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第三章 京都編その2 近江屋、その夜

 京都・河原町通の醤油屋に一軒の店がある。その店は由緒正しい醤油屋であったが、同時に土佐藩浪士の潜伏先として使われており、海援隊の関係者がよく出入りしていた。慶応三年十一月十五日、夕刻。竜馬はその『近江屋』にいた。

「あー、なんか今日は冷えるのう」

「おや?いつものガラス玉の腕輪はどうした?」

 火鉢で手を炙る竜馬に声をかけたのは、火鉢を挟んで向かい、書類を片付けている男である。

「ああ、革紐が切れてしまっての」

「縁起悪いな」

「やめちくれ」

 力強い目つきと鼻っ柱が特徴的なこの男、竜馬の盟友、中岡慎太郎である。竜馬が「海援隊」で輸入した武器を、陸路で各地に振り分ける「陸援隊」を取り仕切る重要な立場であった。

「こう寒いとコーヒーが飲みたいのぅ」

「お前は寒くなるといつもそれ言うよな。なんだっけ?勝海舟の影響だったか?」

「そうじゃ、アメリカの豆茶じゃ。震えるほど苦いが、砂糖を入れるとうまい」

「アメリカの豆茶ねえ。よく知らんが……イギリス経由でも入るだろ」

「ほうじゃのう、グラバーさんに頼んでみるか……面倒じゃのう、あの人一回顔合わせると話しが長いんじゃ」

「ノォォーウ、リョウマサンには負けマース!」

 不意を突いた中岡渾身のグラバーのモノマネに、竜馬は声を上げて笑った。

「似とるのう!お前そんな特技あったがか?!」

「あんな強烈な人、一回見たら誰でも覚える。異人はみんなああなのかと思ったが、あの人は特別に変だな……しかし腹減ったなぁ、遅いな藤吉」

 鍋にしようと付き人の藤吉を買い物に行かせたのだが、随分時間がかかっている。

「あいつ食うからのう……十羽くらい買って来るかもしれんな」

「八羽分食わせりゃいいさ」

 わははと笑ったところで竜馬はふと我に返った。

「中岡、おんし、グラバーさんと会っとったか?」

「ああ……この前偶然な。見識が広いが、同時に恐ろしい男だ……いや、恐ろしいのはイギリスかもしれんな」

「ほうじゃな」

「このままでは日本は滅ぶ。それこそ……不死身の軍勢でもなければ」

「!?」

 竜馬の顔が引き攣った。海援隊の者にすら火の鳥の話はしていない。中岡がこれを知っているなら、グラバーに吹き込まれたか。

「俺は悲しいぞ、竜馬……不死身の力、回天を成し得る強大な力を、なぜ今まで黙っていた?」

「誰も信じぬわい、そんなもの」

「グラバーが信じれば話は別だ!」

 中岡の声がきぃんと反響する。竜馬はちらりと足元を見た。中岡は書き物の為に外した刀を、屏風の向こうへ追いやっていた。すぐには抜けないだろう。まだ交渉の余地がある。

「何か知っているんだろう?どこにある?それとも、もう使ったのか?」

「ここじゃ」

 懐から出してその場に置いたのは、あの日の瓢箪である。くびれには、紐が切れたタマサイが括り付けてあった。

「そうか、てっきり飲んだのかとばかり」

「お守りとして貰ったのでな、どうにも飲む気がせん。それよりも、いっそ万能薬でも作れんかと思っちょる」

「そんなものは平和になってからでも間に合う」

 一蹴である。

「じゃが……効果は誰も知らん。万が一本物でも、日本では不死身の軍勢なんぞもてあます」

 それならそれで使い道はある。売り飛ばすなら、偽物の方が好都合だ」

 中岡の表情は硬い。激情家だが堅実であるこの男には、偽物の使い道があるようだ。

「十万両引き出してみろ……軍艦が手に入る」

 この時代における軍艦は戦略兵器である。存在するだけで一国の勢力均衡を崩しかねない、文字通りの切り札である。

「軍艦一艘でどうするがじゃ?グラバーの信用に傷をつけて、技師の協力や調練が滞れば、でっかいでくのぼうじゃぞ」

「それでも幕府は揺れる、風前の灯だ」

「焦るな中岡。揺れる程度で倒れるほど幕府は甘くない、一隻や二隻ではなんにもならん」

「甘いのはお前だ竜馬!幕府も西洋化を進める今、ここで追撃の手を緩めてはいかん」

 中岡は元々勤皇党員である、これくらい過激な討幕思想を持っているのは当たり前だ。だから火の鳥のことは黙っていた。だが、グラバーは最悪のタイミングでそれを知らせてしまったようだ。

「そうやって日本を焼き払う気か?焼け跡を我が物顔で歩くのは異人じゃ、みすみす漁夫の利を与えてどうする?」

「なら幕府を残せというのか?」

「そうではない、残すのは日本じゃ!その頭が幕府だろうが王政だろうが大差ないじゃろう!」

「ほたえな!」

 中岡が一層声を張り上げると、奥のふすまががらりと開き、陸援隊の者たちが十数名入って来た。既に刀を抜いている。

「中岡……」

「竜馬、瓢箪をよこせ。今なら間に合う」

「お前はウソが下手じゃのう。そう言うのは、こうなる前に言うもんじゃ」

 からりと笑う竜馬であるが、頬には冷や汗。握られた拳銃は天井を向いている。

「恐れるな、どうせ空砲だ」と言いかけたところを銃声が掻き消し、天井の一部がバラバラと降ってくる。

「あいにく今日は実弾じゃ」

 銃口で牽制しても、陸援隊はじりじりと包囲の輪を狭めてくる。

「坂本先生!どうしましたか?!」階下からどだばたと駆け上がろうとする重い足音が聞こえる。買い物を済ませた藤吉だろう。

「来るな!藤吉逃げろ!」

 龍馬のその声に痺れを切らした者が斬りかかってくる。

 一人目を躱し、二人目は蹴り上げた屏風の死角に紛れてすり抜け、三人目は転がってなんとか避ける。起き上がりを狙った打ち込みを、銃身で受け止めてーー横滑りした刃が額に食い込んだ。

「がぁ……ああっ!」

 蹴り飛ばして距離を取る。傷口から溢れる血が視界の半分を赤く染めた。

 そこから先は乱戦であった。物を投げつけ、あるいは拳銃で足下を撃って、どうにか袋叩きを避けながら逃げる機会を伺う。如何に人数が多かろうと、狭い室内で壁を背にすれば一度に襲いかかるのは多くて3人、捌けない人数ではない。

 流血がひどい、それほどの深手かと額を触ると……手に白い液体がついている。脳漿である。最初の斬撃は、既に致命傷であった。脳をやられた、もう長くはない。

「ふふふ……」

 不意に笑いを漏らす竜馬に、包囲網がたじろぐ。

「石川……ないか?見当たらんか?」

 石川は中岡の変名である。脳の損傷による錯乱が始まっているのだろう。

「ここじゃ、瓢箪はこっちじゃ」乱戦の中、竜馬は瓢箪を拾い上げていた。口で栓を抜くと声を張り上げる。

「さあさお立ち合い、ご用とお急ぎでない方はゆっくりと聞いておいで。手前、ここに取り出したるは不死身の妙薬と言われる火の鳥の血じゃ。

 鳥と申してもそこらの鳥とは鳥が違う、遠く離れた蝦夷の地で、破壊と再生を主る神の鳥よ」

 昔どこかでみた蝦蟇の油裏の口調を真似しながら瓢箪を見せつけるようにぐるりと一周睨みつける。彼らの目的は瓢箪だ、これを盾にすれば時間は稼げる。だが、稼いだところでこのままでは竜馬に残された時間がない。ならば最早、最期の望みに賭けるしかない。約束を破る時が来たのだ。

「さあお立ち合い、今日は特別じゃ。不老不死の妙薬、その力が誠かどうか、ご覧入れよう」それを聞いて我に返った中岡が叫ぶ。

「いかん!止めろ!」

 しかし時既に遅し、竜馬は中身を一気にあおる。鉄臭さとカビ臭さの両方を無限に濃縮したどろりとした液体を、吐き気と嫌悪と一緒に飲み下す。視界の片隅で火鉢の炎が揺れ、一瞬だけ翼のようにはためいたのが見えた気がした。

 押しかける陸援隊の刀が、ところ構わず竜馬を串刺しにする。壁を背にしていた竜馬は避けられず、幾つもの刃が自分を貫通していくのがわかった。

「か……かははは……」

 いつもと同じようにからりと嗤ってみせると、数人か青い顔をしてのけ反る。

「そんなもん……き、効か……ぐほッ!」

 やっとのことで絞り出したセリフであったが、後追いの盛大な吐血に息を詰まらせ竜馬は崩れ落ちた。同時に銃声。手から離れた銃が床に落ちた衝撃で暴発、弾丸はいずこへ跳ね返って中岡の後頭部を捉えた。

「中岡っ!」「流れ弾か?」「血を止めろ、医者を呼べ!」と大混乱に陥る陸援隊の足音が響く。うわごとのような竜馬のつぶやきは足音にかき消され、誰の耳にも届かなかった。

「カピウ……すまん、使ってしもうたがじゃ……」

 竜馬の意識はそこで途切れた。


 手拍子、口琴、弦楽器。辺りを彩る楽し気な歌や踊りに、カピウの気分は踊った。これは一体何の祭だろうか?

 キムンコルの姿を探して驚いた、父が笑いながら酒を酌み交わしている相手は、首から上がヒグマではないか。びっくりして辺りを見渡すと、刃物であったり、鳥や魚であったりと様々な姿の参加者がいた。ひげを蓄えた男や、美しい女もいるが、カピウはそれが太陽や風が姿を変えたものだと理解した。あれらはカムイである。これはカムイとの宴なのである。

「すごいなあ、こんなに大きくて楽しいお祭りは初めてだ」

 物珍しくてあちこちを見て回る。やがて、さっきから流れている歌が、仕留めたヒグマに感謝を捧げて神の国へと送り返す、いわゆる「クマ送り」のものと似ていることに気付いた。これはアイヌにとっては誰もが楽しみな、盛大な催し物である。

 だが、曲が少し違う。こんな曲は聞いたことがない。そもそも、ヒグマのカムイはさっき父と酒を飲んでいたではないか。一体何をカムイの国へ「送る」のだろうか?山のように大きなヒグマだろうか?今はわからないが、この先へ行けばわかる気がした。

 その先に組まれた見たこともない大きな祭壇があった。これはすごいと感心して駆け寄り、見上げる。山のような贈り物に囲まれて笑っているのは竜馬であった。

「!!!」

 カピウは全身に鳥肌がたった。この祭は竜馬を神の国へと送るものだと確信した。

「いやだ!」

 駆けだそうとしても、足が重くて動けない。もがいている間に祭壇はどんどん高くなり、笑顔の竜馬はどんどん遠くなっていく。

「待って!行かないで!いやだ!リョーマ!」

 しかしその声は誰にも届かない。鉛のように重い足を引きずって前に進むが、笑顔で歌う参列者が邪魔で、まるで前に進めない。

「ああ……あああ!置いて行かないで!お願い!」

 竜馬は立ち上がると、こちらを見て僅かに微笑んだ。しかしすぐに空へと向き直ると、炎をまとって飛び立った。炎が尾を引いて天まで昇っていくと、その先には翼があった。空を覆いつくすほどの巨大な翼が、煌めきながら燃えている。かつて竜馬だった炎はその翼の中で煌めきの一つとなって溶け込むと、遥かな空へと姿を消した。


「うわあああああっ!」

 そこでカピウは飛び起きた。全身が冷や汗でぐっしょり、頬には涙が伝う感覚まで残っている。

「どうした?!」

 娘の絶叫に飛び起きたキムンコルがこちらを覗き込む。カピウが口を開こうとしたところで、地鳴りがコタンを揺らす。キムンコルの顔色が変わった。

「カピウ!外へ逃げるぞ!」

 祖母を担いで逃げ出す父、それに続いて転がるように家を飛び出すと、遠く見えるピㇼカムイ・ヌㇷ゚リが火を噴いていた。夜空が僅かに赤く焼ける様子は、地獄を眺めているようであった。

「噴火か……少し大きいな、何かあったら逃げられるように、荷物をまとめておけ」

 そう言い残してキムンコルはコタンの見回りに行った。立て続けに起こった出来事にカピウが呆然としていると、夜空の真ん中を、赤い流星が南へ向けて飛んでいくのが見えた。

「ああ……そうか……」

 あふれる涙を堪えられず、膝から崩れ落ちるカピウを祖母はそっと抱きしめた。アイヌにとって夢はカムイからの知らせなのだ。

 そうしてカピウは直感で理解した。ライピルカ・カムイが竜馬を神の国へと連れて行ったことを。


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