其の二
匂いがする。
八守中夜彦はそう思った。
麗らかなる春の日の午後のことである。
夜彦は自身が通う逢間高校の陽の当たる廊下に立っていた。ぽかぽかとした平和な陽気のためか、廊下に面する窓はところどころ、無造作に開け放たれている。その向こうには、学生達によって手入れがされた、綺麗な花壇が見えた。和やかな景色だ。
おそらく、新入生を歓迎するためであろう、その花壇には色とりどりの花々が植えられ、それらは皆誇らしげに太陽の光を纏い、その香りを存分に周囲に振り撒いていた。それが、春の穏やかな風に漂い、開け放たれた窓から、夜彦のいる廊下まで届いてくる。
しかし、生憎、夜彦が嗅いでいるのは、そんな甘い香りではなかった。
もっと、繊細微妙で、奇妙奇天烈な匂いである。くんくん、と夜彦の鼻が犬のように鳴った。
どうやら、その匂いの元は、近くの教室から漂ってくるようである。昼の休憩時間でもあり、その教室からは生徒たちが頻繁に出入りしている。仲間と共に連れ立って学食に向かう者、次の授業の教科書を借りに来た者、ただ意味もなく数名で喋り、大騒ぎしている者。そこに引き寄せられるように、夜彦は教室の入り口から中を覗いた。
すると――。
乱雑に机を寄せ合って昼食を楽しんでいる生徒達の中で、なぜか少し離れた教室の隅に、陣取っている集団がいた。彼らは、何やら真剣な面持ちで周囲を憚るように、話し込んでいるようだった。
怪しい。直感的に、夜彦はそう思った。もしかすると、アレなのかもしれないと期待した。
昔から、夜彦は『そういう』類の話に敏感だった。超能力、というと大げさだが、それに近いものではないか、と個人的に考えている。夜彦の鼻は、自分の周囲で、ある特定のジャンルの話題が集団の中で取り沙汰されている時に、反応するのである。
そのセンサーは耳で聞こえるよりも広い範囲を網羅しており、たとえ、多少壁で阻まれていたとしても、感じることが出来る。
そして、今日はその鼻が夜彦をこの教室にいる生徒達の集団に導いたのである。
夜彦はいつものその直感に従い、ためらわずその教室に入ると、早速その集団の中に身体を割り込ませた。
「なあなあ、何の話をしてんだよ」
すると、当然のことながら、その部外者である夜彦の闖入により、その場の全員の視線が夜彦に向けられた。それは明らかに同士を迎え入れるような友好的な眼差しではなく、場の空気を乱した者への怒りに満ちた視線だった。
中でも、その集団の中央で得意げに話を披露していたと思しき少年は、夜彦の姿を見て、露骨に不快な表情を見せた。おそらく突然の夜彦の出現により、話の腰を折られたせいだろう。
「何だよ、まーた夜彦かよ」
とうんざりした様子で、口を尖らせる。
「お前、どうやって嗅ぎつけるのか知らないが、こういう話をすると、いつもどこからともなく現れるよな」
「お、ってことはやっぱり――」
ぞわり、と心の水面に不気味なさざ波が立つ。その、背筋をひんやりとした冷気が舐めるような気配に、夜彦は俄に浮き足立つような興奮を感じた。
「――怪談、なのか?」
すると、案の定、少年は頷いた。
「まあ、な。俺がついさっき聞いてきた話よ」
そして、得意げに鼻の頭を掻き、集まっている生徒達を見た。
「それを皆にさ、こうして、いち早く報告してあげてるわけ」
その様子は豪華な邸宅に住まう富豪が、客人たちを家に招いて、我が家の自慢をしているように見えた。
と、いきなり、夜彦は隣から軽く小突かれた。見ると、横で座って聞いていた少女に睨まれていた。
「もう、いきなり入って来て邪魔しないでほしいわね」
そう鋭い口調で文句を言われる。
「私、早く話を聞きたいんだから」
ああ、ごめんごめん。
夜彦は素直に頭を下げ、謝罪をした。確かに、これは話に割り込むというマナー違反をした夜彦の方が悪い。
ちなみに、夜彦はその少女を同じ学年で見かけたことがなかった。一瞬どこのクラスの生徒なのか記憶を探るが、おそらく他学年の生徒なのだろうと思った。怪談が聞けると聞いて、わざわざこちらにやってきたに違いない。怪談には、そういう不思議な魅力がある、と夜彦はつくづく思う。
「さてさて、それで、どこまで話したっけ」
怪談を披露していた少年が大仰な咳払いをして皆の視線を集めた。気を取り直して、話を再開するつもりなのだ。
「ああ、その女の子が、三階の音楽室で居残りで練習をしてたってところだったよな……」
そして、少年がおもむろに話し出すと、その場の全員が興味津々に息を潜めて、聞き耳を立てた。夜彦も同じように、身を乗り出して話を聞く。
どうやら、彼の話のあらましはこういう感じだった。
二日前のことである。
とある吹奏楽部の女子生徒が、部活の活動後、一人居残って練習をしていた。それは、校舎の三階の隅の音楽室で練習をしていたのだが、練習に熱中するあまり、時間が経ち、下校時間が過ぎてしまったのに気がつかなかった。はっとした時には、外はもうすっかり暗闇で、それを見た少女は急に心細い気持ちになったのだと言う。
「ほら、あそこに見えるだろ」
話していた少年が教室の窓から外を指差した。そこには、校庭の端に沿って植えられた見事な桜並み木が見える。
「あの桜の木から花びらが舞い散るのをぼうっと見てたらさ、何だか薄気味悪い気持ちになったんだってよ」
へえ、と夜彦は相槌を打った。
今見える桜の花は、柔らかく、薄い霞みに包まれていて、恐ろしさのようなものは微塵にも感じられない。それは誰の目にも明らかだろう。
しかし、
しかし、夜彦は知っている。
その桜の持つ美しさというものは、時に、人に恐怖を与える不気味さを兼ね備えているのだ。物言わぬ闇が、その効果を引き出すのである。
まあ、それはさておき。
その少女は、下校時刻も過ぎているということで、一先ず、荷物を片付け早く帰宅しようと思ったのだそうだ。
だが、そこで、ある異変に気がついた。
急に周囲の空気がひんやりと冷たくなってきたような気がしたのだという。それまでは寒さなど全く感じていなかったため、その異様な雰囲気に、少女はますます気味が悪くなったらしい。まるで、見えない何かが凍りつくような息を吐き、少女に近づいてくるようであったそうだ。
もはや、一刻も早く逃げ出したい気持ちを抑え、少女はようやく、片付けを済ませると、部屋を出ようとした。そして、音楽室の扉を開けた時だった。
急に背後から――。
「……誰かの歌声が聞こえたんだと」
少年が、いきなり大声を出して言った。すると、話を聞いていた少年達は「おお」とどよめき、少女たちは「きゃあ、こわーい」と悲鳴を上げた。夜彦だけが、むむむ、と顎の先を指で摘んだ。
暗闇から、歌声。
なるほど。それは確かに面妖である。
話をしている少年は周りをそっと見渡し、満足そうに一度笑うと、また話に戻った。
「もちろん、教室に人なんているわけないから、その女の子は驚いてそのまま逃げたんだってさ……」
そして、その奇妙な出来事に怯えた少女は翌日、吹奏楽部の部長にその話を打ち明けたそうだ。
闇の中から、誰かの歌声が聞こえた、と。
すると、その部長は血相を変えて、少女に音楽教室に伝わる恐ろしい話をした。
「何でもな、数十年前のことらしいんだがな、その教室で自殺した生徒がいたらしい」
少年が言うと、全員の顔色が変わった。
「じ、自殺した?」
穏やかでない言葉である。
「ああ、窓からの飛び降り自殺だ」
「……な、なんだってまた、そんなことを」
訊いた夜彦の視線と話していた少年の視線が交わる。
「その自殺した生徒ってのは合唱部の生徒でさ、毎日のように学校で歌を歌っていたそうだ。熱心な生徒だったらしくてさ、誰よりも練習しててな、いつかは歌手になるのが夢だったんだ。だが、不幸にも、あるとき、喉の病気をわずらったらしい。そのせいでろくに声が出せなくなり、将来に絶望したその生徒は……」
少年が意味ありげに言葉を濁らせると、その場の全員が息を呑んだ。皆がその先を想像したのだろう。
つまり、思い悩んだその生徒は、教室から身を投げて……死んだ。
「じゃ、じゃあ、その女の子が聞いたっていう歌声は……」
興奮した様子の一人の男子生徒がそう口走ると、話をしていた少年は力強く頷く。
「ああ、間違いない。その自殺した生徒の歌声だよ。きっと無念で成仏することが出来ずに、音楽室をさ迷い、毎晩毎晩、歌の練習をしてるんだ。歌手になる夢を捨てきれずに、な」
少年はそこで、一息つくと、
「でな、まあそういう感じでよ、吹奏楽部の奴らすっかりびびっちまって、しばらく放課後は屋上で練習することにしたって話だぜ」
「はあ……」
夜彦はぽかんと目を瞬かせた。
すると、話をしていた少年が、身を乗り出して夜彦に顔を寄せてきた。どうやら一人だけ反応の鈍い夜彦のことが気に入らないようだ。
「はあ、ってなんだよ。お前、怖くないのかよ」
「いやあ、怖いけどさ。実際どんなものか、その子見てないわけだろう?」
「あん?」
「その歌を歌うって幽霊さ」
「そりゃ、びびって逃げたんだからよ」
ふうむ、と夜彦は考え込む。
「正体不明かあ……」
そんな夜彦の様子をその少年はしばらく眺めていたが、ややあって、合点がいったように頷いた。
「お前、まさか、見に行くつもりじゃないだろうな」
「え?」
まさかの図星に夜彦はたじろぐ。
「い、いや、そういうわけじゃ」
「お前ならありえそうなんだよな。夜の校舎に居残って、とかさ。でも、やめとけよ」
「え?」
「そういう遊び半分でっていうのは一番まずいんだぜ」
幽霊に呪われるぞぉ。
少年がそれっぽく両手を上げると、それにつられて何人かの生徒が笑った。
しかし、夜彦はそんなことなどお構いなしに、こう思っていた。
こいつはもしかすると、
妖の仕業かもしれないな。
――――――――――――――――――――――――
妖――。
この世には、そう呼ばれる存在がある。
それは、闇を棲家とする者たちのことである。
彼らは人間の力を遥かに凌駕した者たちのことであり、人間たちが畏怖し、なるべく関わることのないよう、忌避する者たちなのだ。
いったいいつから彼らはこの世に存在していたのか、それは定かではないが、彼らという存在は古来より、人間と密接な関わりがあった。
怪異、妖怪、化物、物の怪……。
彼らの呼び名がこうして幾つも世に知られているように、彼らという存在が人々に大きな影響を与えていることは明白であるだろう。
人間が陽の者だとするならば、彼らは陰の者であり、互いの力によって、牽制をしあって生きてきた。妖が人を喰らうならば、人は光を持って彼らに対抗し、人が妖の領域に踏み込もうとするのならば、妖はその不思議な力によって彼らを怯えさせた。
人と妖が互いの領域を守り続けることで世界は安定し、この世は繁栄していたのである。人と妖は古より、切っても切り離せない存在なのだ。
しかし、
時代は変わった。
人類の技術は、今や日進月歩。
押し寄せる近代化の波は、世界から闇を切り取り、妖の居場所を根こそぎ奪い始めた。人々は夜でも昼間に近い快適な環境で生活をするようになり、その反面、妖の存在は消されていった。妖は人間たちの技術に対抗する術もなく、闇と光の境界線をじりじりと後退させていくしかなかったのである。
今や、人々の中では、もはや妖の存在を認めず、存在を否定し続けている者たちも多く出始め、古き過去の遺物として、馬鹿らしいと笑い飛ばしてしまう者もいる。
が、しかし。
妖は、今でも現代の世界に息づいている。滅びてしまったのではない。以前よりも遥かに勢力の規模は縮小してしまったものの。まだ確かに、この世に存在しているのである。
八守中夜彦は、その事実を知る数少ない人間たちの一人だった。
夜彦は昔から妖という存在に親しみを抱き、いつでも、彼らの話を聞くことが好きだったのである。
そして、夜彦は彼らの話を聞くと、必ず訪れる場所がある。今日も聞いたばかりの怪談を土産にそこに向かおうとしていた。
あの無愛想で、ひねくれもので、みょうちくりんなあいつに、その話を聞かせるために。
続きは二日後を予定しています。