其の七
店を出て、しばらく道なりに歩きつつ、夜彦は顎に手を当てて、考えていた。
「うーん」
空を見上げたり、地面に目を落としたり、視線をふらふらさせつつ、考えている。そんなことをしているものだから、ふいに目の前に電柱が迫っていたので、慌てて避けた。
危うく正面衝突をするところである。
すると、その様子を見かねて、葛葉が口を出してきた。
「どうした、夜彦、何を柄にもなく悩んでいるのだ」
「あのな、それじゃ俺がいつも悩みがないみたいじゃないか」
夜彦が言い返すと、彼女はあっけらかんとした顔で、
「違ったのか?」
と聞き返す。そのいたずらっぽく白々しい様子がいかにも彼女らしい。
「おまえなあ……はあ、まあいいや。俺はのっぺらぼうのことを考えてたんだよ」
夜彦はそう白状した。
「なに? のっぺらぼうだと?」
「ああ、そののっぺらぼうってさ。俺はもちろん実際には見たことがないけれど、目も鼻も耳もいろいろ無いわけだろう?」
「そうだな」
「それって、生活をするのに、不便じゃないかって思ってさ」
「不便?」
葛葉は眉間にシワを寄せる。夜彦の話している意味がわからないという感じだった。
「いや、あのさ、葛葉。俺は考えたんだよ。その容姿ってのは人を驚かせるのにはもってこいの姿形だけど、のっぺらぼうだって、年がら年中驚かせてるわけでもないんだろう?」
「そりゃあな」
「人を驚かせるのは仕事、けれど、それを支える普段の生活が成り立ってなければ、人を驚かしているどころじゃないんじゃないかな」
そう疑問を呈する夜彦に葛葉はますます皺を深くする。
「何を言っている?」
何だか怒っているようにも見えた。今にもさっさと分かりやすく話せ、と鉄拳が飛んできそうである。
「だから、体にとって重要な役割を果たすパーツがなければ、生活が不便だろう。目がなけりゃ、前が見えないし――」
と、その途端、
「ぷっ、はははは……」
吹き出すように葛葉が笑い出した。状況が理解出来ない夜彦に、「全く何を言い出すかと思えば」と彼女は呆れながら言う。
「お前、さっきの秋正の話を聞いていたのだろう。のっぺらぼうが少しでもその体を不便がっているようなことを言っていたか?」
「え、ええと……」
「いいか、夜彦。あの者たちは、あれで生きていけるものなのだ。お前が心配するに及ばん。そもそも、あやつらはあのような姿で元々生まれついておるのだから、初めから不便も何もない。人間からの視点で妖の容姿についてあれこれ言うのは、意味のないことだ」
そして、そこで一度葛葉は言葉を止めてから、前を向き、
「それに、妖たちからすれば、よっぽどお前たちの体の方が生きにくいものよ」
「そういうものかなあ?」
と頭を捻った夜彦に対し、
「そういうものだ」
と葛葉はとても簡単に返事をした。
しかし、その割には、彼女は人間の姿を気に入って、人前である時以外にも、事あるごとに変化をしているように思う。全く、彼女はこういうところがいい加減なのだ。夜彦は思った。
そのまま、二人の会話は途切れ、無言のまま歩いた。空は黄昏時で、春のよく澄んだ青い空がじんわりと赤に染まっていく。町は次第に、昼の世界から夜の世界に移り変わりつつあった。
近道で公園の真ん中を突っきっていく。人影の途絶えた公園のブランコが揺れていた。すると、それに合わせるように、葛葉の綺麗な銀髪も風に乗って、ふわふわと揺れた。
それに見とれていると、公園の出口に差し掛かったところで、急に彼女が思い出したように口を開いた。
「ところで、私は秋正を見ていて、ふと思ったのだが」
「うん?」
「私はほんの最近の付き合いでしか知らないが、あいつは、昔からああなのか?」
「え?」
「だから、昔からあんなに、うどん馬鹿なのかと聞いている」
「馬鹿って……」
彼女は腕組みしながら真面目な顔で言う。
「あれは紛うことなき馬鹿だろう、夜彦。私にはあいつが四六時中うどんのことしか頭にないように見える。それを馬鹿と言わずなんと言う。もしくは、うどん狂いとでも言うか? 怪談マニアで変態のお前といい勝負だな」
「お、お前なあ」
「それで? お前は何か知っているのか?」
よっぽど彼女の発言に対して、夜彦は何か言い返してやろうかと思ったが、続けて彼女にそう聞かれ、タイミングを逸してしまった。もごもごと口を動かした後で、答える。
「……そうだなあ……あいつは、あいつはさ、昔から無口な奴だったよ」
昔のことを思い出す。あれは夜彦と秋正がまだ親密になる前の話だった。
京極秋正。
彼と夜彦が出会ったのは、小学生のころだった。たまたま進級時のクラス替えで一緒のクラスになったのを夜彦は覚えていた。
しかし、どちらかと言えばひょうきん者でクラスの仲間たちとつるんでよく遊ぶことが多かった夜彦と違い、秋正は、クラスの中でもあまり友人たちに相手にされるような人間ではなかったため、夜彦と秋正との間に当初は親交はなかった。
「こう、なんていうか、存在が希薄なんだよな」
夜彦は思い出しながら引っかかりながら語る。
「こんなことを言っちゃあいつに悪いけど、これと言った特徴もなかったし、物静かで、勉強も運動も中の中。パッとしないっていうか。俺も正直言って、最初は特に気にしていたわけじゃない」
「ふむふむ」
「学級委員に選出されるような人間でもなくてな、クラブで思い切り活躍できるような奴でもない。友達も少なかったみたいだったし、俺もあの当時、あいつとはこれから先もずっと仲良くなることなんてないって思ってたんだ」
「しかし、今は仲が良いではないか」
「そうそう、それにはきっかけがあったんだけれど……」
ある時のこと。
その転機が訪れた。それは、学校の授業、家庭科の調理実習の時間のことだった。グループに別れて、夜彦たちは、指定された料理を作ることになったのである。
「その授業でさ、うどんを作ることになったんだよ」
「ほう、うどんなあ」
「あの時のことはよく覚えてるけれど、うどんを作るなんて、普段やらないことだからかなり戸惑ったんだよな。俺だけじゃなくて、皆初めてのことだったみたいだし。けれど、そこで登場するのが秋正だ」
夜彦は調子よく指を鳴らす。
「あいつの家はうどん屋だろ。皆そのことは知っていて、あいつを料理長にして、うどんを作らせたんだ。そしたら、皆に大好評でさ。俺も食べたんだけど、学校の授業で作ったとは思えないくらい、上出来だった」
「ほほう」
「あの時の秋正の顔は覚えてるよ」
夜彦はそう言って、空を仰ぐ。ちょうど夕焼け空に、白い鳥が大きく両翼を広げ、気持よさそうに飛んでいくのが見えた。
「皆がおいしいおいしいっていってくれるのを、不思議そうにぼうっと見てた。目の前で起こってることが信じられない、って感じでさ。相変わらず表情はパッとしなかったけど、きらきら目を光らせてて、めちゃくちゃ嬉しそうにしてたのを俺は覚えてる」
それからさ。夜彦は言う。
「あいつが、うどん作りに熱中し始めたのは……」
夜彦には秋正の胸の内で、あの時以来、どのような劇的な変化が訪れたのか、全くもって知らない。しかし、少なくとも、あの時のうどんによって、秋正は何か、他者に対して、心を開き、積極的な考え方をするようになったことは間違いなかった。
もちろん、調理実習でのことがあってから、彼はクラスでも、時々話題に上がるようになり、次第に、クラスの人間が彼に話しかける機会が増えたこともその要因の一つなのだろう。
そんな中、夜彦も秋正に興味を持ち、彼とあれこれと語るうちに、彼は相変わらず、無口で、無表情な少年ではあったものの、だからといって、他者に冷たい人間でもなく、むしろ、優しい人間だということも夜彦は知ったのだ。
夜彦が彼に、あの時のうどんが美味かったと話すと、彼は何を思ったのか、次の日の放課後から、うどんの材料をこっそり学校に持ち込み、放課後に調理室で、うどんを作り、夜彦たちにふるまってくれたこともあった。
「なるほどな」
葛葉が頷いた。
「きっとあの頃から、あいつはうどんをつくることの喜びを知ったんだよ。確かに傍から見りゃ、うどん狂いってのもうなずける。でも、あいつは、糞真面目に誰かにうどんを食べてもらいたくて、いつも頑張ってるんだ。いつか、自分が店を任せてもらえるように、な」
「ふーん。興味深いエピソードだな」
「感動的、だろ?」
とにやりと笑いながら夜彦が聞く。
すると、彼女は小馬鹿にするような半眼で夜彦を見た。
「お前の話で感動することなどあるのか?」
「ああ、何しろ俺には天才的な話術があるからな」
「冗談はよせ。お前の話はいつだって退屈なのだ。私がそう断言する」
彼女は渋い顔を作って言う。そこからはいつもの夜彦が持ってくる怪談話にうんざりしている様子が窺えた。
「はあ、さいですか」
「まあいい。とにかく秋正についてはよく分かった」
気がつけば道はくねくねと折れ曲がり、前方で二つに分かれていた。そこが彼女との別れの場所である。片方の道は神社へと続いているので、彼女はそちらに曲がるのだ。
そこに辿りつくまでの少しの間、特に話すこともなかったので、夜彦は再び未だ見ぬのっぺらぼうに想像を巡らせることにした。
のっぺらぼうに会えるのは数日後か。
一体、事の顛末はどうなってしまうのか、どんな妖なのかを再び想像して、夜彦は心が浮き立つのを感じた。
そうしていた時だった。夜彦はふいに、面白いことに気がついた。
「あれ?」
「今度はどうした、夜彦」
面倒くさそうに葛葉が顔を向けてくる。
「いや、もしかしたら、あいつとのっぺらぼうって似てるのかなって」
「似ている?」
何をまた突飛なことを言い出すのだと、葛葉は片眉を釣り上げた。
「どこが似ているというのだ」
「いや、その二人が持っているものさ」
「持っているもの?」
「だって、のっぺらぼうには口しかなくて、あいつには、うどんしかないだろう?」
「ほう」
葛葉は少しだけ目を丸くして、驚いたようだった。
「な? な? そう思うだろ。もしかすると、今回の怪談は類は友を呼ぶってことわざを証明してるんじゃねえのか?」
「ふうむ。お前は……」
「何だよ」
「時々、ちょっぴり面白く、どうでもよいことを思いつくな」
「どうでもいいは余計だ」
夜彦は傍にあった小石を蹴飛ばした。