其の十二
いつの間にか、授業は5時間目が終わり、6時間目に入っていた。
教室には午後の時間特有の気だるさが溢れている。生徒たちは皆、だらだらと机の上で教科書と向き合いながら、一刻も早い終了のチャイムを待ち望んでいるようだった。その怠惰な願望が、空気に触れ、淀んだ黄色い流れを生んでいる。
しかし、額に薄い汗を滲ませながら、良佳が待っているのは、そんなものではなかった。良佳が保健室で寝ていた時間から学校を飛び出し、自分が陥った窮地を打破する方法を持ち帰ってくれるはずの八守中夜彦の姿である。
良佳は、彼が保健室から飛び出す前の必死な表情を忘れていない。
お前のことが心配なんだ。
そう言ってくれた彼。あの彼なら信頼出来る。きっと私を助けてくれる。
しかし、一体、いま彼はどこにいるのだろう。
彼が語っていた、もう一人の良佳とは会えたのだろうか。そして、彼が頼りにしている怪現象の専門家に話を聞くことは出来たのだろうか。
お願いよ、早く来て。夜彦君。
何も出来ずに待つしかない状況が、良佳の首を締めるように、じりじりと狭まってくる。
良佳は誰にも見られないよう、首もとを触った。今はそれほど感じられないが、確かに何かの痕がある。細い、筋だ。
ほんと、なんなのよ、これ。
心細さで悲鳴を上げてしまいそうだ。
良佳はとても授業に集中できる気分ではなかった。
見れば、黒板には大昔の偉人の名前や、その人物に関する説明が書かれている。
大きな出来事があった年が上から順に並べられており、それが良佳には、自分が終わってしまうまでのカウントダウンにも思えた。あの数字がゆっくりゆっくり遡っていき、そして、0になった時、自分はこの世から消滅してしまうのだ。
それに、何か根拠があるわけではないが、良佳はそう思った。恐ろしい予感だった。
と、
「おい、井上。何をぼうっとしている?」
急に、教師から名前を呼ばれて、驚いた。
「は、はい!」
返事をするが、その初老の男性教師は眉間にしわを寄せた怪訝そうな顔で、良佳を見ている。
「何をしている、井上。いつものお前らしくもない。もしかして、まだ気分が悪いのか? 何でも、朝のホームルームで倒れたそうじゃないか」
「い、いえ、問題ありません。ちょっと、そ、その、眠たくて……」
つい、咄嗟にそう言い訳してしまった時、良佳ははっとした。しまった、と口を塞ぐ。
しかし、時既に遅し。
良佳がそう口走った途端、ざわり、と教室の空気が変わったのだ。周囲の生徒たちから一斉に視線が向けられるのが分かる。
「おいおい、マジかよー」
「井上、居眠りしてたみたいだぜ」
「あんな完璧な優等生でもそういうことあるんだねー」
「ええー、なんかちょっとガッカリかも」
そんなひそひそ声が聞こえてくる。冷めた感じがするのは、気のせいではない。自分は今、奇異の視線で見られている。
そう思うと、急に寒気が良佳の体を這い上がってきた。
ダメ、ダメよ。自分は、ダメなのよ。こんなんじゃ、ダメなのに。
良佳は自分に言い聞かせる。
私は、もっとしっかりしなくちゃいけないの。だって、私は皆から、頼りにされてるんだもの。
「あ、ああ……」
しかし、止めようもなく、体には震えがやってくる。
怖い、怖い、怖い、怖い、助けてよ……。
「どうした、井上?」
心配そうな、教師の顔。しかし、そこには明らかに複数の意味が含まれていることを良佳は気がついた。
「大丈夫か?」
「あ、あの……」
「何だ?」
「ちょっと、顔を洗ってきてもいいですか?」
「顔を、か?」
「ええ。そうすれば、気分がすっきりすると思うので」
良佳が言うと、その初老の教師はしばし訝しげに見つめてきたものの、それくらいなら問題ないと思ったのか、
「いいぞ、行ってきなさい。ただし、すぐに戻ってくるんだぞ」
と軽く睨みながらそう言った。
「は、はい」
了解が出て、良佳はすぐに席を立った。そして、逃げるように教室から出て行く。一刻も早く、あの周囲からの視線のない場所に行きたかったのだ。
廊下に出て、大きくため息をつく。
あの凍てつくような、鋭い視線たち。失望とため息の入り交じったような、あの空気。
もしも、あれ以上あんな場所にいれば、自分はどうなっていたのだろう。とても冷静でいられたとは思えない。
それを考えて良佳は身震いする。
「はあ……」
とにかく、ここでじっと立っているわけにはいかない。
顔、洗いに行こう……。
しかし、そうは言っても、良佳はとても前向きな気持ちにはなれなかった。それでこの気持ちが静まるのならば、容易いものだ。それで終わらないから困っている。
さあ、どうしよう。どこに行こう。
「屋上……」
ふいに良佳は呟いた。
そうだ。あそこなら、誰も来ないし、一人で気持ちが落ち着くまで待っていられる。そして、いつもの自分を取り戻したら、教室に戻ればいいのだ。
それまで時間がかかるかもしれないので、教師には少し渋い顔をされるかもしれないが、この際、仕方ない。
今の自分では、あの『視線』にはとても耐えられない。
そう決断すると、良佳はゆっくりと足を踏み出す。誰もいない廊下を通り、そして、誰も見ていないことを確認しつつ、最上階までの階段を上った。そして、重たい屋上へと通じる扉を開ける。
すると、ぶわっと、外の空気が舞い込んできて、葛葉は思わず目を伏せた。
「風、強いな」
こんなふらふらな自分なんて、簡単に吹き飛ばされそうね。
扉を閉め、すぐに壁を背もたれにして座り込んだ。強い風が頬を打ち、髪が成されるがままに大きくなびいた。空を仰げば、雲が駆けるように流れていく。
お願いだから、もう少し留まってよ。良佳は切実に思う。
ただでさえ、千切れて飛ばされそうな不安定な気持ちなのに。泣き出しそうな気持ちを必死で抑え込む。
そして、しばらく経った時だった。
ふいに――。
何かが見えた。
その雲間に、何かが掠めて行ったのが、見えたのである。小さな、黒い影のようなものだった。
「あれ?」
良佳は思わず声を上げた。
気のせいだったのだろうか。
でも、確かに見えた気がした。目をこすってみる。そして、じっと空の様子に目を凝らした。
と、
また見えた!
今度は見間違いではない。何か黒い影が建物の屋根を次々と飛び移っているのだ。
「何かしら……」
その正体を見極めようとさらに意識を集中させようとした瞬間だった。そこで、良佳の意識は揺らぎ始める。
そ、そんな……また、あの赤い痕なの!
その黒い影は、まだ建物を飛び移っている。そして、その姿がどんどんこちらに近づいてくるのが分かる。
しかし、それに相反して、良佳の背中はずるずると自身の重みに耐えられず落ちていく。例の赤い痕のせいで、すでに体の態勢を支えるだけの力も出ないのだ。
待って、あれは何なのよ……。
その切なる願いも霧散し、良佳のまぶたは勝手に閉じ始めた。意識が黒い渦を巻き始める。
そして、その何者かの影が、自分の目の前に降り立ったと思った時、再び、良佳の意識は暗黒の中で途絶えた。