其の五
二階で眠っている両親を起こさないよう、秋正は店内の明かりを静かに付け、手際よく調理具を取り出すと、のっぺらぼうを席に座らせて、うどんを作る支度を始めた。
先程まではすぐにでもベッドに潜り込みたいほど睡魔に襲われていたはずなのだが、今はただ、この奇妙な状況に頭が混乱しているのか、目はすっかり覚めている。
さっそく調理に取り掛かるが、うどんが出来るまでの時間を待たせているというのも手持ち無沙汰にさせて悪いので、秋正は冷蔵庫にあった残り物の惣菜を取り出し、のっぺらぼうに差し出した。
「兄ちゃん、悪いね。いろいろ気を遣わせちまって」
のっぺらぼうは、ぐるりと店内を見渡した後、箸で漬物をポリポリと食べつつ、そう言った。
「いい店だなあ。こりゃあ、お客さんがたくさん来てくれるんじゃないかい?」
「そう見えますか?」
「へへ、おいらはさ、こう見えても、うどん屋に目がないのよ」
としみじみと言った後で、思い出したように、
「ああ、文字通り目はないんだけれどよ」
などと言う。
これは何かの冗談なのだろうかと秋正は思い、笑うべきか否か、迷ったが、なんとなく「そうですね」と返事をしただけだった。
こういう時どういう風に接したらいいのか、いつも秋正は迷い、中途半端なことをしてしまうことが多い。おそらく、周りに無愛想に見られるのも、こういう理由なのだろう。
しかし、のっぺらぼうはそんなことはどうでもいいのか、そもそも先程の言葉にユーモアの含みはなかったのか、構わず話を続ける。
「おいらはさ、さっき言った通り、妖だからよ。人を驚かすのが、言わば商売なわけさ。いろんなところを渡り歩いてさ、夜な夜な人を驚かすんだ」
「はあ……」
「まあ、昔っから、いろんな奴を驚かしてきたよ。別嬪な嬢ちゃんに、威張り腐った頑固じじい。兄ちゃんくれえの子供に、関取みてえな大男もおどろかしたっけな。あんまりビビってチビった奴も大勢いたもんだ……」
くっかっか。
大口を開けてのっぺらぼうは痛快に笑った。どうやら自分の武勇伝が披露できて、かなり気分が良いらしい。
「勢いがあるときなんてな、一晩で三十人くらいを驚かせるのはザラだったぜ。こっちの長屋でやったら、隣の横丁って感じでよ。あっちで女が叫べば、こっちで男が倒れるってな塩梅さ。おいらが行くとこ歩くとこ、片っぱしから悲鳴が上がるってなもんで、仲間内じゃそれなりに評判だったもんだ」
が、そこまで話して、急に我に返ったのか、萎むように彼は口を閉じた。
「おっと、いけねえ。いつの間にか自慢話に脱線しちまった」
とぽりぽりと頭を掻く。
「すまねえ、おいらの悪い癖なんだ。こんなこと、人間の兄ちゃんが聞いても楽しくねえ話だったよな、ごめんよ」
「い、いえ……」
「まあ、ともかくよ。いろんな奴を驚かして渡り歩くわけだから、いろんな店にも行くわけよ。そん中でもおいらは殊更うどんが好物でよ。新しい町に来れば、絶対にうめえ店を見つけに行くのさ。日本全国津々浦々ってな感じでな。ああ、もちろん、正体がバレねえように人間に変装してさ」
それを聞いて、秋正は麺を切る手がはたと止まった。
「そんなに、うどんがお好きなんですか?」
「ああ、そうよ。おいらのうどん好きは仲間内でも右にでるものはいねえと言われてるくらいだ」
のっぺらぼうは自信満々に頷き、秋正はごくんとつばを飲み込む。
つまり、それは、こののっぺらぼうが、それだけうどんに舌が肥えているということである。そう思ってちらりと冷や汗が垂れ、俄に手のひらに緊張が走った。
果たして、そんな人物に対して、自分の作ったうどんなどで満足してもらえるのだろうか。それなりに秋正もうどん作りについては修行を積んできたつもりではあるが、それ故に、自身がまだまだ未熟者であることも熟知している。だからこその不安が秋正の中に生まれていた。
だが、この場合、のっぺらぼうの方だって、ただうどんが食べたいだけで飢えを満たさればそれでいいのだろうし、上等なものを要求しているわけではないのだから、気にすることはないという考えもあるだろう。
けれど、それでも、一度意識してしまった以上はもはや、無視出来ない。さあ、いよいよ手の先が震える。
しかし、ちょっと待てよ。と秋正はもう一度頭を捻った。
それはもしかすると、これは、これまでの自分の修行の成果を見るためのいい機会ではないか?
何しろ、こののっぺらぼうは全国のうどんを愛し、またそれらを食べ歩いている、言わばうどんに関してはプロフェッショナルらしいのだ。
それは簡単には満足させることの出来ないうどん通であると同時に、裏をかえせば、いまいち自信を持てない秋正にとって、これ以上ないアドバイザーになってくれるかもしれない。そう思うと、秋正の目に力が入った。
しばらくして、完成したうどんを出すと、のっぺらぼうはうずうずしたように、手を叩いた。
「おおう、久しぶりだな、この匂い」
一瞬でも待てる気がしない様子で、割り箸を器に入れると、熱いままでうどんを啜り込んだ。
その様子を秋正は息を呑んで、見守った。
「あの、どうですか?」
つい、待ちきれずに、そう訊いた。
「おう、こいつはなかなか……うめえうどんだ」
のっぺらぼうは麺を切らずに、ずるずると吸い込んでいる。
「兄ちゃんが作ったんだよな」
「はい」
「その歳でこの味はてえしたもんだよ」
「おいしい、ですか?」
「ああ、うめえよ。こうつるつるっと食えちまう」
久しぶりのきちんとした食事だったのか、のっぺらぼうはとても嬉しそうだった。
しかし、秋正はそんなのっぺらぼうを見ながら、どうしてもさらに自分の評価を確かめてみたい気持ちになる。我慢できずに聞いた。
「これまで食べてきたうどん屋の中ではどうでしょう?」
「うん? それはどういうことだい?」
「僕の腕前を詳しく評価していただきたいのです」
すると、うどんを啜っていた彼の手が止まった。おもむろに顔を上げる。
「なるほど、正直にどれほどのものか、言えってかい? 確かにおいらは、味についちゃ、それなりに口うるさいつもりだが」
「はい、僕は将来、この店を継ぐつもりでいますから。正直なご意見を窺いたいのです」
「と言っても、そんな偉そうなことを……おいらは、ごちそうになってる身だぜ」
のっぺらぼうはそう言って遠慮しようとするが、秋正は首を振った。
「構いませんから、どうか、聞かせてください」
すると、この熱意には勝てないと思ったのか、のっぺらぼうは最後のうどんをずるりと吸い込んだ後、しばらく沈黙したまま、腕を組んでから、口を開いた。
「そうさなあ。正直な話、味について言いたいことはある。なんていうか、兄ちゃんのうどんはちょっと雑な感じなのさ」
「雑、ですか……」
何かしら批判めいたことを言われることはもちろん覚悟していたが、やはり面と向かって言われるとショックだった。
雑、かあ。
決して、そんな風に作っているつもりはないのだけれど。
「いやいや、別に作ってる動作が乱れてるとか、そういうことを言いたいんじゃないのさ」
「というと?」
「うめえうどんが作りてえって気持ちはさ、痛いほど伝わってくるのよ。おそらく、兄ちゃんがうどんに掛ける魂の熱さってのはこういうもんなんだろうってな。けどな、もちろんそれだけじゃうめえうどんは作れねえ。その魂の主張が強すぎて、いろんな素材がよう、好き勝手散らばっちまってるのよ」
のっぺらぼうは身振り手振りを交えて言う。
「ここにな、ホースがあるとするだろう。何もしないまま、水をだらだら流してみりゃ、水は下に落っこちるまでだ。しかし、こう、ホースの先っちょを指でつまんでみるとどうだい。勢い良く遠くまで飛び出すだろう。水の量は変わらずとも、力がまとまってるおかげだわな。うめえうどんってのは、そういうところが分かりやすいわけよ。こう、食った瞬間に心に味がぶつかってくんのさ」
「ハア……」
確かに、言われていることはよくわかる気がする。つまり自分のうどんは、その力が散漫になっているというわけだ。味の統率性がないということだろう。
「抽象的なアドバイスで済まねえな。しかしよ、うめえうどんってのはさ、作り方は一つじゃねえからよ。俺がここであれこれ細かく口を出しちまうのは、遠慮してんだ。それは兄ちゃんが修行する上での創造の芽を摘んじまうことにつながっちまうしな。まあ、兄ちゃんは若い。うどんの道を極めるまでにはたんまり時間があることだし、じっくりこれから、兄ちゃんの中で答えを見つけるといい」
それだけ言って、のっぺらぼうは箸を置いた。食べ始めてどのくらいだったのか記憶していないが、あっという間だった気がする。
ガタリ、と席を立った。
「済まねえな、兄ちゃん。こんな夜中に飯を奢ってくれてよ。迷惑かけたぜ」
「いえ、構いませんよ。これくらい」
「本当に助かったぜ。この恩は忘れないよ」
のっぺらぼうはぺこぺこお辞儀をしながら、先ほど入ってきた勝手口のドアノブに手をかける。
これで、お別れなのだろう。
しかし、そこで、
「あの」
秋正は堪らず、声をかけた。のっそりと、のっぺらぼうの影が振り返る。
「どうしたい? 兄ちゃん」
「まだ、これからも、この町にいらっしゃるんでしょうか」
訊くと、彼は少し顎を撫でて思案していたようだったが、すぐに、
「そうだね、おいら、当分行くべき場所を見つけられそうにないし」
そう言った。ならば、と秋正はたった今思いついたことを彼に告げる。
「でしたら、一週間後」
「うん?」
「一週間後、またここに来てくれませんか」
「ここへかい?」
「ええ、その時までに、新しいうどんを作っておきますから」