其の十四
井上良佳が再び目を覚ましたのは、誰かに体を揺さぶられたからだった。底に沈んでいた意識が一気に海面へと引き上げられ、眩しい光が瞼の隙間から流れこんでくるのが分かる。
あれ、私、今までどうしてたんだっけ。
朧気な記憶の断片から、途切れ途切れの映像が見えてきた。
首もとの赤い筋、クラスメイトたちの冷たい視線、そして、眼を閉じる一瞬前に見た、謎の黒い影の人物。
「おい、井上! 大丈夫か!」
と、誰かの声に呼ばれる。
曖昧模糊とした回想から、良佳ははっと我に帰ると、目の前の人物に飛びかかった。
「あ、あなた、一体誰なのよ!」
と無我夢中で叫ぶ。
良佳は、てっきり目の前にいる人物こそが、先ほど見た謎の黒い影の正体だと思っていたのだ。
しかし、そこにいたのは、別に謎でも何でもない、自身がよく知る少年である。
八守中夜彦、だ。
彼は良佳がいきなり飛びついてきたことに驚き、思い切り尻餅をついてしまったようで、その痛みに涙目になっていた。
「いてて……おい、びっくりさせるなって」
だが、良佳にはそんな彼に謝る余裕も、彼が腰を強打した事に対して心配する余裕もなかった。
「そ、そんなことより、さっきまでここにいた人は?」
と彼に掴みかかる勢いで訊ねる。
「さっきまでここにいた人?」
はて? という具合いに夜彦は首を傾げた。そして、キョロキョロと辺りを見渡して、不審げに目を細める。
「一体誰のことだ? 井上の友達でもここにいたのか?」
良佳はぶんぶんと首を振る。
「違うわよ。友達なんかじゃない。全然知らないわ。でもさっき気を失う直前に、私、見たのよ。すごい速さで町の建物を飛び移ってこっちに向かってくる人を」
「何だそれ? っていうか、やっぱりお前、朝と同じように気絶してたのか」
心配そうに顔色を覗き込んでくる夜彦に、良佳は構わず質を続ける。
「ねえ、あなたは見たの?」
「あん? その、建物を飛び移って来るって奴か? 俺は見てないけど、ええと、スーパーマンじゃないか?」
「ふざけないで、そうじゃないわよ。でも、それに少し近いかも。建物の屋上を次々に飛び移るなんて常人には出来ないことだし、あまりに素早くて姿形もはっきりしなかった。でも、確かにこの目で見たのよ」
あの、奇妙な黒い影を。
しかし、夜彦は眉を曲げて半信半疑の様子だ。
「鳥か何かを見間違えたんじゃ……」
「もう、違うったら!」
良佳の言葉をまともに受け止めず、適当に返答する彼に良佳は腹が立った。つい、声を荒らげてしまう。
「私の話をちゃんと聞いてよ!」
ちっとも話が進まない歯がゆさに良佳は苛立つ。ああ、あの映像を何かに録画できていたら良かったのに、と思う。
そうすれば、彼も絶対に信用してくれるだろう。そんな、普通ではありえない存在を。
すると、なぜだか、急に良佳は泣きたくなってきた。胸がいっぱいで、涙が溢れそうになる。
もう訳がわからない。どうして私にはこんな理解不能で理不尽なことばかり起こるの。おかしな首の痕に悩まされたり、いきなり気を失って倒れてしまったり、奇妙な黒い影を見てしまったり――。
良佳の中で黒い渦がぐるぐると回る。真っ黒な濁流が良佳の心を砕いていく。
もう、たくさんよ!
「井上!」
いきなりだった。
夜彦の一喝が学校の屋上に響いた。あまりのことに良佳はビクリとその場に固まってしまう。彼があまりにも真剣な表情をしてこちらを見つめていたのだ。
「な、何よ」
「少し落ち着け。お前は今、混乱してるんだよ。お前の魂がろくろっ首になっているせいでな」
彼の口から出たとんでもない言葉に、一瞬呼吸を忘れてしまうかと思った。
何ですって?
「ろくろっ首!?」
「そうだ。今日までのお前の体に起こっていた異変は、そのろくろっ首のせいだったんだよ。いいか? 失神する度にお前の体から魂の一部が抜け出し、それがドッペルゲンガーみたく丸っ切りお前の姿そのもので町を歩いてたんだよ。でも、あれはドッペルゲンガーじゃない。だから俺にも見えたんだ!」
「ちょ、ちょっと待ってよ夜彦君。そんなことをいきなり言われても信じられないったら。ねえ、それって私の魂が、お化けになったってこと?」
良佳の混乱などよそに、さらに口調荒く説明している夜彦。どうにも止めようもない勢いである。
しかし、そこで、別の何者かの声が割って入った。
「夜彦、お前の方こそ落ち着いたらどうだ?」
良佳はそれに一瞬、慄然とする。
声の質は確かに少女のそれなのに、どこか老成した叡智の気配を漂わせている重厚な声に、否が応にも緊張したのである。
ざり、とコンクリートの地面を踏む音がして振り返ると、そこには一人の人物が立っていた。
だ、れ? 女の子なの?
良佳の視線が瞬時にその人物の容姿を確認する。そして、その異質さに唖然とした。
まず眼に入るのは、絹が風に靡いているのかと見紛うほどの上品な光を放つ銀髪、そして、降り積もった雪にも似た夢のように白い肌、さらに、時代錯誤も甚だしい帯で締めただけの簡素で古風な着物。
ここまででもその謎めいた様子が十分にも伝わるだろうが、しかし、彼女にはさらに他人の目を引く特徴があった。
それは、その頭の髪の間から覗いている、ふさふさと動く、二つのモノ……。
「き、キツネ耳!」
「む?」
すると、その少女が不愉快そうに良佳に目を向けてきた。目と目があった瞬間、感じたことのない怖気が良佳を襲う。怖い。この子、一体何者なの。まるで人間ではないみたい。
と、その少女がおもむろに口を開く。
「この耳がそんなに奇妙か?」
くすり、と悪魔的に笑う。
「ならば、これはどうだ?」
そして、その少女は今度は背中の向こうからさらにふわりと大きな狐の尾を揺らしてみせた。それを見るや、良佳は自分の目がますますまん丸に見開かれるのが分かった。
「あ、あ、あ、あなた!」
「むう?」
「あ、あなた何者よ! ここは学校なのよ、そんなふざけた格好して! 服装のルールは守りなさい!」
そして、そう怒鳴るや否や、良佳はすかさず彼女の背後に駆け寄った。とにかく、その少女の長く突き出た尻尾を引っこ抜こうと掴んでみたのである。
ぎゅっと、強く。思い切り。
しかし、
「え?」
その途端、なぜか、良佳の体は宙に舞っていた。まるで、そうであることが当然のように、何の違和感もなく、ふわりと浮いていた。
あれ?
どうして、私。
「このバカ娘が、私の自慢の尾に許可無く触るとは!」
そんな空気を裂くような怒声を風の中で聞きながら、訳もわからないまま、良佳の体にみるみる地面が近づいてくる。
ああ、私、落ちてる。落ちる、落ちる、落ちる、落ち――――――。
ぼすん。
あれ、落ちてない?
良佳は不思議に思うが、どうやら、何か柔らかい物が良佳の体に当たり、激突の衝撃を和らげてくれたようだった。
すぐに振り返ると、良佳の下敷きになっていたのは、夜彦である。慌てて良佳は立ち上がる。
「夜彦君!」
「い、井上、大丈夫か?」
「あ、うん。私は大丈夫だけど……。夜彦君こそ大丈夫なの?」
「あ、ああ」
青い顔をしてぷるぷると震えながら、彼はぐっと親指を突き出す。
「問題ないぜ」
「ご、ごめんなさい。っていうか……私、飛んだの!?」
「正確には、飛ばされた、が正しいな。井上、あいつの尻尾の力を舐めちゃいけないぜ。その気になればコンクリートだって紙切れ同然で吹き飛ばすらしいからな」
「ちょ、ちょっと待ってよ。それってまさか、もしかしてあの尻尾って、付けてるんじゃなくて、ほ、本当に本物!?」
すると、彼はごく当然のように頷く。
「ああ。だってあいつは本物の妖だし」
きた、また妖だ。
良佳はもはやリアクションを取る気も起こらなかった。どうして今日はこんなに訳の分からないことが次から次へと起こるわけ。
しかし、良佳はそう思いながらも、もはやその類の話に、奇妙な親しみのようなものを自分の内側で感じ始めていることに、気がついた。今までの自分ならば、「ありえない」の一言ですっぱり断ち切れるものが、今はそうもいかない。断ち切ることに躊躇してしまっているのである。
ありえる、のかしら。
良佳はたった今触ったばかりのあの少女の尾の感触を思い出した。あれはとんでもなくふわふわで暖かくて、間違いなく生きているものの感触だった。どう考えても作り物には思えない。
ということは……。
やっぱり、妖は存在するのか。
「そうだ。存在する」
少女から厳然とした声が響く。
「え?」
「自己紹介がまだだったな。人間の娘よ、私の名は葛葉」
しゃん、と彼女は自慢の尾を膨らませ、風に大きく揺らす。
「この世とは別の世界、幻妖界からやってきた妖狐だ」