其の十
学校の教室では、すでに2時間目の授業が始まっているであろう時間――。
八守中夜彦の姿は街中の交差点にあった。
のどかな空気の漂う商店街を行き交う人々の間を縫うようにして、目的の場所へと向かっている。
おそらく、今頃、自分が校舎からいなくなったことが、クラスで問題になっているかもしれないな。
走りながら、夜彦はそんなことを思う。
最悪、担任の教師から親に連絡がいっているかも……。
しかし、それは今考えるべき問題ではない。もしも、夜彦が親や教師からこっぴどく叱られてしまうのであれば、それでもいいと夜彦は考えていた。
それと引き換えに、あの小生意気なクラスメイト、井上良佳の身が守られるのであれば、それで十分いい結果なのだ。
そのいい結果を導くために、夜彦は横断歩道を飛ぶように走る。びゅんびゅんと走る。
と、そこで――。
「ここだ!」
夜彦は叫ぶ。
それは昨日、あの陽気な井上良佳に案内された場所である町のフィギュアショップだった。
もう一人の良佳がいるとすればここにいる可能性が高い、と考えたのである。
走ってきた荒い呼吸のままでもう一度店名も確認し、夜彦は自動ドアをくぐる。平日の昼日中、店内には店員の他には客の姿はほとんどない。
制服姿のまま、息を切らして店の中を目を走らせる夜彦を、店員は怪しんでいるようだが、夜彦は気にもとめない。ずんずんと足を進め、目的の商品売場に向かう。
すると、案の定……見つけた!
井上良佳だ。商品を陳列するショーウインドーに顔を近づけて、並んだフィギュアを食い入るように凝視している。
「やはり、実在したか……」
夜彦は幻と出会ったような不可思議な気持ちになりながらも、確信する。
自分が昨日見た彼女は幻などではなく、やはり、その場に実体を伴って存在している。思わず、じっと彼女を見つめてしまったが、生憎、ゆっくりしている時間はない。
学校では、本物の井上良佳が自分の助けを待っているのだ。
ともかく、この良佳――偽良佳とでも呼ぶか――に対する検証を行わなければ。
ごくり、と緊張の唾を飲み込んで、意を決し、夜彦は彼女に歩み行く。
「おい、井上」
名前を呼ぶと、彼女はぴょこんと驚いたように跳ねて、振り向いた。そして、こちらを見るや、
「あれ、夜彦君じゃない。またまた奇遇だねー」
気が抜けるほど無防備な笑顔で話しかけてくる。しかし、夜彦は気を抜かず、鋭い視線のままで問いかけた。
「お前、本物の井上良佳だよな」
「うん、そうだけどどうしたの? そんなに怖い顔してさー」
「お前、昨日俺と別れてから、今までどこで何をしてた?」
すると、彼女はすぐに何かを答えようと口を開いて、開いて……そのままになった。
「……」
口が開いたままで、まるで声の出し方を忘れてしまったかのようにぽかんとしている。
「ええと、昨日、夜彦君と別れてからだよね」
と確認してくる。
「そうだ。これはとても大事な事なんだ。お前は今までどこで何をしていた?」
「ええと、そのう……わたし、忘れちゃったかも」
「全然、全く?」
「えへー、うん。すっかりすっぽり」
「ドッペルゲンガー決定だ!」
夜彦はそう叫ぶと、逃がさないようにすかさず、彼女の腕を掴んだ。当然、彼女は驚いて抵抗する。
「ちょちょちょい、これはどういうことなのー!?」
「つまり、お前は忘れたんじゃなくて、最初から記憶に無いんだよ。なにしろ、ついさっきまで、お前は本物の井上良佳の中にいたんだからよ」
「い、意味が分からないよー!」
ジタバタとわめく彼女を夜彦は無理やり引っ張る。
「いいから俺についてこい。お前にはやるべきことがあるんだ」
しかし、彼女はあくまで強情にいやいやと首を横に振った。
「だ、ダメだよ。今の私にだって、やるべきことがあるんだから」
「やるべきこと?」
「うん。だってここであようちゃんのフィギュア見てないと、誰かに買われちゃうかもだし」
そう言って、再びショーケースの中をじっと凝視し始めるのだ。夜彦は肩から力がずんと抜ける。おいおい、三歳児かよ。
「あのなー、そんなどうでもいいことより、こっちの用事の方が断然重要なんだよ」
「ええーー!?」
「こっちは一刻を争う事態なの」
しかし、彼女は頑なに口を閉ざし、ぷるぷると頭を振る。その場でさらに深々としゃがみこみ、一歩も動かないという意思表示だ。
これではまるで子供である。どうしてこちらの偽良佳はこんなにも頭が幼稚なのだろう。
「本物と正反対の性格をしてるのか?」
「私は動きませんー」
ぷいっとそっぽを向く。
「よし分かった、アイス買ってやるから」
「お菓子あげるって言われても知らない人にはついていっちゃいけないもん」
「お前、俺とは面識あるだろうが!」
「わたし、夜彦君なんて知りませーん」
「おい、いい加減ふざけるなよ!」
そう語気を強めて怒鳴ったが、それでも全く動く素振りを見せない彼女に、夜彦は失望した。
駄目だこいつ。どうして、こんなに言う事を聞かないんだ。いつもの井上なら、こんなに話が通じないなんてことはありえないのに。
「……じゃあ、どうしたら動いてくれるんだ?」
心底困った夜彦は、すっかり途方に暮れた弱々しい口調で呟いた。
「え?」
「こっちは動いてくれないと本当に困るんだ」
「夜彦君が……困る」
すると、さすがに同情したのか、彼女の強く引き締められていた頬が緩む。
そして、
「えっと、それじゃあ……」
と、彼女は遠慮がちにショーケーズの向こうを指差した。
その先には、彼女が先ほどから大事そうに眺めている一体のフィギュアがあった。
夜彦はすぐに合点がいった。
「ま、さか、それを買えと」
こくこくと彼女は懸命に頷く。
夜彦はたちまち鳥肌が立った。
うわー。
改めて、そのフィギュアの値札を見て、桁数を数え、血の気が引く。
「いくらなんでも、高いだろ」
「買ってくれる?」
「……ぐう、くそう、何で俺がこんなことを……」
「ダメ?」
「いや、さすがに、これは……」
「夜彦君」
「……」
「ねえ、夜彦君ってば」
「お、おれも男だ……」
「え、それじゃあ!」
「井上、これはお前へのツケだからな、後から必ず返済しろよ」
そして、そう彼女に言い放つや、気に迷いが生じないよう一目散に夜彦は店を出ると、そのまま銀行のATMを目指した。震える手でボタンを押しつつ、自分の預金から金を引き出し、店に戻る。
そして、数分後――。
店の前にはホクホク顔の良佳と悲壮感の漂う表情の夜彦が対照的な様子で立っていた。夜彦は恨めしそうに自分の薄くなった財布と彼女の持っている紙袋を交互に眺め見ている。
「くそう、俺の貯金だぞ。必ず返さないと俺は泣くからな。井上」
「うわー、ありがとう。夜彦君、あようちゃん大事にするねー」
意気消沈する夜彦とは裏腹に、欲しい物を手に入れた良佳はたまらなく上機嫌である。袋の中身を見ては微笑み、また見ては微笑みを繰り返している。全く、いつまでもキリがない。
飽きないのかよ、と夜彦は思う。
しかし、一方で、少女の無邪気な笑顔というものは、とても可憐で、華やかで、夜彦の心を少なからず、動かした。
本物の彼女も、いつもこんな風に素直に感情を表現すればいいのに。今の真面目すぎる格好をしているより、何倍も歳相応の少女らしいよな。
ともかく今は逃がさないよう、彼女の手を握る。
「よし、井上。これは約束だからな」
「うん?」
「それを買ったら俺の言う事を聞いてくれるだろ?」
「うん。いいよ。どこに行くの?」
「町の北にある稲荷神社だ。知ってるか?」
「ああ、そこなら小さいころによく遊びに行ったよー」
彼女は懐かしそうに言う。
どうやら、昔の記憶はあるようだった。
おそらく、彼女がこうして二つの存在に分離する以前の出来事だからなのだろう。思えば、そうでないと夜彦の記憶があるはずがない。
「そこに何しに行くの?」
「ああ。ちょっと、小生意気な狐に会いに、な」
そう言って、夜彦は彼女の手を引いて走り出す。
「ったく、予想以上に時間を食っちまったぜ」
腕時計の針は正午を回っていた。