其の十一
「何者だあ? あんたら」
夜彦の目の前に立っていたのは、確かに話に聞いていた通りののっぺらぼうだった。目も鼻も耳もない、ちょうどむきたての卵のような顔をしたつんつるてんの男である。
その男がこちらに向けて、不思議そうに首を傾げていた。その仕草はまさに、普通の人間のそれであるが、一方で、その人物から漂ってくる並々ならぬ怪しい気配は、妖のそれであることが夜彦には分かる。
ああ、彼こそが待ち望んでいた妖だ!
夜彦の無邪気な心は浮き立った。
これがのっぺらぼうか。
確かに見れば見るほど、異様な出で立ちだ。
しかし、夜彦はその興奮を表には出さない。感情を抑えこむよう、夜彦は自分を律する。
葛葉の仕事の邪魔をすることは、いつだってタブーとされているのだ。
すると、不思議そうにこちらをキョロキョロと見ているのっぺらぼうに、横に立っていた葛葉が一歩、前に進み出た。
その頭部には――。
普段の人間の姿をした彼女には不釣合いな、ふさふさとした狐の耳が生えている。
夜彦にはその理由が分かる。
それはつまり、彼女が妖力を使うために、力の一部を開放していることを意味しているのだ。
彼女は機敏に狐の耳を動かして、のっぺらぼうのいる方へ向けた。どこか偉そうに腕を組みながら泰然と緩慢な動きで歩み寄る。
「私は、葛葉。この土地を監視する白狐だ」
「白狐、だって?」
のっぺらぼうは仰天し、びくんとその場で跳ねる。夜彦は彼がそのまま後ろにひっくり返ってしまうかもしれないと思ったが、そうはならなかった。
彼は驚きを内に引っ込めると、すぐに表情を輝かせた。
「白狐様、白狐様! うひゃあ、こりゃあ久々にお目にかかったぜ。縁起のいい日だなこりゃあ!」
と、葛葉が次の言葉を喋る前に、彼女にものすごい勢いで駆け寄り、ペコペコとお辞儀をしながら、握手を求める。
「どうも、どうも、おいらはしがないただののっぺらぼうですがね。どうぞ、よろしくお願いします。いやあ、こんなところでこんなにお美しい白狐様に会えるなんて、こいつは吉瑞ってやつかな。近いうちに何か良い事でもありそうだぜ」
のっぺらぼうに手を掴まれ、為す術も無くぶんぶんと上下に揺すぶられていた葛葉が堪らず悲鳴に近い声を上げる。
「こ、こら、わたしの話を聞け。私はただ通りかかったのではない。お前に用事があってきたのだ!」
途端、のっぺらぼうの動きが凍りつく。
「お、おいらに、用事?」
「そうだ。だから、そこの秋正との用事が終わるまで、店の外で待っていたのだ」
すると、彼はちっともそんな事など考えていなかったようで、すぐにパニックになったようだった。
両手で顔の表面を撫で回して、頭を揺する。その玉子のようなつるつるの顔におかしな感じにシワが寄った。どうやら案外、肌はたぽたぽしているらしい。
「お、お偉い白狐様が、何だっておいらなんかに……どんなご用件ですか?」
「うむ。実はな、私はお前が今置かれている窮状を聞いて、救済のためにここに参ったのだ。聞いたことはないか、私は幻門白狐という者だ」
すると、それを聞いたのっぺらぼうが奇声を上げる。
「げ、幻門白狐!? そいつぁ、いつぞや聞いたぞ!」
記憶を掘り返そうと、彼は頭を小突く。
「そうそう、何でも、幻妖界とか言うところから来たっていう……」
「うむ。その通りだ」
「はあ、やっぱり」
「それで、話を戻すが……」
葛葉は腕を組み直す。
「聞くところによると、お前さんは行き場を無くしているらしいな」
「へ、へえ」
のっぺらぼうは自分のために白狐が駆けつけてくれたことに恐縮しているのか、平身低頭する勢いで何度も頭を下げつつ話す。
「実は、おいら、ここんとこ人を驚かすことがちっともできねえで、毎日当てもなく町をふらふらしてるんですよお。最近じゃ、どこに行っても自分みたいな妖なんて相手にされねえ感じで、まるで商売にならねえんです。そいで、このままじゃ消えちまうってんで、かなり頭を抱えてたんで……まあ、白狐様が聞く価値もねえような情けねえ話ですよ」
恥ずかしそうにのっぺらぼうは頬をぽりぽりと掻く。葛葉はゆっくりと頷いた。
「そうか、お前も大変なようだなあ。しかし、わたしはそんなお前を助けるために今日は参ったのだ」
「とすると、白狐様は、何か名案があるんで?」
「ああ、簡単な話だ。私たちの住む世界に来ればいい。幻妖界と呼ばれているのだがな。そこならば、一先ずは安全だろうし、行き場に困ることはないだろう」
それを聞いたのっぺらぼうは両手を叩いて小躍りをする。
「そりゃありがてえ話だ。まさか、こんなところで助けてもらえるなんて、思ってもみなかったぜ。まさか、兄ちゃんが話をつけてくれたのかい?」
興奮気味ののっぺらぼうは背後を振り返り、今度はカウンター越しに秋正の手を握った。しかし、秋正には全く意味が分かっていないようで、目を点にしている。
それも当然だろう。彼にはこんな話は全くしていないのだ。
葛葉が続きを話す。
「まあな。その少年は私の友人だ。彼からいろいろ話を聞いてな。お前のもとに来たのだ」
「いやあ、助かったぜ。恩に着るぜ」
「それでは、のっぺらぼう。一応訊ねよう」
言いながら、葛葉は両足を開く。ビン、と後ろに伸びた尻尾に力が入った。バチバチと火花が飛びそうなエネルギーを感じる。
夜彦はそれが何を意味するか知っていた。
彼女は別世界、幻妖界に通じる門を開くための準備をしているのだ。
凛々と周囲の空気を揺らして、彼女の声が響く。
「こちらの世界に来るのか、どうするのか?」
「そうですねえ……もちろん、そうお願いしたい、ところですが……」
すると、意外なことに、そこまで元気溌剌な様子であったのっぺらぼうが急に声を落とした。ふいに、彼が何か迷っているような仕草を見せるのに夜彦は気がついた。
なぜか、ちらちらと秋正の方をしきりに見ているのだ。
そして、ついに意を決したのか、彼はすっと息を吸うと、
「せっかくのことですが、ここは、お断りさせてもらいやす」
そう言った。
明白に、言い切った。
「そうか。分かった」
それを聞いて、葛葉は尾を垂らす。張り詰めていた妖力は周囲に霧散していった。
しかし、夜彦にはその状況が信じられなかった。のっぺらぼうの発した言葉が、あまりにも予想外で、あんぐりと口を開けてしまう。
「え? ど、どうして?」
一体全体、こんな理想的な申し出を断ってしまうなどということがあるだろうか。今の今までどう見ても乗り気だったのに。
しかし、のっぺらぼうはどこか清々しい様子で首を振る。
「どうしてって、おいらは、この兄ちゃん見てて、ちょいと思ったんですよ」
のっぺらぼうは背後の秋正を指差した。
「思った?」
「もうちょっとだけ、頑張ってみようかなってさ」
「どういう、意味ですか?」
すると、のっぺらぼうは苦笑いをしながら答えた。
「おいらはね、のっぺらぼうってのは、ワンパターンな妖なんですよ。通行人を顔がないことで驚かせるなんてね。昔っから何も変わらねえ驚かしの手法でさあ。そいで、今まで妖として生きてきた。しかしね、ワンパターンてのは一番飽きられるもんだ。赤ん坊だって、おんなじことされてりゃいつかは飽きるように、いずれは廃れていく運命にある妖なんですよ。だから、最近はてんでダメで、もう、おいらも潮時かと思ってた」
「なら、どうして?」
「……だから、そこの兄ちゃんの御蔭さ」
「ぼ、僕の?」
秋正は驚いているようで、何度も目を瞬かせた。のっぺらぼうは頷く。
「そうさ、兄ちゃんのさ、ただひたすらうどんにかける真っ直ぐな姿を見てたらよ。ちょっとおいらも、心が動かされたわけさね」
「ふん、そうだな。それで毎日秋正を見に来ていたのか?」
そこで口を挟んだのは、葛葉だった。夜彦は思わぬことに目を見張る。
「え、毎日って!?」
「そうだ、夜彦。数日前の夜、わたしがこの店の前で妖の気配を感じたのを覚えているか? あれはこののっぺらぼうだったのだよ」
「え、ええ!!」
「あれから、わたしは気になってこの店を見張っていたのだが、こののっぺらぼうは毎晩、秋正の練習している姿を眺めているようだった」
「ははあ、さすが白狐様だ。そこまでご存知だったわけですね」
「ふははは……」
すると、褒められたことに気分を良くしたのか、彼女は高笑いをする。
「当然だろう。私は白狐だぞ」
しかし、夜彦にはそれが、彼女に手柄を持って行かれた気分になって、いい気持ちがしない。
「ちょっと待てよ。あれは、俺がパトロールしようって言わなかったら、知らなかったことだろ――」
「うるさい。黙れ!」
反論しようとしたが、ぴしゃりと彼女に言われ、夜彦は思わず首を引っ込める。
全く、この狐の少女ときたら……。
「そうですよ。おいらはねえ、この一週間、この兄ちゃんの練習姿をずっと店の外から見てきたんでさ。何だかさ、この兄ちゃんにうどんを食わしてもらってから、妙に気になってたんだ。この兄ちゃんがどこかおいらと似通ってる気がしてさ」
「ふむふむ……」
「でも、その理由がようやく分かったのさ。うどんにひたすら打ち込む兄ちゃんの姿はさ、おいらの若い頃にそっくりだったんだな。どうやって人を驚かせようか、がむしゃらに頭を捻ってたあの若い頃の自分とな」
だから、と力強くのっぺらぼうは言う。
「おいらも、この妖として、もうひと踏ん張り頑張ってみようかなって思えるようになったんですよ。もしかしたら、また人を驚かせるいい方法が見つかるかもしれない。そう考えることも出来ますしね」
「そうか。お前がそう思っているのなら、良いではないか」
「い、いいのか?」
少しも引きとめようとする気のない葛葉に不安になって夜彦は聞く。
しかし、彼女はそんな夜彦に逆に呆れたようだった。
「あのな、本人が良いというものを、無理に引き止めても意味が無いだろう。それくらいお前にも分かるだろうに。私の役目はただ可能性の道を示してやるだけだ。だからその道を歩むかどうかは、結局本人の意志に依存する」
そして、彼女はくいっと目を顔のない男に向けて、
「それで、のっぺらぼう。お前はこれから、どこに行くつもりなのだ?」
と、そう優しく問いかけた。
「さあね、そればっかりは白狐様、おいらにゃ、分からねえ。とりあえず、どこに行くのも風の吹くまま流れてくつもりさ」
それは頼りない言葉とは裏腹に、強い自信を感じる言葉だった。のっぺらぼうははくるりと振り返り、目の前の出来事に呆然としている秋正を見る。
「じゃあな、兄ちゃん。また会えるといいな」
と、手を振った。
そのまま、葛葉の隣を通り過ぎ、店の出口に手をかける。ガラリ、と開け放った戸の向こうから、ふわりと柔らかな夜風が舞い込んできた。その風に包まれるように、のっぺらぼうの後ろ姿が消えていく。
その様子を夜彦は見ていた。
彼は、もう、どこかへと行ってしまうのだ。もしかすると、ここには二度と戻ってこないのかもしれない。
しかし、その背中が消える一瞬手前で、
「またいつか、おいらが自信を取り戻した時には、この店に来てもいいかな」
何かを期待するような、そんな声が聞こえた。
すると、
一瞬の沈黙の後、
「ええ、もちろん」
はっきりとした返事が夜彦の背後から聞こえた。それは、自信に満ちた秋正の声だった。
「毎度、ありがとうございました!」
彼がそうして深々と頭を下げた後、
「くはははっ……」
そんな愉快気で、ぞっと寒気を感じるような声が、店の中に響いて聞こえた、ような気がした。
それから数日経った後だった。
いつもの夜彦たちが通う高校の教室でのことである。
清々しい春の日差しが溢れる窓辺の机に夜彦と向かい会って座る一人の少年の姿があった。
彼の名は秋正。
あの、のっぺらぼうと出会った少年である。彼はいつものように静かな表情で目の前の夜彦の話に耳を傾けていた。
「……っていうわけよ。だから、葛葉のことは内緒だからな」
秋正の親友である夜彦が話しているのは、数日前の夜のことの真相である。
あの時、唯一、葛葉の正体や、その他の事情を知らなかった秋正に対し、事の全てを話してくれていたのだ。
「そうか、葛葉ちゃんって、やっぱり人間じゃなかったんだ」
全てを知った秋正はようやく納得して頷いた。それで、あの傷を人間業とは思えないスピードで治してくれたのも、理解できる。
「何だよ、お前気がついてたのか?」
「いや……」
秋正は首を振る。
「ただ、なんとなく不思議な感じがする子だな、とは思っていたけれど」
「ふうん、お前って鈍感そうに見えて、そういうことには敏感なんだな」
夜彦は肘をついて顎を手の上に乗せ、斜め下から秋正を見上げていた。午後の授業を控えて、すでに眠たいのか、彼は大きなあくびをする。
それが、秋正には、あの豪快な笑いをしていた妖を思い出させてくれた。
「それで、葛葉ちゃんって、幻門白狐、だっけ?」
「ああ、そうだぜ。大雑把な彼女の言い方からすれば、人と妖のバランスをとる仕事をしている妖と言えばいいのかな」
「ふうん……じゃあ、その幻門白狐は他にもたくさんいるの?」
「そうだな……。俺は出会ったことはないけれど、大抵は、どこの町にもいるんじゃないか?」
「そうか。それなら安心だ」
そこでほっと息を吐いた秋正に、夜彦が訊ねる。
「うん、何がだ?」
「だって、それならあののっぺらぼうさんがどこに行ったとしても、きっと無事で、今も元気でいてくれると思うから……」
「……」
すると、ふいに夜彦が秋正を見ながら、沈黙したので、何事かと彼の方を見た。
彼は何か驚いているようだった。
「どうしたの?」
と聞くと、彼はぽかんとした表情で、
「いや、お前ってさ……そんな顔して笑うんだなって思ってさ」
そう言う。
そう言われてみれば――。
秋正は思う。
自分が、今、自然に笑っているような気もする。
「アハハハ……」
そう笑い出した秋正を夜彦がさらに不思議そうな顔で見ている。
しかし、秋正はそんなことは気にしない。
うん。
何だか、今日は気分がとてもいいな。
そんなことを思い、秋正は窓の外の雲ひとつない、空っぽの青空を見上げた。
一応、第二話はこれで完結です。
第三話は、一ヶ月後以降の更新となる予定です。それでは、また。