其の三
コツン、と夜彦が蹴り上げた小石が大きく宙で円を描いて、道路脇の側溝に落ちた。とぷん、と音がしたから、そこを流れていた泥の中に沈んでしまったのだろう。
それを聞いた夜彦は小さく舌打ちをして、別の標的となる小石を探した。ポケットに手を入れて、背中を丸めて、ずんずんと歩いていく。
先程の言い合いでの腹立たしい気持ちを残したまま、夜彦は神社を後にし、自宅への道を歩いていた。右手のポケットの奥には、さっき葛葉に見せた新聞紙が入っている。それをぐしゃりと強く握りつぶした。
「一体、何だよ。あの態度は!」
夜彦は吐き捨てた。
「いくら機嫌が悪いからって、あんな言い方しなくたっていいじゃないか!」
と、歩道に転がっていた石をまた蹴り飛ばした。それはガードレールに当たって跳ね返って、道路に転がっていった。
夜彦の目の前に言い争いをした葛葉の顔が浮かぶ。
『これ以上その事件のことを私の前で口にするな。金輪際な!』
彼女は、そう言い放ったのだ。それも、かなり強い怒った口調で。
どうして、そんなことを言われなくてはいけないんだよ。理不尽な憤りが夜彦の中で火を噴いた。
俺がそんなに気に障るようなことをしたか?
こっちは、ただ話をして、協力を求めただけだ。それなのに、どうして!
ざり、と強く靴と地面が擦れる音がする。夜彦は知らず、歯を食いしばっていた。
その時、急に曲がり角から、車が曲がってきた。夜彦は驚いて飛び退く。どうやら、考えるのに必死になって、車の接近に気がつかなかったようである。それが通り過ぎるのを待って、夜彦はふっと安堵の息を漏らした。
驚いて感情が途切れたせいか、少しだけ、気持ちが落ち着いた。
本当、どうしてだよ。
夜彦はポケットから手を出して、頭をガシガシと掻く。しかし、考えても分からないものは仕方ない。ともかく、この事件について真相を知りたいのならば、夜彦が自身の力で持って、進まなければならないようだ。
「謎の連続通り魔事件、か」
夜彦はそこで立ち止まって改めて考えた。
被害者は全員、夜中に一人でいるところを襲われ、犯人によって奇妙な炎に身を焼かれている。
これは絶対に、人間の仕業なんかじゃない。人智を超えたパワーを操る妖の所業だ。それは間違いないだろうと夜彦は確信している。葛葉が何と言おうと、自分の勘が外れているわけがない。
何しろ、このニュースを初めて見たとき、夜彦は感じたのだ。あの、一種独特な歪なオーラを放つ怪談の匂いを。
夜彦が持つその特別な能力はいつだって予感を的中させてきたのである。
しかし、仮に妖が犯人だとして、その妖はなぜ、こんなことをしようとしたのだろう。それは、今回の事件が起こり始めてからの夜彦の疑問だった。
犯行の動機、というやつである。
ニュースでは、犯行後、盗まれた物が無いこと、また、狙われた人間に特に関連性がないことから、金銭目的や、被害者に対する個人的な恨みといった可能性は少ないと報じていた。つまり、犯人は誰かを傷つけること自体を目的としている、らしい。
もし、そうだとするならば、それはとても恐ろしいと夜彦は思う。なぜなら、犯人は自分の利益のためならば、他者を犠牲にすることも厭わない存在ということだからだ。
これが、悪、という奴なのだろう。
もしも、そんな傍若無人な犯人がこの世にいるのならば、夜彦は何とも捕えてやりたいものだと思う。それが人間であろうと妖であろうとも変わりはない。何としても捕まえて、犯行を止めさせる。そうしなければ、この町で暮らす人々に安心出来る生活は戻ってこないからだ。
皆の心から平穏を奪う存在は、絶対に許してはならない。夜彦の中にある正義の心は拳を振り上げてそう言っている。
でも、そんなことを自分一人だけで出来るのか?
内なる問いかけに、夜彦は黙す。
「……」
分からない。
なぜなら、今回はいつも隣にいるはずの相棒は不在なのだ。葛葉の力なしで、こんな凶悪な事件を解決に導くなど、出来るのか?
その自問に、答えはない。
答えなど、出るはずがない。
そんなこと、今まで一度だってなかったのだから。
しかし、何にせよ。行動をしなければ始まらない。迷っていてもどうしようもないのだ。
少しずつだっていい。
自分に出来ることをやっていけばいこう。
「よし!」
そう決めて、夜彦は大きく足を踏み込むと、転がっていた小石をまたしても蹴り上げた。
すると、それは大きく放物線を描きながら、道の向こうの雑木林に飛んでいく。
「ぎにゃっ!」
と、生き物の悲鳴が聞こえた。
「あれ?」
ふいに、雑木林近くで顔を出した生き物がいる。どうやら、夜彦が蹴った小石がぶつかったらしい。これは申し訳ないことをしてしまった。夜彦はその生き物に怪我がないか見ようと近づいて、それが猫であることに気がついた。
しかし、
「え?」
その猫を見た夜彦はぎょっとして、目を大きく開いた。
「うわ、すごく赤い……」
と思わず呟く。
その猫は珍しい毛並みをしていたのだ。この辺りの猫では見かけないような鮮やかな赤い毛に、全身が覆われている。
まるで、燃え盛る炎のような色だ……。
ついぼうっとしていて、はっとすれば、その猫はすでにいない。夜彦が立ちつくしているうちに雑木林の中に逃げてしまったようだった。
「あーあ、もっとじっくり見たかったのに」
と悔やむが時すでに遅し。
猫の姿はもうそこにはない。
がっかりして、踵を返し、再び自宅へと足を向けようとした、その時だった。
ふいに視界の隅に黒っぽい何かが横切った。雑木林の方向である。もしかして、先程の猫なのか、と一瞬期待した夜彦がだったが、そこには何もいない。
「ちぇ、見間違いだったのかな……」
と、舌打ちする。
「もう暗いしな」
しかし――。
「いんや、見間違いじゃないよ」
いきなり、夜彦の声に返事が聞こえた。
「え?」
「こっちだよ、こっち。僕はここさ」
繁みの中に誰かいるのだろうか、夜彦は戸惑いつつも、視線を走らせ、声の主を探す。
すると……いた!
ほんの数メートル先の、腕のように折れ曲がった木の枝の上にちょこんと小動物が乗っかっている。小さく細い尻尾をくねらせて、こちらを見ているのは、なんと、
「黒い、狐!」
だった。
「そうそう僕は黒い狐だよ。夜みたいにまっ暗い色毛の色をしてるんだ」
その狐はそう話すと、驚き眼を剥く夜彦の前からぴょんと跳躍して姿を消した。
「夜彦、夜彦、八守中夜彦♪」
まるで、歌うように、姿の見えない狐は夜彦の名をリズミカルに発音する。
「い、一体、何者だ!」
「ふふふ、怪しいものじゃないよ……ああ、いや、訂正しようか、ちょっと怪しいものだよ。でも、危害を加えるつもりはさらさらないから、安心して」
声のする方角が変わったと思ったら、その狐は夜彦の背後、夕闇に長い影を落としている電柱の上に座っていた。
「僕は、幻妖界からやってきた黒狐のヒチセ」
そう名乗ると、狐はひゅるひゅると電柱を駆け下りる。そして、その電柱の足元まで降りると、そこにいたのは、既に、狐ではなかった。
鈍く明滅する電灯の光に照らされて、その姿が明らかになる。黒い狐は、地面に降り立った時点で、『変化』を終えていたのだ。
そこには、古風な服装に身を包んだすらりとした色黒で長身の少女が一人、立っていた。すると、まるで周囲の闇を吸い込むように、少女は少し息を吸ってから、唇を動かす。
「大丈夫だよ、僕は何もしない。ただ……」
「ただ?」
「ただ、君に協力がしたいんだ」
そうして、その狐の少女は振り向き様に目を細めてにやりと笑った。