第三章 京都編その4 出撃せよ、鳥羽伏見
慶応三年十二月末の夜。忙しいさなかに土方は外の息を吸いに部屋を出た。
忙しいといっても手配するのは門松や料理ではない。槍刀に武器弾薬と防具一式という、戦の準備である。土方が手配する段階はとっくに終わっているのだが、なにしろ翌朝には屯所を出て、伏見奉行所近くの陣地に入る予定なのだ。こまごまとしたことはいくらでもあるし、時間はいくらあっても足りない。色々と細かい確認やらを言いつけた鉄之助も、朝から晩まで走り回っている。若者を深夜まで働かせたくないのが本音であるが、なかなか思い通りにいかないものだ。
「あーあ、とんでもねえ年の瀬だ」と呟いたところに背後から声。
「本当ですよねえ、よりによってこんな時期に戦だなんて、これじゃ仕事が何倍なんだか。
沖田である。あの夜以来病床に伏せがちであるため、今も寝巻きに一枚羽織っただけのあられもない格好である。痩せたせいもあって、単純に寒そうである。
「総司!お前……こんなところにいたら冷えるだろう、部屋へ戻れ」
肩を掴むと、記憶よりもずっと細い。顔を顰めるのは堪えたつもりであったが、総司は感じ取ったのか寂しそうに笑った。
「つれないなぁ、ちょっとくらい話し相手になってくださいよ」手首をつかんで離さない。すっかり細くなった指が手首に食い込む。
「……少しだけな」
「ありがとうございます」
この時期新選組が使用していた屯所は、西本願寺の一角に建てられており、大名屋敷のように広大なものであった。なにしろ道場や大浴場まであったというから驚きだ。沖田の部屋はその片隅にあった。ただの個室というより、隔離部屋の方が近いのだが。それでも風通しも日当たりも良い場所であったのは、近藤土方両名の計らいであった。
「とりあえず寝てろ」
「寝てたって治らないじゃないですか」
「治る、いや治せ。薬は欠かさず飲んでるだろうな?」
「もちろんですよ」
「こっちは?」
書き物机の上には手付かずの薬の包みがあった。石田散薬、土方の実家で作られている薬である。河童に作り方を教わったと口伝される妙薬であった。
「石田散薬は打ち身とか捻挫の薬でしょう?肺には効きませんよ」
「俺はこれしか飲まない、これで病気知らずだ。効いてるじゃないか」
「……そもそも熱燗で飲まなきゃ効かないって、薬としてどうなんですかね」
「うるせえ、つべこべ言うな」
沖田を寝かせて、自分はその枕元に腰を下ろす。
「久しぶりのお客さんだ。最近来てくれるのは鉄君くらいです」
「鉄が?……そうか」
あまり近寄るなと言いたいところであったが……土方自身も労咳を患った母に殆ど会えず、寂しい思いをしていた。どうにも強くは言いにくい。
「最近おかゆが作れるようになったんですよ鉄君。最初は強火なら二倍速くできると思いましたって焦がしてたみたいですけど」
「……バカだなあいつは」
妙に寒いと思ったら、窓が開いているではないか。病人に夜風は毒だ、閉めようと手を伸ばすと、沖田が止めてきた。
「開けといて下さい、たまに猫が遊びに来るんです」
「猫?」
「黒猫ですよ、最近仲良くなったんです。人馴れしてて、なかなか可愛いんですよ。最近はその子と鉄君しか遊びに来てくれません」
「黒猫だと?」
市中で猫は珍しくもないが、黒猫なんて見覚えがない。首を捻って、窓の隙間を半分だけ狭めた。
「どうですか?戦の準備は」
「大忙しだ」
「よりにもよって近藤さんが江戸に行ってる今なのはまた……大変ですねぇ」
「まあな…まあ、あの人の一番の仕事は出撃の声掛けみたいなもんだから、大差ないけどな」
沖田が少しだけ笑った。
近藤は情の厚さや実直な人柄から人望こそ集めるが、その分実務的なところは苦手である。配置や補給の手配は土方が請け負っていた。それでいいのだ、人望を集められない自分は、裏方でせこせこしているのが性に合う。出来ないことを互いに補えばそれで良いのだ。
「出世しましたねぇ、近藤さん。江戸のお偉方に呼び出されるだなんて」
「そうだな……日野の田舎モンが、よくここまできたもんさ」
そこは素直に誇らしい。確かに新選組の今までの手柄は大きいが、新選組に頼らねばならない程に幕府が苦しいという証明でもある。何しろ先日、幕府は朝廷に政権を返上している。言うなれば既に徳川家は、いち有力大名に格落ちしているのだ。はっきり言えば今回の戦、戦う前から旗色が悪い。
そんなことを知ってか知らずか、沖田はぼんやりつぶやく。
「暇ですよこれは。ただでさえ寝てて暇なのに、皆んながいなくなったらどうやって時間を潰せばいいんだか」
殺風景な部屋である。今まで稽古と市中見廻りに明け暮れていた沖田にとって、室内で有り余る時間を潰すのは苦痛であろう。かつて非番の時は市内の評判の店へ足を運んだり、近所の子供達と遊んでやったりしたものだが、労咳とわかってはそれも出来ない。
「……本でも読め」
「鉄君が持ってきてくれるんですけどね……屯所にあるの軍記物と兵法書ばっかりじゃないですか。義経の逆落としを何度読んだことか、あんまり降り慣れたもんで、次辺り鵯越に石段ができるんじゃないかとひやひやしてますよ」
「中身変わってるじゃねえか」
くすりと笑う。あまり派手に笑うと、咳を呼ぶのだ。
「……自分が恨めしい。何の役にも立てないなんて」
「言うな、まずは治せ」
「無茶を言う人だ……明日からですよね、及ばずながらご武運を祈ってますよ」
「心配いらねえ、俺は不死身だ」
「昔からずっと言ってますよねそれ。蛤御門の時なんて、耳元に銃弾が掠めてるのに動きもしないんだもの、心臓にどんな剛毛が生えているのかと思いましたよ」
「掠めたって事はもう通り過ぎた後じゃないか、驚いてやる必要なんかねえよ」
「うわ剛毛だ、犬の冬毛くらい剛毛だ」
「毛が生えているのは確定で生え具合の問題なんだな」
酷い言われようであるが、相手が病人であると、流石の土方でも小突きにくく、少し笑ってやるばかりであった。
「そりゃそうでしょ……それとも、今は本当に不死身なんですかね?」
そう言われて思い出した。懐に仕舞い込んだ皮袋の事を。
「そうか……そうだよなぁ。よし総司、早めのお年玉だ」
「え?どうしたんですか、毎年くれないのに?」
それでもしっかり手を差し出すのがこの男である。しかし、その手に握らされたのは、アイヌ模様の入った革袋であった。
「どういうつもりですか、これ?」
「飲め、不死身かどうかは知らんが、本当なら病気に効くかもしれん」
土方にとって新選組が我が子であるなら、近藤はその魂、沖田はその心臓であった。なにがどうあっても、死なれたくない。いいや……それは建前だ、純粋に失いたくない。
「これを持ってた坂本さんは死んでるんですよ?効かないんじゃないですか?」
沖田が苦笑いしながらつつくと、革袋がたぷんと揺れた。
近江屋事件の数日後、流れ弾に当たった中岡は一度意識を取り戻したそうだが、結局死んでいる。その彼も火の鳥などという与太話を言い残すことはなかった。つまり、この世にあの夜の詳細を知る者は誰もいないのだ。
「飲まなかったんだろう、お守りにしてたじゃないか」
「土方さんが飲んでくださいよ」
「俺はもう飲んだ。マズ過ぎてその場で二回死んだ」
けろりと言い放つ土方に沖田は吹き出し、少し咳き込んた。苦しむ沖田の背中をさすってやる……掌がやすやすと背骨を探り当てられるのが辛い。
「適当なことを……とにかく嫌です、鳥の血なんて気持ち悪い」
沖田が子供のようなことを言い出すのはいつものことであった。しかし土方はそうはいかない。始まる前から旗色の悪い戦場、近藤の不在、更に日に日に弱る沖田とあっては、彼もいつまでも冷静さを保っていられなかった。
効くかどうかは二の次であった。とにかく少しでも希望が欲しかったのだ。
「いいから飲めって言ってんだ、馬鹿野郎!」
「イヤです!いーやーでーすー!」
駄々をこねる沖田を力任せに押さえ込む……押さえ込めた。押さえ込めてしまった。かつての沖田ならば、土方が力任せに押しても、最低限の力でするりと抜け出る巧みな技術があった。だが今は、その最低限の力さえ出せていないのだ。
「……すまん」
それがわかってしまった土方は目を伏せ、背を向けた。少しだけ粗い沖田の呼吸だけが聞こえることしばらく。
「土方さんがもらったんですから……土方さんが持ってなくちゃダメですよ」
力なくそう言ったのが聞こえる。土方は振り向かないまま手近の手ぬぐいを拾い上げ、火の鳥の血を半分染み込ませた。
「これをやる。これは俺がお前にやったもんだ、お前が持ってろ……やばいと思ったら、飲むでもしゃぶるでもすればいい」
血の染み込んだ場所を内側に折り込んで、枕元へ置いた。
「強引だなぁ、人の形見を」
「それで生きててくれるなら、軽いもんさ。坂本だって勝手に俺に半分くれてるんだ、俺が同じことしてもいいだろ」
「……考えときます」
「俺が強引ならお前は強情だ……いいな、死ぬなよ」
「戦に出る方にそれ言われちゃ、こっちはどうすりゃいいんですか」
「口数の減らねえやつだな」
やれやれと肩を竦める土方の手に、すうっと沖田の手が重なった。薄く、乾いた手のひらを、土方は優しく握り返した。
「土方さんこそ、ご武運を」
しっかりと目を見て頷いた。まだ、沖田の目は死んでいなかった。
これ以上は互いに辛くなるだけだと察し、土方は部屋を後にした。ギリギリ猫が入ってこれる隙間を開けて。
一人になった沖田は力なく微笑んだ。
「困ったなあ……鬼にあんな顔させちゃって」
ごろりと寝返りを打つと、目の前には赤黒く染まった手拭いがあった。
「嫌だなぁ、血の味なんか自前だけでこりごりなのに……」
目を閉じて、弱弱しく嘆息した。
翌日の戦場のことである。
「鉄よぅ」
「はいッ、何でしょうか?」
ぼやくような土方の物言いに威勢よく答えたのが市村鉄之助である。土方の半分にもいかぬ少年であるが、それでも少々小柄だろう、短い眉と赤茶けた短髪のせいか、子犬のような印象のある若者であった。
「武運……ってなんなんだろうな」
土方の苦い顔に、鉄之助は首をひねった。
「そりゃもちろん、手柄を立てたり……無事に帰ってきたりではありませんか?」
「そうだな。じゃあ俺たちは今武運に恵まれてるんかね」
土方は戦場の片隅で苦い顔をしていた。鉄之助のいう事は間違っていない。しかし、大砲の発射音がやっと聞こえる程度の場所で、殆どを市街の警備に割くことになったこの状況は、何なのだろうか。偶発的な小競り合いこそあったものの、少なくとも、土方の望んだ戦場ではなかった。
「運がいいのか悪いのか……」
「ですが少なくとも……副長の無事を、ご家族は喜んでくださいます」
「そうだな。悪い、気ィ使わせたな……そうだな、暴れるだけが華じゃねえ、な」
苦い顔の土方を察して、市村は話を切り替えた。
「西洋の武器というものは、そんなにすごいんでしょうか?」
「相当だな、とんでもない」
この時期「新政府軍」と名を改めていた薩長軍は装備を西洋式に一新、三百年ほぼ停滞していた日本の軍事を置き去りにしていた。
「まずは大量に配備されたエンフィールド銃。幕府では精鋭部隊なら同じものを持っているが、まだまだゲベール銃やミニエー銃も多い。エンフィールドは他の三倍近い射程と高い精度がある。その上装填も速いと来たもんだ、まともに撃ちあえん。勝負になるモンの数と質では押し返せん。
大砲はもっとひどい。アームストロング砲とか言ったかなアレは。砲弾を後ろから込める方式だから、とにかく撃つのが速い。それも厄介だが、砲の内側に彫ってあるらせん状の溝がすごいそうだ」
「溝……ですか?」
「砲弾と螺旋が触れてるだろう?この後ろで火薬が爆発すると、摩擦で砲弾が回転し、きりもみしながら飛ぶそうだ。そうすると発射精度と射程がぐんと伸びるんだ」
「回転で……ですか?」
「あー……硬い芋の煮っころがしに箸が刺さらないとする。でも箸をぐりっと抉ると刺さりそうだろ?力任せにやるよりも正確に。大雑把にはそんな感じだ」
「なるほどッ!……ですが、それでは勝ち目が……」
「焦るな。分は悪いがゼロじゃない、銃の装填は消せない隙であるし、大砲が重いのは変わらん。ここが見渡す限りの平野ならお終いだが、ここは違うよな」
「そうか、身を隠して近づくんですね」
「そうだ、可能なら撃たせてから回り込み、近づく。もちろん難しいし、陣を組んでの集団戦法ではないが……入り組んだ京都の路地を知り尽くした新撰組なら、やってやれないことはない。
連中の服装も理にかなっている。最初はみすぼらしく見えたもんだが、ありゃ軽くて動きやすいようだな。身を隠すには結構だが、俺たちならその上からバッサリ斬れる。どうだ、何とかなり方だろ?」
「ハイッ!」
目を輝かせる鉄之助であるが、土方はこれが机上の空論に近い理想論だとわかっている。ある程度数が拮抗していれば潜伏しながらの遊撃線も不可能ではないだろうが……残念ながらこの戦争では、幕府軍一万六千に対して、圧倒的な装備に身を固めた新政府軍三万人が攻め込んでいるのだ。
戦力差もそうだが相性が更に悪い。幕府軍の多くの戦術は、陣を構えて撃ちあい、やがて白兵戦に待ちこむという従来の集団戦法である。対して新政府軍のイギリス式は陣を構えるというところだけは同じであるが、その後は圧倒的な火力を浴びせ続けて持久戦に持ち込むライン戦術である。銃は一斉射で終わりという前提で成り立っている日本の戦術では、いい的である。
「まあ、それでもお前にはまだ早い。本格的な戦になったら、お前は隠れて見てろ。俺が斬り込んで大砲奪ってやる」
「ハイッ!勉強させていただきます!」
虚勢である。新政府軍の戦術は、市街地の集団戦法に長けた新撰組の天敵である。しかし、それで恐れるような情けない姿を市村に、武士を語り継ぐ世代に見せたくなかった。愚かなハチの巣になろうとも、せめて勇敢に死ぬことを選びたいのだ。
しかし、結局本格的な会敵がないまま、幕府軍は見事なまでに潰走。見る見るうちに京都を追われ、大阪へ押し込まれることとなった。その直前、土方が切り出す。
「鉄、一つ頼まれてくれ」
「ハイッ、なんですか?……土方さん?」
鉄之助が顔をのぞき込んでくる。いかん、これからする命令の意図を、隠さねばならない。
「屯所へ行け」
「えッ?……どうしてです?大阪城へ行くのでしょう?お供します!」
鉄之助は本当に表情が豊かだ。お預けを食らって怒りだす犬のような顔をするから、ついつい困らせてやりたくなる。だが、今日はそんな場合ではないのだ。
「それもいいが、総司が心配だ。今のあいつじゃ、走って身を隠すこともできん。お前に任せる、いいな?」
見る見るうちに鉄之助の顔が曇る。二人は歳が近いせいか、兄弟のようにじゃれ合うこともあったし、総司が剣の稽古をつけてやることもあったのだ。
「わッ……かりました」
不服そうではあったが、何とか肯いてくれた鉄之助に、土方は微笑んでやった。
「すぐに戻る。いざとなったら総司を背負って……走れよ」
逃げろと言わなかったのは、精一杯の強がりであった。
さて、口が裂けても鉄之助には言えないが、土方にはここから幕府が勝てる未来がどうあっても見えず、顔をしかめた。
「大阪城は縁起が悪い」
大坂城は単体で見れば難攻不落の巨大城塞であるが……そもそも町中という立地が城に向いていない。為政者の居城としてはいいかもしれないが、戦場としては向かない。
元も子もないことを言えば、籠城する時点で旗色が悪い。
籠城する側が勝つためには、原則以下の三つの要素の組み合わせが欲しい
一つは城にこもって相手の疲弊を待つことだ。城内には備蓄も居住施設もあるが、攻める側は基本的に野宿を強いられる、つまりは消耗戦をしかけるのである。もう一つは外部からの援軍だ。攻め手を撃退できなくてもいい、後方支援を断ち切るだけでも、軍はあっという間に干からびていく。最後の一つが、この二つが揃ったうえで城から打って出る。攻め側に特殊な事情でもない限り必須と言っていいだろう。
だが大阪は天下の台所である。交通、物流の便は江戸に次ぐ規模で発達し、しっかりした建物も多い。後方支援も居住も、環境が良すぎる。攻める側に苦しい持久戦を強いることができない。更に言うならば、幕府に援軍を出すような藩は、とっくに戦力を出しているのが現状であるため、援軍は望めない。
これだけでも十分旗色が悪いというのに、極めつけはここが大阪城という事だ。二百五十年ほど前、大坂夏の陣で豊臣秀頼は最後の最後まで打って出ることはなかった。ギリギリのところで出撃していれば、豊臣方は最後の抵抗ができたかもしれないし、可能性は低いが滅ぼされずに大幅な改易で済んだかもしれない。
その大阪城に今、十五代将軍徳川慶喜がいる。単純比較はできないが、おそらく今は、夏の陣よりも旗色が悪いだろう。言ってしまえば大阪城は、築城以来一度も勝ち戦がない。ましてや大将が徳川家康の末裔とあっては、城も見放すだろう。
「ふぅん。あれが将軍か」
この日、土方は初めて将軍を目の当たりにした。とは言っても、大阪城で開かれた軍議の末席の末席、招かれてもいない立ち見同然の外野からなので、豆粒のようであったが。
上品な顔立ちのようであったが、他の印象はなかった。諸将の報告も聞いているのかいないのか分からない。軍議をまとめて戦略を打ち出す様子もなければ、檄を飛ばす事すらない。極めて冷静に、何かを考えているようであった。御大層ではあるが、この様子の大将に兵がまとまるとは思えない。結局、徹底抗戦なのか、あるいは有利な条件を引き出すまで籠城するのか……それすらも固まらず、大阪城内は大混乱であった。そんな喧噪の中。土方はうっすらと、城を枕に闘死することを考えていた。
しかし、現実は残酷であった。彼らの命など、慶喜の頭には最初から入っていなかったのだ。
「ああ……そんなこと考えてやがったのか。道理で上の空なわけだ」
慶喜は籠城もせず、夜闇に紛れて大阪城を離れ、船で江戸へ向かった。打って出るどころか、留まりすらしなかったのだ。すでに朝廷は新政府に錦の御旗を授け、戦場に掲げている。これに刃を向けるということは、自らを逆賊であると証明するのと同一である。尊王思想の強い水戸藩で育った慶喜は、逆賊呼ばわりに耐えられなかったのだろう。だが、前線はそれで納得できない。
「逃げやがった……一万六千人の忠義を捨てて……」
土方はあえて「逃げた」と吐き捨てた。一万六千の将兵が戦い、傷つき、それでも幕府を見捨てないのは忠義があるからだ。慶喜は一万六千人の忠義と、自らが逆賊呼ばわりされることを天秤にかけ、自らの名誉を選んだのだ。
「俺たちが死のうが生きようが、将軍サマはどうでもいいのか?」
徳川家の存続だけを考えるなら合理的な判断と言える。しかし他にやりようはなかったのだろうか?将兵にそう告げても良いし、新政府軍と交渉するも、極端に言えば投降しても良い、秘密裏に大阪を離れるにしても、置き手紙の一つも残せないのか。それらを全て差し置いて江戸へ逃げ帰った。これでは、いくらなんでも戦場に、この激動の時代に幕府を守って散った者たちが浮かばれない。何の為に戦ったのか、分からないではないか。
「俺たちは、とんだ虚構に仕えてたんだな……」
結果的にこの数日間、ほとんど何もしないで負けるという、あまりにも苦い負け戦を喫した。新選組はその数日後、そのまま京都に戻ることなく船で江戸へ向かった。だが、行き先を失った忠義の方が、よっぽど重傷であった。
「良かった……鉄を屯所へ帰して……」
武士の頂点である将軍が、一万六千人の配下を見捨てたという事実。それが白日の下に晒される瞬間を、鉄之助に目の当たりにさせずに済んだ。それだけが、土方の喜びであった。