其の九
その後、体調が回復するまで大事を取るという担任の判断で、井上良佳は数時間保健室で休息を取るという事になった。
彼女はふらつく足取りのままで、数名の保健委員に連れらていき、残った生徒にはそのまま一時間目の授業が待っていた。
しかし、それで夜彦の心の疑念と懸念が消え去るわけもなく、席についた後も、しきりに考えを巡らせていた。
彼女の身に起こっているのは何なのか。彼女の安全を確保するためにはどうすればいいのか。
黒板に書かれた数式もそっちのけで、ペンをくるくる回してばかりいるので、教師に問題の答えを聞かれても答えることが出来ない。ぼさっとするな、と注意をされても、周囲の生徒から失笑されても、夜彦は数学をする気にはならなかった。
さっきの井上良佳の首から見えた痕が目に焼き付いて脳裏から離れない。
そして、授業終わりのチャイムが鳴ると同時に、夜彦は我慢できずに教室を飛び出した。保健室に向かうのだ。背後から教師が廊下を走るな、と怒声を飛ばしてきた気がするが、構わず、階段を駆け下りた。
保健室の戸を開け、教師に彼女と話がしたいと告げる。しかし、その若い保健の教師は渋い顔をした。
「さっき寝付いたところなんだから、今は静かにさせてあげたいんだけどねえ」
「すいません。どうしても聞いておきたいことがありまして」
夜彦がペコペコと頭を何度も下げると、諦めさせるのは面倒だと考えたらしく、カーテンが閉めてある奥のベッドを覗き込み、良佳に了解を取った上で、ようやくオーケーが出た。
「本当に少しだけよ。あんまり無理させないようにね」
「はい、分かりました!」
嬉しさでつい大声で返事をすると、教師はたちまちしかめっ面になり、うっとおしそうに口元に人差し指を当てた。
「いい? し、ず、か、に、よ」
「は、はい」
カーテンの向こう側には、ベッドに弱々しく横たわった井上良佳がいた。制服姿のまま、掛け布団を肩までかけて縮こまっている。そこには、いつもの優等生らしい、堂々とした様子は微塵もない。むしろ、彼女には似つかわしくない、風雨にさらされて小さく鳴いている子犬のようなか弱さが、そこにはあった。
「夜彦くん……」
と、こちらを見上げて呼ぶ声にも、覇気がない。
「井上、大丈夫かよ」
「う、うん」
彼女は頷く。
「多分ちょっと眠ればすぐに元気になると思うから平気よ。クラスの皆にもそう伝えておいて」
「井上……」
夜彦は髪の毛をくしゃくしゃと掻いた。
全く、こんな時でもこの少女は、自分より他人のことを気にかけているのか、と驚くというより呆れる。
本当に、生徒の鑑だな。
夜彦にはとても真似できそうになかった。彼女にはそれだけの強い心があるのだ。
「それより、何か私に用なの?」
「ああ、それは……」
夜彦は言いかけて、何から聞くべきか、迷う。すると、それより先に彼女が口を開いた。
「分かった、今日の勝負のことでしょ?」
と言う。
「へ?」
「別に私はいいわよ。おじゃんにしても。あの時は私もつい勢いであんなこと言っちゃったし、ちょっと調子に乗ってたか――」
「馬鹿、そんなことじゃねえよ」
夜彦は彼女の言葉を遮って首を振る。
「じゃあ、何?」
きょとんとして、不思議そうに見上げる良佳に、夜彦はそっと周囲に目を配り、ちょうど保健教師が用事で部屋を出て行ったのを見計らって彼女に耳元で話しかけた。
「お前、何か隠してることがあるだろ」
「か、隠してること?」
「そうだ。お前、今朝なんで自分がぶったおれたのか、その理由に心当たりがあるんじゃないか?」
「そ、それは、ちょっと寝不足だったのよ。最近、授業の予習に時間がかかっててさ」
しかし、その答えに夜彦は納得が出来ない。彼女の顔色がさっと変わったのに気がついたのだ。
「違う、他に心当たりがあるだろう。あまり他人に言えないような、奇妙なことだ」
「な、何よ、何を根拠にそんなことを言ってるの?」
明らかに彼女は動揺している。夜彦と話しているのに、視線があらぬ方向を泳いでいるのだ。どうやら図星だな、夜彦は思った。そして、ここで止めを刺そうと顔を近づけた。
「俺はな、井上。見たんだよ」
「な、何のことよ」
「さっきお前が倒れる一瞬のことだ。お前の首もとに首輪みたいな赤い筋が入るのを、はっきりとな」
「え!?」
案の定、彼女は驚きで絶句した。
「やっぱり、その痕に心当たりがあるんだな?」
「……いや、その……」
と良佳は最初、ごまかしの言葉を探してきょろきょろとしていたが、急に諦めたように首をくたんと垂らした。
「誰にも、言わない?」
と小声で聞く。
「お前が、言って欲しくないなら、誰にも言わねえよ」
「でも、夜彦君、おしゃべりだよね。学校に変な噂が広がるのは嫌なの」
そう言って警戒するように彼女は瞳を細める。そこには、優等生としての譲れないプライドがあるようだった。
なるほど、な。夜彦は胸中で納得する。
それで今まで誰にも言わずに自分の中に留めていたのか。
もし、彼女の言う通り、首筋に赤い痕が浮かび上がるなどと、そんな妙な話が広まれば、気味悪がられ、彼女は学校での信頼を失う可能性もある。様々な委員会に所属し、成績も優秀、周りの多くの生徒から、特に頼りにされている彼女にしてみれば、それは人一倍切実な思いなのだろう。
「それが不安か? もし信用出来ないなら、無理をして言わなくてもいいぜ」
「え?」
すると、それまで強気な姿勢を取っていた夜彦が急に引いたことを不思議に思ったのか、彼女が目を丸くする。
「ど、どうして?」
「そりゃ、俺はお前にとって、特別仲の良い友達や親密な関係の家族じゃないんだし、信頼出来ないのは当然のことだ。それに、昨日、口喧嘩したばかりの相手なら、なおさらだろ? きっと俺だって躊躇するぜ。俺はそんなお前の気持ちを蔑ろにして、無理やり話を聞き出すつもりはない」
「……」
「けれどよ、俺はそれで終わらせるつもりはないぜ。お前のことが心配だからさ、話を聞けないなら聞けないで、出来る限りのことをしてやりたいんだ」
「夜彦、君……」
「余計なお世話だって思われても、ここまでの情報を頼りに俺は自分に出来ることをするつもりだ。もしかすると、そんなんじゃ、何の手助けにもならないかもしれない。だけど、このままじっとしてんのは俺の性に合わないんだよ。俺は動いていないと我慢出来ないタイプの人間なんだ。な? 俺はお前の助けになりてえんだよ」
「あ……ええと」
すると、彼女はなぜか少し頬を赤らめ、
「ご、ごめん」
と頭を下げた。
「何だよ、なんで謝るんだよ」
「私、夜彦君のこと、今までいろいろ誤解してたかも」
と、ちらちらこちらを見ながら恥ずかしそうに掛け布団で顔を覆うので、夜彦はすっかり意味が分からない。
「あん? どうしたんだよ、急に」
「ううん、何でもない。とにかく、夜彦君は私のこと、本当に心配してくれてるんだよね」
「あのな、井上、聞いてなかったのか? 今ちゃんとそう言っただろ?」
すると、彼女は、だよね、と静かに頷いた。ほんの少しだけ、嬉しそうに微笑んだようにも、見えた。
「その、夜彦君」
「何だよ」
「わ、私のことを他の人に話すとか疑ったりして、ごめんね」
「だぁから、んなこと気にすん――え!? ってことは……」
素っ頓狂な声を上げた夜彦に対し、良佳はこくんと首を動かす。
「うん。ちゃんと話すよ。私の身に何が起こってるのか……」
そして、彼女はベッドに入ったまま、最近自身に起こっていた不思議な現象を語り始めた。
突然、不安な気持ちに襲われること。その原因がはっきりしないこと。体調が悪いわけではないこと。胸にぽっかり穴が開いたような気がすること。そして、赤い痕が見え、その途端、気を失うこと。
夜彦はその話を静かに耳を傾けていた。
「なるほど。その痕を見ると、気を失うんだな」
とベッドに腰掛けながらふむふむと頷く。
「うん……」
「それで、気持ちが塞ぎこむのが、その赤い痕が浮き出る合図なのか?」
「たぶん、そう……」
そうか、と返事をして、夜彦は考えを巡らせる。これから自分がすべき事を、まとめているのだ。
「井上」
「なに?」
「確認するが、昨日も同じような事があったんじゃないか?」
その質問に怪訝そうに眉を動かしながらも、彼女は答える。
「え、そ、そうだけど、どうして?」
それだけ聞ければ十分だった。
「そうか、ありがとうな」
と礼を言ってから、夜彦は、
「じゃあ、行ってくる」
とベッドから勢いよく立ち上がった。そろそろ出発しなければならない頃合いだ。
すると、それに驚いた様子の良佳は、ぐっと腕を掴んでくる。
「なによ、夜彦君、どこに行くっていうの?」
「どこに行くって、『もう一人のお前』を探しに行くんだよ」
「もう一人の、私?」
理解出来ないのか、目をぱちくりさせる彼女。はあ、と夜彦は溜息をつく。
「そうだ。昨日話しただろう。商店街で妙に陽気なお前を見たって」
「え、ええ」
そう言えばそんな頭の悪そうなことを言っていたわね、という感じで彼女は唇に指を当てている。
「おそらく、そのもう一人の井上は、その不思議な現象が起こった後に現れるはずなんだ。俺の推理では、な」
「私のあの赤い痕が見えた時に、私からもう一人が抜け出てるってこと?」
「ああ、おそらくな」
夜彦は力強く頷く。それは今のところ、確証のないただの勘ではあったが、それなりの自信はあった。
「し、信じられないわ」
「まあ、そうだろうな。大抵の人間はそう反応する」
「……ってことは、夜彦君は、こういうことに慣れてるの?」
「ああ。世の中にはこういう摩訶不思議なことが溢れているのさ。俺はそういう体験を今まで何度もしてきた」
「何度、も……」
「なあ井上、幽霊や妖怪だのって話がいつまでもこの世に尽きないのにはさ、きちんとそれなりのわけがあるんだぜ」
夜彦が言うと、浅く息を吐いて、彼女は何かを飲み込む仕草を見せた。脱力し、目を伏せ、急に黙りこむ。
おそらく、自分の中で気持ちを整理しているのだろう。夜彦は思った。
無理もない、今までそんな存在を真っ向から否定してきた彼女にとっては、そんな話は常識が一辺にひっくり返る一大事なのだ。
「大丈夫、か?」
不安になって、思わず声をかける。すると彼女は少し肩を揺らして否定した。
「ええ、心配には及ばないわ。けれど……」
「……? どうした?」
「ええとね、夜彦君、あなたが言っていることは、とてもすぐには信じられない話だけど、仮にもしも、そのもう一人の私が見つかったとして、その後はどうするの?」
「え?」
「それって、かなり特殊な状況だよね。病院に行って治るものでもなさそうだし……何か、いい方法が――」
「ああ、それなら大丈夫だよ」
夜彦は軽く彼女に笑いかける。
「俺には、そういう怪現象を専門に扱ってる強い味方がいるしな」
「怪現象を扱ってる、味方?」
「ああ、そいつにだけはお前のことを話すが、口が堅い奴だから、心配するな」
「は、はあ……」
「ともかく、安心して寝ておけよ。必ず、俺が解決策を見つけ出してやるから」
「ああ、うん」
彼女は少々納得がいっていない表情ではあったものの、そのままベッドに背を付けた。それを確認して夜彦は保健室を飛び出す。
もう、授業なんて受けている場合じゃない。
休み時間が終わってしまう前に、学校を抜けだそう。
一刻も早く、もう一人の井上を見つけ出し、
葛葉に会わなければ!