其の十一
真昼の神社は、やはりいつも通りの、人っ子一人いない、閑散とした空間だった。
夜彦は偽良佳の手を引いて神社の鳥居をくぐるが、何者の気配もしない。この神社の主である葛葉はどうやら留守のようだった。
境内の青々とした木々の枝が風に揺れてさらさら鳴っている音が聞こえる。とても静かだ。
夜彦は誰もいない参道を通り、社殿の階段に足をかけて、無駄とは思いつつ、再び周囲を見渡した。
一方、状況の分かっていない偽良佳は、ちょうどいい椅子を見つけたという具合いにその階段にちょこんと座る。そして、何をするのかと思えば、空を見上げながら、大あくびをした。全く、暢気なものである。自分の置かれた状況を把握しようと努力するつもりはないらしい。
「おーい、葛葉!」
夜彦は一応、神社の奥に向かって呼びかける。しかし、案の定、返事が返ってくることはない。
やっぱり、いないのか。
「ったく、こういう大事な時にどこをほっつき歩いてるんだ? あいつ」
ふう、と失望のため息をつく。
事は一刻を争うというのに。
夜彦には彼女の居場所に検討がつかなかった。彼女とはそれなりの付き合いではあるが、さすがに平日の昼間となれば、夜彦も普段は高校にいるわけで、彼女の行動パターンを把握してはいないのだ。
まあ、おそらく彼女のことだから、こんな昼日中から職務を全うするために、殊勝にもこの町全体をパトロールしているわけがなく、ただ、目的もなく周辺をうろついているのが関の山だろうが。
しかし、このまま彼女の帰りをぼうっと待っているというのは、夜彦には到底我慢出来ない。一刻も早くこの状況に手を打ちたくてうずうずしているのだ。
学校の良佳は大丈夫だろうか。
状態は悪化していないだろうな。
不安な気持ちが胸の隅から足音荒く駆け寄ってくる。でも、今の自分には何も出来ない。それが、もどかしい。
「だあーーー、もう!!」
夜彦は苛立った気持ちを振り払うように大声を上げた。
すると、
「全く、うるさいのう」
どこからともなく、そんな声が聞こえた。
と思うと、ふわりと、目の前に白銀の巨獣が姿を表す。神社をひとっ飛びに越えたのであろうその妖は、悠然と半身を翻し、夜彦たちにその美麗な姿を見せつけるように、大きく跳躍し――。
いきなり、夜彦に飛びかかった!
「うわあああああ!!」
神社の階段にいた夜彦の胸に前足を押し付け、その巨躯で押しつぶすように、のしかかった。
思わぬことに仰天する夜彦に、その妖、白狐の葛葉は狐の姿のまま、口を大きく開け、その大きく鋭く伸びた牙を見せる。
「全く、わしが不在の時にものこのこ現れおって、この人間の小僧ときたら、毎日飽きもせず次から次へと何の用だというのだ」
「う、うわ、ど、どけよ」
「だいたい今は、お前は高校にいるはずの時間だろう。この能天気な不良学生め」
「うわあああ、分かったから、口を閉じろ、その牙が恐ろしい!」
「ふうむ、確か、授業をさぼって遊び歩いている学生は妖に食べられても文句は言えぬのだったな」
「おいおい、誰がそんなこと決めたんだよ! 頼むからどいてくれ!」
ほとんど悲鳴のような声で叫ぶ夜彦に、葛葉は満足したように怪しくにやりと微笑んだまま、顔を上げた。続けて、押し付けていた前脚をどける。
「ああ、もう、制服に泥が乗っちまった」
夜彦はすぐさま起き上がり、土を手で払う。しかし、湿った土はしっかり残り、これでは洗濯しなければ落ちそうにない。
「ったく、葛葉。今までどこに行って――」
しかし、彼女は夜彦を見ていなかった。
いじめた後の夜彦には興味がないのか、隣に座っていた偽良佳を矯めつ眇めつ眺めていた。くんくんと匂いを嗅ぎつつ、顔を近づけている。
そして、
「ふむ、やはり『妖』か」
と一言。
「そうそう、こいつはさあ……え、え? 今、お前なんて言った?」
「いや、ただ妖かと。夜彦、お前が見つけてきたのか?」
夜彦はあまりのことに目を瞬かせる。
彼女の放った言葉の意味が分からなかったのだ。
夜彦が呆然としている間に、突然のことにしばらくきょとんとしていた良佳は、何を思ったか、目の前の巨獣を恐れることなくその鼻先を撫で始める。
「うわー、大きいねー。もふもふだ」
「小娘、私に気安く触るな。幻妖界の妖たちがその名を聞いて恐れおののく誇り高き妖狐、幻門白狐の葛葉だぞ」
「えー? よくわかんなーい」
「おい、その馬鹿に間延びした声を出すな。気が抜けそうだ」
「なんでー、別にいいでしょー?」
「ええい、黙らすのが面倒だな。この際、喰ってやろうか」
胃の腑に入れてしまえば、とりあえず静かにはなるだろう。
と、彼女は大きく口を開け、凶悪な牙をぎらつかせる。
「おいおい、ちょっと待て」
そこでさすがに夜彦が割って入った。
「こっちの話を聞いてくれ」
「何だ? いつもの退屈な怪談なら、聞き飽きたぞ」
「そうじゃねえよ。こいつの事だ。お前、今、こいつのことを妖だって言ったよな」
「ああ、そう言ったが?」
何でもないことのように、彼女は頷く。
「こいつは、確かにお前たちの仲間の、妖なんだな?」
夜彦は念を押して聞く。すると葛葉は不快そうに眉間に皺を寄せた。
「何度も言わせるな。私を誰だと思っているのだ? 夜彦、どうやらお前は相当私に噛み付かれたいらしいな」
お、おい冗談はよせよ。
夜彦はぶんぶんと横に手を振った。あんな恐ろしい牙をもう一度間近で拝むなど、まっぴらごめんだ。
「じゃ、じゃあ、葛葉には、この妖の正体が分かるか?」
「正体?」
「ああ、俺はドッペルゲンガーかと思ったんだよ」
「どっ、ぺる……?」
知らないのか、彼女は合点がいかないようにくいっと首を傾げる。
「はて? それは何だ?」
「ドッペルゲンガーってのは、自分そっくりの幻みたいな存在のことだよ。今ここにいるのがその幻で、本物は別の場所にいるんだ。聞いたところによると、こいつはその本物から時々抜けだしてきているみたいだぜ」
すると、葛葉は夜彦の説明を聞いて、目を細めつつ頷いた。
「……なるほど、なるほど。思い出したぞ。以前どこかで、それと同じような話を聞いたことがある」
「っで? それとは違うのか?」
「違う」
有無を言わさぬ一刀両断である。
「えええ!!」
「残念ながら、お前の推理は空振りだ」
「じゃ、じゃあ、何だって言うのさ」
「別に、何ということもない。こいつはな、夜彦。お前もよく聞いたことのある有名な妖だ」
「俺もよく知ってる妖?」
そんな馬鹿な。もしそうだったなら、今頃とっくに気がついているはずである。それに、夜彦は昨晩、寝ないで資料まで漁ったのだ。見落とすはずがない。
「本当に、知ってるのか?」
夜彦は半信半疑だ。
「ああ、妖マニアのお前なら、当然知っているはずの、メジャーな妖さ」
そして、一呼吸置いてから、
「こいつの正体は、『ろくろっ首』だ」
そう、告げた。