其の十
あののっぺらぼうと出会ってからちょうど一週間が経った日の夜のこと――。
優しい春の夜風の吹き込む調理場で、秋正は一心不乱にうどんの麺を捏ねていた。ぐいぐいと指にそれが食い込む感触を確かめつつ、リズムよく力を入れていく。
時計の針は、もう既に深夜の一時を回っていた。当然、両親は二階の寝室ですっかり寝入っている頃だ。多少、階下で物音がしたとして、怒られる心配はないだろう。
秋正は、準備を続ける。
今度は麺棒でうどんの生地を伸ばしていった。凹凸が出来ぬように均一に厚みを揃えていく。頃合いを見計らって、出汁の味もみる。
よし、これで完璧だろう。
もてなしの準備は整った。後は、彼の到着を待つだけだ。
そうして、軽く手の汚れを拭きとった時だった。
店の入口がガラリと開く気配があった。蛍光灯に照らされて、あのつるりとした顔がその入口の間からのそりと覗く。
「よお、兄ちゃん。約束通り来たぜ」
のっぺらぼうだった。一週間ぶりには見る彼は、以前と変わらず、草臥れたシャツを着ており、どこか怪しい雰囲気をまとっていた。
「いらっしゃいませ」
丁寧に腰を折って秋正は頭を下げる。
「お待ちしておりました。ご予約いただいておりました、のっぺらぼう様ですね」
そして、もう一度、お辞儀。
すると、おいおい、とのっぺらぼうは手刀を横に振った。
「よしてくれよ。何もそんな大げさにする必要はねえんだ。おいらはしがない小物の妖だぜ。それに、一度は兄ちゃんにうどんを奢ってもらったくちだ。そんなに畏まられると、こっちが恐縮するってもんだ」
しかし、そう言われようとも、秋正はこの態度を変えるつもりはなかった。こうすることで、自分が本気であることを秋正は彼に伝えたかったのである。
すると、その異様な雰囲気に呑まれたのか、おずおずとしているのっぺらぼうを秋正はカウンターの席に案内すると、調理場に向かった。麺を湯で、調理が済むと、それを待っているのっぺらぼうの元へ運ぶ。
静かに、器を置く。それと同時に、温かな湯気が立ち上り、麺はまるで秋正の自信を表すように、光り輝いているようにも見えた。
「どうぞ」
「こいつを食って、感想を言えばいいかい?」
「はい、お願いします」
秋正が頭を下げると、のっぺらぼうはそれからは何も言わずに、割り箸を二つに割ると、用意していたうどんを食べはじめた。
ふわりと舞い立つ出汁の香りと、ズルズルといううどんが滑っていく音。深夜の静寂がその場を満たした。秋正には自分たちを包む周囲の闇が固唾を呑んでその様子を見守っているようにも感じられた。
つるりとしたのっぺらぼうの顔には感情は見えない。目も耳も鼻もない。微笑んでいるのか、顔を歪めているのか、それも分からない。ただ、黙々と、うどんを食べていく。
これが、この妖というものか。
秋正はなんとなくそう思う。
そして、秋正は次第に雑念を埋める無我の空白が脳内に満ち、自身の意識が研ぎ澄まされていくのが分かった。のっぺらぼうの一つの動作がいやに気になる。果たして、自分のうどんは彼に認めてもらえるのか、否か、その結論の間で宙ぶらりんになった心細さが、自分をそうさせているのだと秋正は思った。
どれくらい経ったのか、のっぺらぼうが、箸を置いた。見れば、器は空になっていた。
ついに、その時が来たのだ。秋正は身構えながら、恐る恐る、のっぺらぼうの顔を見た。
すると、やはりその表情には、何も映っておらず、真っ白な鏡と対峙しているような心地になる。
「うん」
やがて、のっぺらぼうが声を発した。
「この前よりは、だいぶ良くなってるなあ」
「ほ、本当ですか?」
思わず、叫びそうになるのを秋正はこらえた。
「ああ、兄ちゃんのうどん、いい味してるぜ。これは十分評価に値するうどんだ」
そう言われた瞬間、秋正の中に彼に認められたことに対する喜びの気持ちが溢れた。この一週間の自分の努力は認められたのだ。頑張った甲斐があったのだ。
「しかしな……」
そこで、のっぺらぼうが言葉を付け足す。
「正直、おいらからすれば、まだまだひよっ子と言う感じかな」
「え?」
「以前と比べれば、かなりマシになったさ。でも、まだまだ、雑な感じは拭えねえ。素材をまだコントロール出来てない感じだな」
「コントロールです、か」
「……まあ、大丈夫さ」
不安気に眉をひそめる秋正に、のっぺらぼうはぽんと一つ、胸を叩く。
「兄ちゃんは、このまま地道に修行を続けてれば、きっといつかずげえ職人さんになるぜ。それは、おいらが保証する」
そして、彼なりの激励なのか、今度は出会った時のように、バシバシと肩を叩いた。
「だから、無理はせずに、これからも頑張ってくれよ」
「はい」
秋正は力いっぱい頷いた。もちろん、これでうどんの道を極めることが終わりであるなどと思っていたわけではない。
自分は、まだまだ未熟者だ。発展途上なのだ。
それを再認識できたことが、秋正には、なんだか嬉しかった。なぜだろうか、不思議だ。
これで、心置きなく、これからも頑張ることが出来るからだろうか?
「ごちそうさん。兄ちゃん。美味かったぜ」
のっぺらぼうが礼を言い、秋正も頭を下げた。
「ありがとうございます」
そして、顔を上げた時だった。
ふいに、秋正は不思議なことに、のっぺらぼうと“目が合った”気がした。
いや、確かに目が合った、のだ。
そして、目があったまま、のっぺらぼうは相好を崩し、微笑んだ。ように、見えた。
それは、ほんの一瞬のことだったが、秋正の目に焼き付いた。そして、次の瞬間には、その幻は消え、元通りののっぺらぼうの顔がそこにあった。
「おいらさ、兄ちゃんに会えて、よかったよ」
特に変わった様子もなく、のぺっらぼうはそう言う。
そして、彼がおもむろに立ち上がった時だった。
ガラリと再び店の戸が開いた。のっぺらぼうの動きがピタリと止まる。
その戸の向こうの闇から、二人の人物が現れたのだ。
予定では次回で完結です。