第三章 京都編その1 坂本竜馬と土方歳三
慶応三年の春、京都の片隅で市が立った。あちこちに立てられた幟にはでかでかと「東海道名物尽」と書かれている。東海道を通ってここまでやってきたあらゆるものが売られているのだ。
様々な品が並び人が行き交う間を、すいすいと歩く一人の男がいた。やや長い髪を後ろで一つに束ね、こましな御家人程度の恰好であるが、腰の刀だけはどう見ても安物ではなかった。その顔は白く役者のように端正であるが、どう見ても役者の作れる目つきではない。どれだけ混雑してもまるで足を止める様子がないのは、その目が道行く人の動きを瞬時に見切っているからだ。
(さあて、欲しいモンは買ったし、そろそろ帰るか)
懐の中身を指で撫ぜ、振り返る。目の前は偶然本屋であった。
「ほう、こんなモンもあるのか」
歴史書、絵物語、軍学書に料理本なんかまである。物好きはどこにでもいるもので、男はそれを物色すると、一冊の句集に手を伸ばした。
「!!!!!!!!」
と、少し離れた所から物凄い怒声と、屋台がひっくり返される騒ぎが巻き起こる。びっくりして手をひっこめた男が振り向く。やはりと言うべきかなんというか、浪人が商になにやら因縁をつけているようである。
(勘弁してくれ……)
心の中で嘆いた理由は二つ、怒声が薩摩弁だったこと。この時代の薩摩の人間は、導火線に火のついた爆弾のようなものである。事を構えれば誰かが死ぬ。もう一つは折角の非番が台無しにされたからだ。
新撰組副長、土方歳三。かつては京都の治安維持部隊をまとめる鬼として名を馳せたこの男も、貴重な非番に爆弾処理を押し付けられるのはしんどいらしい。下手に制止して、一触即発の薩摩との関係にとどめを刺してしまえば、京都は火の海だ。
「クソッたれ、つまんねえ奴になったな、俺も」
かつての土方は喧嘩屋であった。相手が何でも構わないし、自分が負けても死ななきゃいい。触れるもの全てに傷をつける茨のような男であった。そんな茨が、今は政治と治安ですっかり萎れてしまっている。それを自覚するのが情けなく、やるせない。
「ちぃっ」
見捨てられん。相手は五人、せめてこちらにもう一人いれば……いや、挑発して裏路地に誘いこめばどうにかなるだろうか。幸い屯所が近い、死体はバラバラにして屯所の豚に食わせてしまえば証拠も残らないだろう。萎れたハズの茨が胸中でめりめりと息を吹き返すのを感じ、声を張り上げようとした瞬間、銃声が響いた。
「やめえや!」
割り込んだのは、背の高い蓬髪の男であった。よく見れば随分と身なりが良いのだが、着方が少々荒っぽい。それに手にした拳銃は、ほとんど見たこともない最新式である。
間違いない、坂本竜馬だ。新撰組にとっても要注意人物である。
「おんしら何やりゆうがじゃ、ああ?天下を憂う振りしちょったら、なんでも許される思うちゅーがか?」既に怒髪天の気配があるが、銃口を空に向ける自制心は残っているらしい。手首の腕輪には、見慣れない模様のガラス玉が輝いている。
「!!!!」
浪士が怒鳴り返す。ただでさえややこしい薩摩弁だというのに、その上興奮して何を言っているのか全く分からないが……図星を突かれたのを誤魔化すためか、喚きながら殴りかかった。
なるほど聞いていた通り、かなりの腕前だ。殴りかかられてもひらりと身をかわし、小突いてすっ転ばしたりと上手い事いなしている。薩摩お得意の示現流も、最大の強みである乾坤一擲、確殺の一撃ならともかく、小競り合いならば練度次第でどうにかなる。
(聞いていたより、やるな)
土方も腕に覚えはあるが、それでも竜馬の腕前には舌を巻いた……道場での勝負なら分が悪いだろう。恐らく大きな道場で、基礎からみっちりと叩き込まれている。ごろつきの敵う相手ではない。
しかしまだ事は収まらない「この野郎……調子に乗りやがって」と数人が物陰から出てくるではないか。
「あらら、団体さんやったか?」流石の達人も分が多勢に無勢――と、目が合った。次の瞬間、坂本がこちらに向けて駆け寄って来るではないか。何だと思う間に彼はくるりと土方の背後に回り込み、
「よろしく」と一言。
「はぁ?ちょ……ああもう!」
しかし時すでに遅し。浪士は土方も敵と認識して殴りかかって来る。とっさに手近の幟を引き寄せて投げつける。一瞬怯んだ隙をついて踵を返し、土方はどたばたと路地裏へ駆け込む。
「待てッ……どこ行った?」
後を追って浪士が駆け込んでも、既にそこに土方の姿はない。
「上だ!」
その声に浪士がはっと頭上を見上げるが、そこからは路地裏の狭い空しか見えない。物陰に身を隠していた土方は、声で視線を誘導した隙に足元を駆け抜け、既に背後へ回っている。
「嘘だよ」
同時に放ったのは両足の裏を叩きつける渾身の跳び蹴り。追ってきた浪士をまとめて路地裏へ蹴り込むと、一目散にその場から姿を消した。
「全く……なんなんだアイツ」
少し離れた通りまで一気に駆け抜けて一息。懐かしい江戸の品が手に入るかと思ってここまで来たのに、とんだ非番になったものである。こんな目に巻き込まれるなら、屯所の廊下でも磨いてる方がマシではないか。
「あの野郎……今度見かけたらたたじゃおかねえからな」
「そりゃあ逃げられた側のセリフじゃ」
「うおっ!」
気が付くとがっしりと肩を組まれていた。
「いやぁ、お強い。身のこなしからしてそんな気はしておったが、面白い戦い方じゃな」
「うるせえ奴だな。この距離で出す声じゃねえだろそれ」
心の底からいやそうに顔を背ける土方、この暑苦しい男から逃げ出そうとするが、上背のある竜馬がかぶさるように肩を組むと、なかなか抜け出せない。目でも突いてやろうか。
「いやいや、助かったぜよ。思ったより苦戦して、どうなることかとヒヤヒヤじゃった」
「どうだか、拳銃持っといて」
「ああこれ?空砲じゃ」
竜馬が見せてきたのは予備の弾丸である。本来鉛玉があるべきところには、丸めた紙玉が詰め込まれていた。
本気で何なんだこの男。土方の認識では「国外から武器を密輸し、薩摩や長州に流す超危険人物」である。己の売った武器で日本が傾くかもしれないというのに、流れ弾を気にするのか。
「さ、行こうか」
「やめろ、どこへ連れていく気だ!」
にこやかな顔のままぐいぐい引っ張って行く先は、店が立ち並ぶ大通りだ。
「わはは、この坂本竜馬、命の恩人に『助かったぜよ』の一言で済ますようなしみったれじゃあないがじゃ。一杯奢っちゃる」
「いらん!俺は下戸だ!」
「いやいやいや、嘘言っちゃいかん。下戸は本屋の隣の饅頭屋を見逃さんし、たたみいわしなんか買わんじゃろ」
懐にある物を見抜かれ、土方は言葉に詰まった。この男、いつから見ていたのだろうか。
「あれは炙るとツマミにええからのぅ、おんしはどっかの藩の御家人か?大方普段は上役に気を使って下戸で通しとるんじゃろ?ほら、遠慮せず」
そう、土方は強くはないが全くの下戸ではない。対外的に下戸で通しているのは、完全に下戸である近藤に気を使ってのことであった。もしかしてこちらの正体に気付いているのか?なんなら気付かないままこれだけ見透かしてくる方が恐ろしい。
「遠慮じゃねえ、嫌だって言ってんだ。酒の匂いなんかさせて帰れるか!」
「そこの店は玉ネギの和え物美味いから、それ食えばええ、玉ネギの臭いで誤魔化せ!
大丈夫だから、何にもしないから、ね?休憩だけ?先っぽだけ、ね?ね?」
「まずその言い方をやめろ!お前本当になにするつもりなんだよ!?」
地面に食い込む勢いで踏ん張る土方であったが、竜馬は絶妙に力の入りにくい掴み方をしてくる。こうやって人を連れ込むのに慣れているのだろう。抵抗むなしく連れていかれた先は、気兼ねないがこぎれいな小料理屋であった。
「意外と……悪くないな」
「おう、来たぜよ。座敷空いてるかや?」
顔なじみらしい、女将や店主となにやら世間話をしている。まあいい、一杯飲めばこの男の気も済むだろう、もうこりごりだ、今日は帰ったら屯所に引き籠ろう。と決意を固めていたら、長椅子にかけていた客がこちらを振り向いた。黒髪と丸っこい目のせいか娘のような顔立ちでもあるが、上背は土方よりある。
「あれ?奇遇ですねぇ」
沖田総司であった。
(しまった、こいつも今日非番か。いま一番会いたくないヤツが出てきた)辟易する土方であるが、目ざとい竜馬がそれを見逃すはずがなかった。
「おお?知り合いがかい?」
「ええ。いやぁ珍しいですね……トシさんがこんな小洒落た店に来るの」
必死の目くばせを汲み取ったか、総司はギリギリで土方の名を伏せた。
「そうなんじゃ、ワシはついさっきトシさんに命を救われたとこでな、お礼に一杯奢るところじゃ」
「へえ!トシさんが人助け!しかも非番に!こりゃあ珍しい、明日は雪ですね」
「うるっせえ!ソージはメシ食ったんなら帰れよ!」
「ひどいなあ、まだ注文もしてないのに」
「おおそうかい、だったら丁度ええ、ソージ君にも奢っちゃるから、一緒にどうじゃ?」
「え?いいんですか?やったぁ。ほらほらトシさんあがってあがって、鯛ありますよ、旬ですよ」
沖田は竜馬以上に力の入れ方が上手い。引っ張る力がどういうわけか、骨ごと引っ張るような感覚で突き動かされる。着物が破れるまで抵抗しても振り解けないだろう。
「おっ、鯛ええのう!じゃがソージ君、ここは鴨も美味いぞ!」
「あ、いいですねぇ。悩むなあ」
「遠慮すな、若いんじゃろ?両方食え!」
「え?お大尽様じゃないですか、トシさんどこで知り合ったんですか?」
ぐいぐいと座敷に押し込まれてしまった。まったく、たたみいわしが欲しかっただけなのに、どうしてこんな目に遭わねばならんのだ。
「二度と非番には出かけん」
呟いたが、初対面とは思えないほどに打ち解ける竜馬と総司の耳には届かない。いや、こいつらなら聞こえてもここは無視する。土方は確信していた。
この奇妙な席を宴と呼んでいいのかはわからないが、土方はよく知らん人間と飲む席をあまり好まなかった。どこまで喋って良いものか分からず押し黙ってしまうのだ。下戸で通すのも相まってか、役者のような顔のこの男がそうしている威圧感は、土方にも疎外感を与える。だが『嫌い』ではなく『好まない』であるのは、こういう席で一気に打ち解ける連中が半分羨ましく、半分疎ましいからでもある。目の前の沖田や竜馬がその最たる例だ。
「いやぁ竜馬さん、ご馳走になるんだから、せめてお酌くらいさせてくださいよ」
沖田はこういうかわいげがあるせいか、人に好かれる。
「ありゃりゃ、こらどうも。ソージ君は若いのに気が利くのう」
「若く見えます?こう見えても二十四ですよ僕」
上背があり手足も長い沖田であるが、その割に肩幅が狭いせいか、座っているとかなり若く見える。貫録を気にするような性分でなかったのが救いである。
「おやおや、若く見えるのう……ついでに只者じゃなさそうじゃ」
「お。分かります?ってね……それに比べて見てくださいよ」
二人の視線の先には、鯛の塩焼きをつまみに手酌で飲んでいる土方がいた。
「……ンだよ、悪いか」
「珍しく仕事関係ない席なんだから、ちょっとくらいにこやかにしてもバチ当たりませんよ?それとも、もっと若い子にお酌してもらわないと気分が上がりませんか?」
「誤解を生む言い方をするな」
沖田がおちょくると竜馬が答えるようにカラカラ笑う。
「えいがよ、ワシが連れ込んだお礼の席じゃ。トシさんにも好きに飲んでもらうのが一番嬉しいがじゃ」
「ほォら、こう言ってんじゃねえか」
「でも隣に妓女がいたらちょっと笑うでしょ?」
「うるせえな。見たことあんのかお前は」
何度おちょくられてもそのたびに律儀に撃ち返す土方が面白いのか、竜馬は手を叩いて笑う。
「見たことなくても想像つきますよ。祇園でも堅物じゃあ妓女がかわいそうだ」
「ぶはは。あー、割と年が離れて見えるが、二人は仲間かや?」
「そうですね。一番古い間柄で言うなら、同門ですかね」
「羨ましいのう。ワシにはそこまで古く長いつきあいのモンはおらん」
「そうでしたか、僕らでよければいつでもお付き合いしますよ?とりあえず次は鱧でも食べに行きませんか?」
「気をつけろ竜馬、ソージはメシ目当てだ」
「あれ?バレました?」
そうして竜馬がまた笑う。傍からは実に盛り上がった宴会に見えるだろう。
ぶっきらぼうなこの男も、そうしているうちに口がこなれてきたのか、色々話しているうちに、二人には妙な共通点が浮かび上がってきた。両者共にあまり侍らしい生まれでもないし、母を労咳で亡くし姉に育てられている、剣の腕で身を立てようとしていたことも似ているし、同い年でもあった。
「変なとこ似てますね、顔は似てませんけど」
ころりと笑って銚子を持ち上げる沖田の腕を、がっしと土方がつかんだ。
「お前それ俺の酒じゃねえか。新しいの頼めばいいだろ」
「いやいや、トシさんが飲みすぎないように僕が飲んであげるんですよ?」
「こいつ、言わせておけば……」
さっきまでなら大笑いしていた竜馬であるが、今度ばかりは様子が違う。ふむ、と小さく頷くと、語りかけるような口調で切り出した。
「トシさん……剣の腕で、身は立ったがかい?」
「どうかな。役には立った、立ったが……」
総司から奪還した銚子からもう一杯飲むと、土方は少し遠い目をした。
「頭打ちかねぇ……」
近藤を大名に押し上げたい。土方はその野心を頼りに上洛し、新撰組を結成し、血を血で洗う戦場を血風を巻き上げて駆け抜けてきた。だが時流は今、明らかに新撰組に向いていない。薩長の台頭による幕府の影響力の衰退は著しく、新撰組は存続すら危うい状況であった。
元来血縁や士官のつながりもない、有志の武術家をまとめあげ、訓練し、治安維持部隊として成立した新撰組は歴史的に見れば世界でも異端の存在だ。それがこの時期には幕府の戦力の一部さえ担っていたという事実を鑑みれば異例中の異例、ウソのような成り上がりであるのだが……土方はそれを慰めにしなかった。
「不安かや?」
「そんなものに左右されてたまるか。そんなもんぶった斬ってきたんだ、これからもそうするさ」
「じゃあ、不満かや?」
虚勢を張った直後の隙につけ込まれ、つい土方は嘆息と一緒に本音をこぼした。
「ないと言えば……ウソかもな。俺はこの先、何と戦えばいいんだか、な」
この男が本質的に求めているのは敵だ。挑み、競い、斬り倒すべき、超えるべき敵だ。
しかし今、自分が何のために何と戦うのか、半ば見失っている。幕府や大名という概念自体に限界が見えかけている昨今、幕府支配下の治安維持部隊である新撰組を維持する為に足掻く自分は一体何なのだろうか。酒が随分回ったか、普段なら考えもしないようなこと、考えても口に出さないようなことが、溢れて止まらない。
「それを受け止めきれんようになったら、どうする?実家に帰るかや?日野じゃったか?」
「冗談じゃない、今更薬売りに精を出せるか」
しんみりとした土方の口調に沖田も目を伏せ、鯛の骨に残った身をつついていた。なにしろ彼らは運命共同体なのだ。沖田も今日の新撰組に満足しているわけではない。
けほんと一つ咳をして、沖田が土方の顔を覗き込んだ。
「でもそれで刀を置くほど、トシさんは素直じゃないですよね?」
「そうだな……そうだよなぁ。
そんなわけねえや、やろうと思えばどこだって喧嘩はできる。死なねえ限りは負けじゃねえ」
自問自答するように呟く土方に、竜馬は疑問を投げかけてやった。
「ほいたら、何と戦うがじゃ?」
「そうだな……異人相手なんか面白そうだよな。異人の武器には驚かされた。異国にはもっとえげつないのもあるだろう。いずれ空くらい跳ぶかもな」
「空か、こりゃあ敵わんのう」
額を叩いてみせる竜馬に、土方は薄く笑った。
「だが相手としては面白い。ついでに日本を守れれば気分もいい。ああ、仲間割れしねえ喧嘩ってのは、気が楽だな。暴れ甲斐がある」
土方が浮かべた自嘲気味な笑いを遮ったのは、ぺちんと膝を打つ竜馬であった。
「それじゃ。仲間割れしない喧嘩、ええのう。ワシはそれが聞きたかった」
グラバーに戦慄した夜から数年、竜馬は海援隊に名を改めた亀山社中の取引で日本中を飛び回っていたが、一人として「団結して国外と戦うべきだ」という発想に至った者はいなかった。誰も彼も諸外国から目を逸らし、国内でいがみ合っていた。それくらい、異質な発想なのだ。
怖いのだ。多くの日本人は異人をバケモノの類だと本当に思っている。だから考えないようにして、目の前の日本人と争うのだ。それが日本をより危険に晒すと気付かずに。
「気に入った!トシさん、おんしは今からワシの同志じゃ!」
「は?何言ってんだ、そもそもお前は――」
口を滑らしそうになった土方を、竜馬が手のひらで制した。
気付いている。竜馬は最初から二人の正体に気付いている。なんなら新撰組は、かつて同志だった土佐勤皇党の者を数えきれないほど斬っている。本来なら怨敵である。
それでもいいのだ、今は同志が嬉しい。過去に縛られては未来へ進めないではないか。
ただ、今の彼には立場があることも知っている。だから知らないふりを通した、これからも知らないふりを通すのだ。喋ってはいけないし、聞いてもいけない。いつかきっとくる、許し合える日の為に。同志を迎えるために飲む涙なら、竜馬は厭わないと決めた。
「ええ、そういう細かいことは気にせんでええ。自分で言うたじゃろ?『仲間割れしない喧嘩がしたい』って。ワシもじゃ、目先の思想なんてどうでもええんじゃ。ええか、ワシは――」
言いかけたところで、竜馬は口を噤んだ。ここで自分の思想を広めてしまっては、今対立している者たちと変わらないではないか。それでは駄目だ、既に闘志のある土方だ、折れることはあるまい。その闘志を持ったまま、自分と共に戦える日を迎えてもらわねばならない。
大丈夫だろうか?この京都で一番血なまぐさいこの男が、いつになるかわからないその日まで生きているだろうか?
「……これを見ちくれ」
懐から取り出したのは、かつてアイヌの村でもらった、小さな革袋である。
「なんだそりゃ、変わった模様だな」
「なんかたぷたぷしてますよ、中身はなんです?酒ですか?」
「火の鳥の血じゃ」
「はぁ?」
袋は革ひもで硬く締め付けられていたが、こじ開けるのは難しくなかった。なるほど中には赤黒い液体が満たされており、嗅ぎなれた鉄の臭いを僅かに漂わせている。
「ほんとだ……確かに血みたいですね」
「悪趣味なモン持ち歩いてやがるな」
興味津々にのぞき込む沖田に、げんなりする土方。
「蝦夷に住むアイヌ民族は知っちゅうか?火の鳥は彼らにとっては強大な神で、この血を飲むと不死身になれる伝説がある」
「不死身?」
「……バカバカしい。そんなもんがあるなら、今頃日本はアイヌの国になってるだろう」
酔っていても土方の頭は鈍っていないようだ。
「そうじゃな、実際効果があるかはワシも知らん。アイヌも『飲むと呪われる』と言っていた。強大な神にあやかってお守りとして持っているだけじゃった。実際ワシはこの通りピンピンしとる」
竜馬は厨房に声をかけて、空の瓢箪を一つ貰うと、それを器用に注ぐ。
「よし、ほれトシさん、半分やるぜよ」
「はぁ?要らねえよ!しかもこっちか?」
竜馬が投げて寄こしたのは、あろうことか口を閉めなおした革袋の方である。
「効果はともかく貰ったモンなんだろ?せめてこっちはお前が持てよ!」
「ええんじゃ。酒の匂いすら気にするトシさんが、瓢箪ぶら下げて帰ると思えん。どっかに捨てられたくないからの。
それにワシは、アイヌのお守りは二つある。こっちは分けられんからの」
と、手首に巻いた腕輪を見せつけた。色鮮やかなガラス製で、こちらも江戸や京都ではまず見かけない不思議な物であった。
「あははトシさん、こりゃあ相当気に入られましたね、同志ですって」
「不死身ねえ……いっそ実家にでも持ち込めば、万能薬にでもららねえもんかね」
この男のしつこさは承知しているつもりだ。土方は大人しく懐に仕舞い込んだ。返り血を浴び続けた彼らにとって、今更鳥の血くらいなんともないのだろう。
「折角のお守りじゃ、大事にしちくれ」
竜馬がからりと笑った。元々陽気な男であるが、今までよりも一層上機嫌であった。
夕暮れ時に二人と別れてから、竜馬は上機嫌で今日の街を歩いた。なにしろ初めての自分の同志に成り得る人材に出会ったのだ。
(なかなか手ごわいが……いずれ気付いてくれるじゃろう。それまで死んでくれるなよ)
と楽観している。沖田はどうだろうか、勘の良さそうな男であったし、いつか同志となってくれれば喜ばしいものだ。……だが、少し引っかかった。確かに、かなりの腕前なのだろう。間違いなくあの場で一番の使い手だった。しかし、以前話しに聞いたような、想像を絶する達人と言うほどの印象は受けなかった。話が大袈裟になっていたとも考えられるが……
「違うな、本来あんなもんじゃないハズじゃ」
あの肌の白さや体躯の細さ、そして、途中の咳払い。竜馬には聞き覚えがあった。幼いころ、母の部屋の前で何度か聞いたものによく似ていた。無論、医者でも何でもない竜馬が、初対面の人間を労咳だと言えるはずもない。だが、万一そうだとすれば――
「その日まで、持ってくれるかのう……」
そこで、手の中の瓢箪がちゃぽんと鳴った。そういえば、土方は「万能薬にならないか」とか言っていた。今までの誰よりも物騒な男がしたとは思えない、最も平和的な発想であった。そんな道もあったかと感心する竜馬に釘をさすように、手首のタマサイがちくりとした。永遠の命がもたらす破滅は、薬にしても付きまとうのだろうか?
「わかっちょる……使わんよ」
竜馬北の空へ向かって呟くと、夕闇迫る京の街へ姿を消した。