其の二
校庭に植えてある桜の花もすっかり散って、世間は早くも、青葉の香る季節である。
夜彦の通う高校では、近づく大型連休に向けて、クラス全体が抑えられない期待感を膨らませているように見えた。
休みに入れば、山に向かうか海に向かうか、はたまた遊園地に、ショッピング。未だ見ぬ異国の地へと旅行に向かうのもいい。
そんな甘美な空想の中、生徒たちの顔は皆、輝きに満ちていた。
そして、その生徒たちの一員である八守中夜彦もまた、その例に漏れない一人である。
定期的にテストが待ち構えている鬱々たる日々とは違う、その沸き立つような非日常感に、八守中夜彦の脳内は麻酔を打たれたようにふわふわと高揚していた。
そして、その浮かれた気持ちからか、今日の夜彦はいつもと違うテンションで、授業中も落ち着かなかった。
うーん、何か、みんなが驚くようなことをしてみたい。
と、そんなとりとめのないことを、安易に思った夜彦は、思い立ったが吉日と、授業終わりの午後の休憩、自分の周囲にいる生徒たちに呼びかけると、自身の得意分野、怪談を披露することにした。
机の上に顎を乗せ、半分寝ているような目をしているような彼らを前にし、夜彦は周囲に埃が立つのも気にせず、椅子の上に足を乗せ、大声で啖呵を切る。
「いいか、よく聞け。この八守中夜彦が聞かせる怪談話をなあ!」
長閑な午後の空気が充満する教室内に夜彦の声はよく通る。最近は、葛葉にその子を「馬鹿声」などと罵られたこともあったが、それはそれで夜彦は気にすることもなく、いつものように声を張り上げる。
「今日聞かせる話しはなあ、聞いて驚くなよ。世にも恐ろしき、顔のない妖、のっぺらぼうの話だ!」
「のっぺらぼう?」
気だるい声で顔を上げた生徒が夜彦に言う。
「また古臭い妖怪だな。もっとかっこいい妖怪の話はねえのかよ」
すると、それに応じて、周囲も「そうだ、そうだ」と野次を飛ばす。
しかし、夜彦はそんな彼らに残らずギロリと睨みを利かせた。
「うるせえな。妖に古いも新しいもあるかよ。新機種を次々発売する携帯電話とはわけが違うんだよ。いいか? 妖ってのは昔から変わらず、それでいていつだって最先端で、最高に刺激的なのさ」
まるで、ステージから世間を風刺する歌を歌うロックスターのような気分で、夜彦は唾を飛ばす。
すると、その反応が面白かったのか、聞いていた生徒たちはやいやいとはやし立てた。
「ほう、そんじゃその最高に刺激的な怪談話を聞かせてもらおうか」
などといった煽り文句を飛び交う。
そいつはさぞ皆が飛びつくほど面白い話なんだろう? というわけだ。
ここまで言われて、今更引くのは男ではない。そう思った夜彦は、自信満々に頷いた。
「ああ、そんじゃ。話そう」
その宣言を聞いて、まばらな拍手が起きる。
夜彦が、喉の調子を整えるため、いくつか咳をして……。
「あれは数週間前のことだった――」
と、それっぽく語りだした。
その一方で――。
そんな夜彦の様子を、遠くから、ちらちらと眺めているとある生徒の瞳があった。
クラスの中でもずば抜けた成績の優等生として、その地位を築いている、井上良佳である。
彼女は、教卓に近い、比較的生徒たちから嫌われる席に座り、すらっとした綺麗な姿勢で佇んでいる。机の上に教科書を置き、静かにノートに目を通しつつ、次の授業の予習をしていた。それは彼女にとってごく当たり前の習慣で、連休前の休み時間だろうと、他の生徒たちのように、楽しい談笑に交わることはあまりない。
授業の内容はその日の内に完璧にマスターして帰宅する。だからこそ、そのために予習は欠かせない行動であり、それをしないと気持ち悪いくらいに良佳は思っていたのである。
しかし、今、彼女は、不機嫌そうに夜彦を睨み、耳障りな笑い声が聞こえてくるのを予習を中断して我慢していた。
彼の声が、彼女の集中力を削いでいるのである。
ああ、イライラする。
何なのよ、あの声……妙に馬鹿でかくて、癪に障るわ。
だが、同時に、良佳はそう思っていること事態が不思議だった。
なぜなら、普段もこうして騒がしい休憩時間に予習をしているのである。
いつもなら、気にしないはずの周囲の話し声がどうして今日は、こんなにチクチク刺さるのかしら。
ドクン、ドクン、と心臓が強く拍動している。奇妙な喪失感と共に、良佳の感情が、かき乱されていく。
すると、途端に力を込めて持っていたシャープペンシルの芯がぱきりと折れた。同時に彼女の中の堪忍袋の緒も、一緒に切断されたようだった。
もう、我慢出来ないわ。
両手を思い切り机について、良佳は立ち上がる。
そして、脇目もふらず、ずいずいと夜彦たちの方へ向かった。ぐっと机の間に割って入って、思い切り、夜彦を睨みつける。
驚いた夜彦の両目が大きく見開かれた。
「お、何だ?」
「何だ、じゃないわよ。夜彦君」
彼の鼻先に良佳は言葉をぶつける。
すると、その言動から、良佳のただならぬ怒りを感じたのか、周囲の生徒たちがざわつき始めた。これは面白いものが見れると期待しているのがよく分かる。
普段は、こんな風に良佳が急に怒り出すことはないので、その事実が彼らの好奇心を刺激したのだろう。
全く、みんなは単純なのよ。物事は楽しければいいわけじゃない。
しかしながら、良佳は攻撃を止めることなく、腰に手を当てて、鼻息荒く夜彦を見上げた。
「あのね、いくら休憩時間だからって少し騒ぎすぎじゃない? この教室にいるのは、あなただけじゃないの。もう少しその口を閉じて静かにしたらどう? 公共の場でのマナーは分かってるでしょう?」
「お、おお?」
「それに、椅子の上に足までのっけて。汚れるし、埃が立つじゃない。それが迷惑だって分かる?」
「な、何だよ。そんなに怒るなよ」
注意を真面目に聞いていない様子の夜彦に対し、良佳はさらにむっとした。
「怒ってるんじゃないの。基本的なルールを守ってないことを注意しているの」
これはかなり強めに敵意を込めて言ったはずだった。
しかし、目の前の夜彦は、攻撃が効いていないのか、素直に謝るどころか、なぜか、にやりと笑みを浮かべる。
「ハハハ、井上、お前素直じゃねえな」
「な、何がよ!」
「俺の怪談を聞きたいならそう言えばいいのにい」
と横肘で軽く突いてくる。
これには、良佳も呆れて口をあんぐりと開けた。
「い、一体どこをどう解釈したらそんな結論になった!」
「あれ、違うのかよ」
「違うわ、全然違う。大間違いもいいところよ! 『常識的』に考えて、そんなことありえないわ」
すると、夜彦はしかめっ面になった。うわっ、と不快な物を避けるように、表情を歪める。
「出た、またお得意の常識の話かよ」
「あら、常識の何が悪いの?」
良佳は首を捻った。
「他人に迷惑をかけずに、きちんと自己管理出来るようになるには、まず常識的な考えを持つことが重要だわ。こういうことをしたら誰に迷惑がかかるとか、危ないとか、そういう考え方が出来ないあなたは、それだけ、お子様、なのよ」
「お、おこさまあ!!」
その言い方が気に入らなかったのか、彼はキィーと悲鳴を上げる。先ほど違い、そこには確かな怒りがあった。
しかし、良佳はそれには怯まない。
「そうよ、大体ね、高校生にもなって妖怪だの幽霊だの、浮ついたことを言っていることが、あなたの精神的な未熟さを物語っているわ。そろそろメルヘンな世界とはきっちりお別れしなさいよ」
すると、今度は夜彦の顔がさっと青ざめて、ゆっくりと良佳の顔を指さした。
「な、何だと。井上、お前、まさか……」
「何よ?」
「お前、そういうものは全く信じてないって奴か?」
「はあ?」
思わず、笑ってしまうかと思った。
「夜彦君、それは愚問ね。答える以前の事だわ。幽霊だとか妖精だとか、そんな不可思議な存在はぜっっっっっったい、この世にはいるはずがないの!」
話している内にボルテージが上がり、二人の睨みあいがさらに強くなったことが周囲の野次を沸かせた。
どんどん面白いことになってきた、と思っているのだろう。
いいぞ、やれやれ!
とそんな声が飛んでくる。
正直、うんざりな状況だった。
私、何やってるんだろう。いつもは冷静沈着な生徒なはずなのに。
すると、目の前の夜彦が肩を揺らして静かに笑い始める。
「ハハハハハハ……」
「な、何よ」
一体、何がおかしいと言うのか。彼はもしかすると、頭のネジが一、二本ないのかもしれない。良佳は切実にそう思う。
「そうかそうか、分かったよ」
と夜彦は手を叩く。
「分かった? ああ、なるほど、心を入れ替えて、これからは真面目に将来を見据えて勉強に専念するのね」
「全然違ーう!」
ずばり、と夜彦が良佳の鼻先を指を向けた。
「俺はそのお前のネジ曲がった考えを正してやろうと言うんだ」
「は?」
「だから、お前に妖の何たるかを教えようと言うわけだ。お前に妖がこの世に存在していることを俺が証明してやろう」
「えっと、ねえ、申し訳ないけれど、ついに頭がおかしくなったの?」
「馬鹿言え、俺はマジに正気だ。それに本気だぞ。お前に妖を会わせてやろう。そうすれば、お前だって嫌でも妖の存在を認めるしかないだろう。なんなら勝負にするか?」
「……」
この展開は予想外だった。良佳は次の言葉に迷う。
一体どういうつもりなのかは分からないが、夜彦の勝ち誇ったような表情から察するに、彼は本気らしい。
そして、その勝負における、何らかの勝算もあるようだった。
良佳は首をひねって考えた。
まさか、本当に妖怪を連れて来れるわけがない。そもそもそんな存在はいるはずがないのだ。
それは断じて、そうなの、だが……。
しかし、この夜彦がこれほどの自信を持っていることが良佳を不安にさせる。
有りうるとすれば、彼は何か、良佳に対する巧妙な騙しを計画しているに違いない。
うん、ありえない話ではない。
世の中には、幽霊や妖精などの存在を信じさせるために、心霊映像や心霊写真を作る技術なども五万と転がっているのだから、彼がその一つを知っていたとしても、なんら不思議ではないのだ。
けれど、そうだったとして……。
私がそんなものにダマされるもんですか。馬鹿にしないでよ。
良佳は、心のなかで彼をあざ笑った。
「いいわ。その勝負、乗りましょう」
「おお!」
周囲にどよめきが起こる。
その瞬間、戦いの火蓋が落とされたのが、分かった。
同時に、しめしめ、という感じに、夜彦の口端が釣り上がった。
「本気だな、井上。逃げるなよ」
「ええ、じゃあルールを決めましょう」
「いいぜ」
「あなたは私に、その妖とやらが存在することを何らかの方法で証明すること。それが成功すればあなたの勝ち。出来なければ、私の勝ち。単純明快よ、ルールはそれだけ」
でも。
良佳は指を立てる。
「きちんと私が納得出来る証明が出来なければならないわよ。もし、ほんの少しでも、その存在が否定出来る余地があるなら、私の勝ち。分かるわね」
「いいぜ」
彼は余裕の表情だ。
それを見て、良佳は、彼が本気でルールを分かっているのか疑問に思った。
このルール、どう考えても私の方が圧倒的に有利よね……。
なにしろ、仮に、彼が妖らしき存在を連れてきたとしても、良佳はああだこうだと屁理屈をこね、適当に難癖をつければいいのだ。
そもそも、妖なる存在がどういうものであるか定義付けていないので、良佳の方は言いたい放題やればいいのである。
常識的に考えて、普通の人間ならば、こんな勝負を受けたりはしない。
本当に、どうなっても知らないわよ。
そう思っていると、
「ああ、それから……勝負となると、当然、バツゲームが必要だよな」
などとさらに自身を追い詰めることを彼は言い始める。
「バツゲーム?」
「ああ」
「……ええ、そうね」
少々驚きながらも、良佳は頷いた。
夜彦君、本気で勝つつもりなのね。いいわ、それならこっちもそのつもりで、本気で行かせてもらう。
「じゃあ、こういうのはどう?」
「何だ?」
夜彦が耳を傾けてくる。
「負けた方は、勝った方の言う事を何でも一つ聞くの」
「なるほど、そいつは面白いじゃないか。それくらいのスリルがなくちゃ、勝負は楽しくないもんなあ」
「でしょう? いい、後からあんな勝負はなかった、なんて言うのは却下だからね」
「ああ、もちろんだぜ」
やはり自信満々に夜彦は頷き、
「じゃあ、勝負は明日の夜九時に、学校で」
と、日時の指定をした。
「いいわ。私は特に予定はないし」
「ふふん、じゃあ明日だな。井上、俺の勝負を受けたこそ、絶対に後悔させてやるぜ。首を洗って待っておけよ」
良佳は、その夜彦が何気なく言った『首』という単語に一瞬、ひやりとして、
「それはこっちの台詞だっつーの!」
と、あかんべえをしてやった。