其の八
翌日、夜彦は昨日のとんでもない出来事の余韻を残した寝ぼけた頭を引きずって、学校に登校していた。
自分の机に座って、憂鬱そうに肩肘をつき、半眼で窓の外を眺めている。窓の外は、夜彦の今の心境を映しだしたような、どんよりもやもやとした曇り空だった。余計、気に混乱が生じてしまう。
夜彦は眼を閉じてみた。
昨日出会った二人のことを、ゆっくりと思い出してみる。いつも通り、生真面目そうな仏頂面だった彼女と、いつもとは違う、明るい魅力に溢れた彼女。
何度考えても、やっぱり、あれは何かの記憶違いでも、人違いでもないよな……。
しかし、そうだとすると、昨日の放課後、あの優等生少女井上良佳は、この町に二人存在していたことになる。
「うーん……」
それは、誰でも判る明らかな異常事態だった。瞬間移動でも出来ない限り、同じ人間が別々の場所に同時に存在するなどということはありえないのだ。
夜彦は頭をかかえる。
果たして、彼女は超能力者なのだろうか。彼女が人類の未知なるパワーを秘めた存在だと言うのならば、それも可能だろう。しかし、少なくとも夜彦はそんな人間にこれまでめぐり会ったことはないし、良佳がそんなイメージに当てはまるような少女ではないことは、間違いない。ただし、彼女のテストの点数に限っては、本当に超能力でも使っているのではないかと疑いたくなるほど高いものだが……。
そうだ、こう考えてはどうだろう。
彼女が天才的なマジシャンだという説だ。
例えば、ステージで観客にダイナミックで奇想天外な手品を見せるマジシャンならば、さも同時に二人の同じ人間が別の場所で存在しているような、そんなありえない現象を引き起こすことも可能なのかもしれない。
しかし、思いついてすぐ、その考えには現実味がないことに気がついた。
仮に、そんな大掛かりなことを彼女がしたところで、それに何の意味があるというのか、という疑問が沸いたのだ。
夜彦を驚かすため? いやいや、あの生真面目で、茶目っ気の欠片もない彼女が、そんな大げさで大したメリットもないイタズラを行うはずがない。
ナンセンスだ。却下だ、却下。
しかし、そうなると必然的に、目の前にある道が見えてくる。夜彦がその他に用意出来る答えはやはり一つだった。
「昨日、俺が見たあいつは、なんらかの怪現象の一つだった」
そうだ、そうに違いない。
その説に確信を持った夜彦は、持っていたシャープペンシルをくるりと回すと、ノートの新しいページに、こう書いた。
『ドッペルゲンガー』
うん、これはありうるぜ。
ペンの先でこつこつと文字を叩く。
夜彦は、昔、話で聞いたことのある程度の記憶を意識の底から引っ張り出してみる。
「正直、あんまり詳しくは知らないが、自分と瓜二つの人間が、たまに見えたりすることがあるんだよな……」
記憶が明瞭ではないので、情報はあやふやだが、確か、その存在を見た者は――。
「そう……そうだ、死んじまうって聞いたことがあるぞ!」
おいおい。
夜彦は絶句する。
これはただごとではない。早急に手を打たなければ。彼女の命に関わる!
「……お、おそらく、ドッペルゲンガーの疑いが強いのは、最初に会った井上の方だな。あの奇妙に陽気な感じは、いつもの彼女の様子と、明らかに異なっていた」
夜彦は昨日、あの少女を見て、化物、とは思わなかったが、異常、と捉えるには十分過ぎるほどの要素があったことを思い出す。
あの、天真爛漫な笑みの後の、ぞっとするような冷たい表情。
ああ、間違いない。きっとあいつがドッペルゲンガーだ。
しかし、そこまで考えて、夜彦は新たに疑問に思う。
あれ?
もしそうだとすると、この場合、どうなるのだ。
何しろ、井上良佳のドッペルゲンガーに出会ったのは、彼女本人ではなく、夜彦の方なのだ。夜彦が自身のドッペルゲンガーを見たというのならばまだ理解できるが、彼女のそれということになれば、事情は変わってくる。
うーん、ドッペルゲンガーって、他人のものも見えるものだっけ?
「うがー、分からん!」
夜彦は頭を掻きむしった。妖についての知識はあるものの、こういう特殊な怪奇現象ともなると、全く対処法などは分からない。
ここは、葛葉に聞いてみるのがいいかな。
と、そこで、教室のドアが開いて、一人の少女が入ってきた。
「井上、良佳!」
いつも通り、その少女は、自信満々に胸を張り、颯爽と教室を歩いていく。周囲の人間が、思わず会話を止めてしまうような、そんなはっとするオーラを振りまきながら、机に腰掛けた。
そして、何をするのかと思えば、彼女はまだホームルームも始まっていない一限目の教科書を取り出している。
おそらく、この時間から授業の予習を始めるつもりなのだ。全く、恐ろしく勉強中毒な奴だ。夜彦は見ているだけで嫌になる。今に数学の公式と英語の熟語でしか会話が出来なくなるに違いない。
しかし、そんなことを思いながらも、いつも以上に彼女の様子に注意深く目を走らせる。
顔色は、いつも通り。
どこかに大きな怪我をしているわけでもない。
背中にファスナーは……さすがに無いな。
もしかすると、彼女は外側の皮を脱ぎ、脱皮する形で二人に分裂出来るのではと、想像を巡らせたのだったが、普通に考えて、そんな馬鹿な話があるわけがない。
彼女は一人の人間としてそこに存在していた。
はふん、と夜彦はため息をついた。
何だ、結局いつも通りじゃないか。どこにも異変は認められない。背後霊のように、ドッペルゲンガーが彼女の後ろに引っ付いていたのなら、一目瞭然なのだけれど。
「あっ!」
そこで、夜彦は急にある事に気がついた。
大事なことを忘れていた。
昨日の怪現象の原因が彼女ではなく、自分にある可能性について、全くもって検討していなかったのだ。
仮にそうだった場合、昨日の奇妙な出来事は全て、夜彦自身が何らかの白昼夢を見ていただけだった、などという結論もありうる。
思えば、最初、妙に陽気な良佳に出会ったとき、夜彦は葛葉に申し出を断られ、意気消沈したまま、現実から目を背けたい欲求に駆られていたのだ。その感情がふいに、夜彦にあんな非現実的な幻想を見せたということも、全く否定できるわけでもない。
まあ、認めたくはないのだが……。
しかし、
しかし、思い出してみると、あの陽気な井上良佳が勝負の記憶を覚えていなかったのも、夜彦に都合の良い展開を心の奥で密かに期待していた結果なのではないだろうか。
それも、夜彦が妄想を見ていたのではないか、という証拠になりうる。ますます、その可能性が夜彦の中で膨らんだ。
そんなことを考えていると、教室のドアが開き、担任教師がそこから姿を見せる。まだ教室内で席についていない生徒に対し、早く席に戻るよう注意を飛ばし、自分は教卓の前に立った。
日直が、号令をかけ、全員が立ち上がり、一礼をする。毎日の決まりきった動作だ。
しかし、礼が終わり、席に着くとした時だった。視界の端に先ほどまで見ていた、井上良佳が映った。
あれ?
夜彦は眉間にシワを寄せた。彼女の様子がおかしいことに気がついたのである。
すでに号令を終えて席に座るべきなのに、なぜか彼女は礼を終えたときの姿勢のまま、直立し、真っ直ぐ前を、虚ろな目で見ているのだ。そして、その横顔から見える頬と額には、びっしりと汗が吹き出している。
「おい、井上?」
夜彦がそう呼びかけた時だった。
彼女は体に繋がっていた糸が切れてしまったように、ふらりと振り子のような動きを見せた後、その場に倒れてしまった。机と椅子がひっくり返り、大きな物音を立てる。
きゃあ、と女子生徒の悲鳴が聞こえ、男子生徒はどうしたどうしたと彼女の元に駆け寄った。
その中で、夜彦は見逃さなかった!
良佳の首もとに、現れた、その印を。
それはまるで、彼女にはめ込まれた首輪のような……。
「あ、赤い……痕だ」
そう呟いた瞬間だっただろうか。夜彦の耳元を何かが横切っていったのを感じた。ごお、という風が吹き抜け、窓を超え、町の方へ消えていく。
あれは、何だ?
もしかすると、ドッペルゲンガーの本体か?
窓の向こうへ目を向けるが、既にその何かの姿はどこにもなかった。しかし、間違いなく、夜彦は確信する。
今の『何か』は間違いなく、井上良佳の体から抜け出たものだ。怪現象の発生だ!
教室に視線を戻し、良佳を見ると、彼女は意識を取り戻したようだった。背中を抱えている教師に向かって弱々しく笑いかけて、「大丈夫」と頷いている。
何が大丈夫なものか。
これを放置しておけば、きっと取り返しの付かない問題になるぞ。
夜彦の頬にピリリと緊張が走った。