其の十五
「よ、妖狐……」
聞きなれない違和感のある言葉を、良佳は繰り返す。
「そんな存在が……」
果たして、あるのだろうか。良佳の疑惑の念は尽きない。信じても、いいの?
しかし、しかしだ。
その妖狐と名乗る少女が放つ、一種独特な空気は、良佳がこれまで出会ってきた人々の中で、どれにも当てはまらない異質なものだった。
見た目が小柄な少女の姿でも、彼女にはその身の内に虎や龍の一、二匹でも飼っていそうな、そんな超然とした気配がある。耳を澄ませば、ふいにそんな彼らの唸り声まで聞こえてしまいそう……。
と、そんな彼女が口を開く。
もしかすると獣の声で吼えるのか、と思いきや、そこから出たのは、先程と同じ少女の声だった。
「確か、井上良佳と言ったか?」
「あ……は、はい」
良佳は吃りながら答える。どうにも、彼女に見つめられるのは苦手だ。やはり、背筋がぞくりとしてしまうのである。
「なんでしょう?」
「先ほどは済まぬことをしたな」
すると、意外にも、彼女はいきなり謝った。
「え?」
「ちょっとした悪ふざけくらいのつもりでわしの尾を見せてみたのが、まさかお前があれほどの反応をするとは予想しなんだ。思わず、怒りで吹き飛ばしてしまった。いや、本当に申し訳ない」
「あ、別に……」
「まだ説明していなかったが、私は他人に尾を触られるのがすこぶる苦手でな。尾のないお前たち人間には理解出来ないかもしれないが、そこは体の中でも敏感な場所の一つなのだ。だから、扱いもデリケートにしなくてはいけない。他者に触れさせるなど以ての外だ。分かるな?」
「は、はい」
まるで、先生と話しているような気持ちになり、良佳はいつの間にか、ぺこぺこと頭を下げていた。それにはっと気がつき、やはり、自分をそんな気持ちにさせる彼女は、普通ではない存在なのだと、再認識する。
すると、葛葉、という名のその妖狐はそこでまたふさり、と尾を動かした。
「さて、それはさておき」
と言葉を置く。
「そろそろ本題に入るそ」
「本題、ですか?」
「そうだ、お前のろくろっ首の件だ。それを綺麗にちゃっちゃと片付けなくてはならない。私はそのために来たのだからな」
「え、じゃ、じゃあ、もしかして、あなたが夜彦君が言っていた怪現象の専門家の……」
「専門家? まあ、妖に関する知識はお前たち人間とは比べ物にならぬくらいに持っておるし、そういうものと言われれば、そうかもしれないが……」
そこで難しそうに眉をひそめつつ、彼女は一つ言っておくぞ、と人差し指を立てた。
「勘違いする前に言っておくが、私は別に人間の手助けをするためにこの世に来ているのではないぞ。私は便利なお助けマンでも正義のヒーローでもない。あくまで、妖と人間のバランスを取り戻すという使命を遂行するためにいるに過ぎないのだ」
「妖と人のバランスを……?」
そうだ、それはとてもとても重要な仕事だ。彼女はそう強く繰り返す。
「井上とやら。賢そうな顔をしているお前なら理解出来ると思うが、そのような大事を成すためには、多少の細かいことは気にしていられない。分かるな?」
「え、ええ」
「例えば、ろくろっ首が一匹出たからと言って、いちいち大急ぎで現場に直行しているのは、ナンセンスだ。そんなことを繰り返しては、私の身がもたない。だから、一先ずは放っておいて様子を見る。いつもの私ならばきっと、そのように判断するだろう」
「は、はあ」
「しかし、しかしだ。今回わざわざこうして直々に私が顔を出したのは、他でもない、このお前のどうしようもないクソったれ友人、略して、クソ友の夜彦に頼まれたからだ」
「夜彦君、が……」
葛葉は不機嫌そうに耳を揺らす。こころなしか、舌打ちもしたように見えた。
「全く、今は特に忙しいというのに、こいつが哀れな顔でめそめそ頼んでくるから、仕方無しに、わざわざ出向いてやったのだ。本当は一刻も早く、すぐにでも、こんな事を終わらせて他の仕事に取り掛かりたいところなのだぞ」
ひどく面倒そうに彼女は溜息をつく。
「本当に、毎度毎度、この男は性懲りも無く私の元に厄介事を持ち込んできおって。こいつは私にとっての疫病神以外の何者でもないな。ああもう、一刻も早くこいつと縁が切れることを私は祈ってやまないぞ」
「あ、あの……」
まるで、憎き宿敵に向けるような鋭利な視線で背後の夜彦を睨む葛葉に、良佳はおずおずと言葉を挟んだ。
「何だ?」
「夜彦君のこと、あんまり怒らないであげてください」
「うん?」
「その、私が、彼に頼んだんです。私の体に起こっている異変を解決してくれって」
「ほう……」
すると、彼女は良佳がそんなことを言い出すとは思わなかったのか、意外そうに目を細めて良佳をまじまじと見た。
「だから……だから、夜彦君、授業中だっていうのに学校を抜けだしてしまって、私を助けるために町中を走りまわってくれたみたいで、その、お忙しい葛葉さんを無理やり連れてきてもらったのは、そういうわけで……。だから、全部私が悪いんです」
ごめんなさい。
そう良佳が頭を下げると、背後に立っていた夜彦が間髪入れずに反論してきた。
「おい、井上、それは違うだろ。これは俺が勝手にやったことだ。お前は俺に一言もこうしてくれなんて頼んでない。俺が悪いんだ。お前が悪いはずがない」
「ううん、私のせいよ。これは私の問題なんだから……私の責任よ、夜彦君。そう、私の……」
「井上……」
「だから、葛葉さん。怒るなら、この私を」
良佳は覚悟をして、頭を下げたままぎゅっと目をつぶった。一体、怒った葛葉からどんな仕置きがあるのかと思うと、とてつもない恐怖だったが、今更四の五の言うつもりはなかった。
これは、私が悪いのだから。全てを背負うのが私の役目。甘んじて、罰を受けよう。
しかし――。
待てども待てども、葛葉は何も言わない。良佳の耳を思い切り抓ることもなければ、大声で怒鳴ることもない。
ただ、沈黙しているのだ。
どういうつもりかしら?
良佳が耐え切れなくなって顔をあげると、彼女はぶすっと不貞腐れたような顔をして、良佳を見ていた。
そして、
「ふん、私は怒る気も失せた」
と、言う。
「あーあ、これでは丸っ切り興ざめだ。ああ、つまらない」
良佳は意味が分からない。
「え、あの、どういう……」
「私はてっきり夜彦に新たな借りを作って、またこいつをいじめる良い口実になると思っていたのに……井上とやら、お前の言い分が正しいとすれば、それは、夜彦ではなく、お前への借りになってしまう。これでは面白くない。そうだろう?」
まあ……。
「お前が夜彦並にいじめ甲斐のあるやつなら、話は別だが?」
にやり、と笑って、葛葉は鋭く尖った犬歯を口元から覗かせる。またしても、あの悪魔的な笑みだ。良佳はぞっとした。
「え、ええと」
と逃げるように愛想笑いをしてみせると、狐の少女はそれに満足したように少し笑って、こう言った。
「しかし、井上とやら。お前が案外元気そうで安心したぞ。屋上でお前が倒れているのを夜彦が発見し、私に告げた時はさすがに不安に思ったが、こうしてさらに近づいてみて分かった。お前には特に逼迫した命の危険はない。これなら、夜彦にも任せられるな」
「命の、危険? それに、任せるって……」
一体どういうことなのだろう。
振り返って夜彦を見ると、彼は心配するなと自信有りげに頷いていた。その瞳には、先ほど保健室から出て行く時に見せたような強い光がある。
葛葉が言う。
「さて、私はここからじっくりとこの後の展開を見させてもらおう。この男がこの怪事件をどう解決するのか見ものだしな。それで、今の興ざめ分を少しでも取りかえし、ちょっとでも私の手間が省けてくれればいいが……」
そして、彼女は何をするのかと思いきや、屋上の入り口のドアの方へ向けて声をかけた。
「よし、もういいぞ。出てこい」
出てこい? 誰のこと?
良佳はさっと身構える。これだけありえないことが起こっているのだ、もうどんな人物が現れてもおかしくはない。
すると、おもむろにドアノブが周り、金属が擦れる重めかしい音と共に、ゆっくりとドアが開く。良佳の方へ向けて、開いていく。
闇の向こうに光が差し込み、そして、そこに立っていたのは――。
「うそ……そ、そんな、私?」
その人物を見たとたん、良佳は絶句した。そして、これが、夜彦の言っていたドッペルゲンガーなのだと、理解する。
「こんにちわ、わたし。会いに来たよ」
そこに立っていた『私』が、無邪気な笑顔で言った。