「そ、それはそうと、先ほど言った協力してくれるっていうのは、どういう意味ですか?」
「ああ、君、例の通り魔事件の犯人を捕まえたいんだろ?」
「え、事件のこと、知ってるんですか?」
彼女は頷く。
「うん。僕はこれでもこの世界のことにとても興味があるんだ。だから、テレビを見る機会もあってね。あれは以前から、とても気になっていた事件なんだよ」
「はあ……」
「だから、私もその犯人探しを手伝ってあげようってことさ」
「……でも、どうしてまた、ほとんど初対面の僕の手助けを?」
「だって君、さっき葛葉ちゃんに酷い言われ方をして追い払われただろ?」
「え?」
見られていたのか。
「それを見て、僕はとても心が傷んだのさ。君の協力をしてあげたいって純粋に思ったんだよ。初対面であろうとなかろうと、関係ない。人間愛ならぬ妖怪愛だよ」
そんなものがあるのか。
「それにね、僕は君にとても興味があるんだ」
すると、彼女は急に目を細め、怪しげな雰囲気で、赤い舌をちろりと出した。
「きょ、興味?」
「そう、君はとても不思議な瞳の色をしているね。他の人間とは違う。葛葉ちゃんが君にご執心なのも頷けるよ」
「ご、ご執心だとか、妙なことを言わないでくださいよ。ヒチセさんだってさっきのやり取りを見てたんでしょ? あいつは僕の事が嫌いなんですよ」
「確かにそう見えたね」
なぜか彼女はあっさりと認める。
「けれど、それはあくまで表面上は、だよ、夜彦君。他者と他者の関係というのは、それだけがすべてじゃない。目では見えない心のうちにこそ、関係の本質は映しだされるものなんだ」
彼女は人差し指を立てる。
「いいかい、夜彦君。君には理解できないかもしれないが、彼女は君のことをとても気に入っている。そして、僕も一目君を見て、その理由が分かった。君は何か普通じゃない、特別な魅力を感じるんだ」
「普通、じゃない魅力……」
するとそこで、そっと、彼女の手が伸び、夜彦の頬に触れた。その滑らかでいて、冷たい感触に、夜彦はただならぬ気配を感じ、背筋が震える。
「だから、僕は君のことをよく知りたいと思っているんだよ」