第二章 長崎編その2 押しかけて、勝邸
かつて竜馬は、その男の暗殺を企てていた。蝦夷を後にした竜馬は、かつての勤皇党の同志と奇跡的に再会し、そこで「幕臣に諸外国の手先となる一大武装勢力を計画する危険人物がいる」という事を知った。
勤皇党は某大名から秘密裏に支援を受け、紹介状を入手、田舎侍が本来会えるはずもない幕臣に、強引な接点をつけたのだ。
その下手人に選ばれたのが竜馬であった。江戸の地理に詳しく、北辰一刀流目録の実力もあり……そして何より、露見しても藩に迷惑が及ばぬ脱藩の身であるからだ。
竜馬は人を殺すことにためらいがあった。剣術自体が殺人術であるのだが、それをいざ振るうとなると、どうにも肝が据わらなかった。だから竜馬は標的の家を真昼間に正面から尋ねた。自分が殺しを背負うべきか否なのか、運を天に任せた。
今でも覚えている。通された部屋で、屋敷の主は来客に背を向けて書き物机に向かっていた。書類に埋もれたその背中を、座り方を、書き物をする体の使い方を見ればわかる。剣術の心得はあるが、自分よりははるかに弱い。やろうと思えば、このまま一突きにできる。北辰一刀流目録の経験は、どこをどう突けば悲鳴も上げずにこの男をあの世へ送れるか、一瞬で割り出した。
「……ん?」あわや刀を抜く瞬間、竜馬の鼻孔を香ばしい芳香がくすぐる。
「はは、いい匂いだろう?鼻いいなぁ兄ちゃん」
男が振り返る。年のころ四十、よく焼けた顔に力強い目玉の嵌った小男、アメリカ帰りの軍艦奉行並、勝海舟であった。
「おっ、かなりの使い手だな、羨ましい。俺ぁ剣術はからっきしでね。さあ、座んな、この匂いの正体、教えてやる」
からっと笑う海舟の口車に乗り、竜馬は腰を下ろした。どうやら匂いの元は、海舟の傍らにある火鉢にかけられた小鍋であるようだ。覗いてみると真っ黒である。竜馬の脳裏には、蝦夷で飲んだハッカの薬湯が蘇るが、それよりもずっと黒くて濃そうだ。
「……何かの薬湯ですか?」
「コーヒーってな、言ってみりゃアメリカの豆茶だ。これが眠気覚ましに効くんだよ……そろそろいいかな。どれ、兄ちゃんも一杯どうだ?珍しいだろ」
書類の山をどけて陶器の碗を二つ取り出した海舟。慣れた手つきで上澄みをするすると注ぎ、そのまましばらく置く。
「いい香りですが……飲まないので?」
「どうしても粉が混じるんでな、沈むのを待つんだ。この香りもいいだろ?さ、一旦これで飲んでみるか?熱くてやたら苦いから、少ぉしだぞ。苦いけど飲んだら絶対吐くなよ、畳につくと落ちねえから」
あまりに念を押すものだから、根が単純なこの男は言われた通り慎重に啜る。これは確かに苦い。焦げを食ったのとは違う、舌にまとわりつく苦さに目を白黒させていると海舟も笑いながら啜った。
「あちち。安心しな、毒じゃねえから。慣れるとこれがウマくなるらしいが、日本人にゃあ、まだ早いらしい」
と、火鉢の傍から小さな壺を手繰り寄せ、中身をそれぞれの碗に溶かし込む。砂糖であるようだ。
「――うん、やっぱりブラックは慣れねえや」
碗を差し出すと、勝は一口飲んでみせると頷いた。竜馬も続いて口をつけると……悪くない、甘さと苦さがいい具合に調和して香ばしい香りが鼻に抜けるではないか。
「少し粉が残りますが……美味い」
「だァろう?こいつを飲むと心は落ち着くのに目が覚めるからさァ、重宝してんだ。んで、どうだい?緊張が解けてくると……殺しなんかする気ぃ、なくなるだろ?」
「なっ……おわかりでしたか」
「わかるわバカヤロウ、門の前から殺気ふりまきやがって、ちびるかと思ったぜ。訛りでわかる。土佐だろ?あそこも大概強烈だからな。勤皇党か?」
「仰る通りです……私は……坂本竜馬と申します。今日は、あなたを殺しにここまで来ました」
「大胆なやつだよなァ、普通夜だろこういうの。面白すぎて部屋まで通しちまったよ」
殺意に気づいて招き入れるあたり、この男の肝も相当太い。
「そしたらこんな達人入って来るんだもの、通してから後悔したわ」
なんだこの軽妙な語り口は、本当に幕臣なのか?講談家じゃないのか?そんなときに脳裏で(この人は刀より張り扇と釈台の方が似合うちょるなぁ)と気づいたらもうおしまいだ、小さく吹き出してしまった。
「……もう、その気はなさそうだな」
「はい。私は……ワシは人を斬ったことがなかったき、迷うちょったがです。ほんじゃあきに賭けたのやです。これが日本のためになるなら、公明正大に暗殺できるはずだと。そうでないなら、どこかで必ず邪魔が入る」
緊張が解け、無意識に土佐訛りまで戻ってきた。それを感じ取ったのか、海舟は大きく息を吐いて乾いた笑いをこぼした。
「じゃあなにか、俺コーヒー淹れてなかったら今頃真っ二つか?」
「いえ、串刺しにしちょったがです。こう、少しずらし気味に肋の隙間を突くと、上手いこと心臓を―」
「やめろや!お前マジのマジじゃねえか、怖えよ!」
刀を構えるふりをする竜馬に震え上がる海舟。竜馬は自分のことを棚に上げて、この賑やかな男が面白いと思ったものだ。
色々話して分かってきた。流石は、アメリカを通して世界を見てきた男である。やはり、竜馬とは比べ物にならない知見の広さがある。結局海舟の思想も、最終的には国を守ることであった。西洋の技術を取り入れるべきだという見識の広さからくる意見が、異国の手先という頑迷な誤解を生んだのだろう。
ならばと、竜馬は桁違いの見識とついでに権力を持つこの男へ、火の鳥の存在と、不死身の志士構想をぶつけてみた。日本を守ることが最終目的であるなら、不死身の志士の考えに、きっと賛同してくれると思ったのだ。
「無理だ」
「即答かいな……もうちっくと考えてくれても、ええがじゃないですか?」
「いくら考えても変わらねえモンは変わらねえよ。そのアイヌの婆さんが言うことが本当かどうかは知らねえけどよ」
コーヒーを啜り、勝は砂糖を足した。
「しかし、銃も刀も効かんのであれば……」
「竜馬、不死身ってなぁ、どういう状態だい?」
「え?」
「死なねえだけだったらどうする?大砲でバラバラになった奴とか再生すんのか?それでも生きててみ、文字通り生き地獄だ」
不死身の実用性だなんて考えてもいなかった、一応は手にしている竜馬より、今話を聞いただけの、半信半疑である海舟の方が、不死身を実践的に考えているではないか。
「普通の人間より長く戦えるのはそりゃ結構、強力だよ。でもさ、腹は減らねえのかい?ヤットウや弾は湧いて出るのかい?泳いで軍艦にかじりついて、素手で沈められるってのか?結局、軍艦も大砲も必要だ、ほれ、大差ねえじゃねえか」
「確かに……」
海舟の突きつける現実問題に、竜馬は答えが出てこない。竜馬の方が、よっぽど不死身の志士構想を信じていなかったと言える。
「強い武器ってよはよ、それだけじゃ意味がねえんだ。戦で一番重要なのはよ、その後ろで兵糧や弾薬を運ぶ奴らなんだよ、方法や手配も含めてな。こいつらがいなきゃ、不死身の志士だって腹へらしてへたり込んじまう。軍は無限の金食い虫だからな」
「わ、ワシも多少なら金が」
と砂金を取り出してみせるが、勝は苦笑いだ。
「おいおい竜馬、熱くなるなよ。いくら分だ?四百四十両?そりゃすげえ、ああ結構な大金だ。だが戦で考えちゃはした金だ、銃買って終わりじゃねえか。
それで銃を三十丁買えたとしよう、かなり安いよな?それで異人の軍艦をかっぱらったら、そりゃあ大戦果だ。だが、その後は同じ軍艦に囲まれて火だるまよ。一国の戦略がその程度で変わるかい?逆だね、薩摩が似たようなことして酷い目にあったろ」
勝が引き合いに出したのは薩英戦争である。まだ人々の記憶に新しい武力衝突であったが、日本中が異国の軍事力の高さを端的に、骨の髄まで実感した大事件であった。
「ぐっ……!」
「それでも、仮に……そうだな、極限まで話を盛って、志士全員が不死身になって、攘夷ができたとしようや。ああ、万々歳だ。だが、不死身はそこじゃ終わらねえ、なんてったって不死身だからな。
言い出すだろうなァ『女房や子供も不死身にしてくれ』ってよ」
「え?」
竜馬は目を見開いた。この人は一体どこまで見えているのだろうか?
「不死身のやつ相手に断るにはよ、その大将も、軍監も奉行も将軍も、皆不死身になる必要があるよな?反乱起こされてもいいように。そしたら志士はどうする?多分、偉い連中の女房や子供を狙うぜ、人質だ。どうする?護衛つけたって無駄さ、護衛は不死身なのに、そいつには不死身じゃない女房子供がいるんだ。そうすると、志士の女房子供以外、全員不死身にならねえか?
そいつらを全員食わす米は、日本じゃ賄えねえよ。ああもう計算するのも面倒だ。終わらない戦だ……どうする竜馬?不死身の志士が日本を亡ぼしちまうぜ?不死身ってそんな都合よく解除できんのか?解除出来たら不死身って言わねえよな?」
深く考えずに突っ走ってきた竜馬には答えられない。項垂れて、頭を抱えてしまった。今思い返せば、涙すら堪えていた。
「ワシは大馬鹿野郎やった、夢を見て、それで全てが解決するつもりでおったがです…」
「そうだな、大馬鹿野郎だ。だが、そういう大馬鹿野郎、俺は嫌いじゃねえんだ」
項垂れる竜馬の肩に、海舟がポンと手を置く。小柄な割に分厚い手であった。
「……どういう意味やですか?」
首をひねる竜馬に、海舟はにやりとしてみせた。
「船と武器が要るって言ったよな?そっちは何とか俺が都合をつける。そうなると次に足りないのは、それをまともに扱える海軍よ。
俺ぁ今、海軍の操練所を計画してる。日本を諸外国から守るためにな。不死身なんて無茶言わねえで、こっちに手を貸さねえか?……海軍操練所実現の為に、俺の手足になれ。正直言うと武器と船の調達、そこそこ苦労してんだ」
勝が危険視された「諸外国の手先となる勢力」はこれの誤解であった。実際は「諸外国の技術を取り入れ、侵略と戦う海軍」であったのだ。それが判った瞬間、竜馬は天に運を感謝した。この人を殺さないでよかった。日本を亡ぼすところであった。
「……!!!」
「不満か?」
顔をのぞき込んでくる海舟に、むしろ竜馬は頭を下げた。
「滅相もない!喜んで手足に……いや、手足なんておこがましい、ワシは教えを乞う立場……弟子じゃ、弟子にしてください!」
昔から竜馬は勢いで喋るところがある。それで随分損もして来たが、海舟には刺さった。
「幕臣に弟子入りか、そりゃあ面白い。いいぜ、お前さんはたった今から俺の弟子だ!」
そうだなぇ……と海舟は少し考えてからにやりとした。
「その砂金、すぐには手をつけるな。お前はいずれ機を見て長崎へ行け、金相場は国外へ持ち出せば跳ね上がる。
そっから先は商売だ、そいつを元手に武器や船を買って、売って、その繰り返しでドンドン膨らませろ。自分でできなきゃ部下を雇え、そうすりゃ不死身の志士なんかよりよっぽど日本を救えるぞ」
この日の出会いがあったから、今の竜馬があると言っていい。残念ながら肝心の海軍操練所は飛び回った甲斐なくあっという間に閉鎖してしまったのだが……そのタイミングで、砂金から始めた交易が時流に乗った。
「竜馬……お前の性分だと、軍人より商人の方が向いてるかもな」
いつだったか、海舟に面と向かってそう言われたのは辛かったが、今思えば正しかったのだろう。カモメが飼い慣らせないように、規律と命令を重んじる海軍に収まるには、竜馬は自由過ぎた。そうしているうちにあれよあれよと亀山手中が膨れ上がり……こうして今日、グラバーに目をつけられる存在になったというわけだ。
「勝先生……ワシはどういたらええがじゃ」
星を見上げて竜馬は呟く。あの時は確かに勝海舟は日本を救う逸材だと思った。今もそれは変わっていない。しかし幕府が、幕府内の政治闘争がそれを許さず、海軍は実現しなかったかった。諸外国に狙われているというのに内輪もめとは、規模は違えど土佐も幕府も本質は変わらぬようだ。
「まさか……勝先生の質問に答えられるモンがおるとは……」
もちろん、先ほど竜馬がグラバーにぶつけた不死身の軍団への質問は、あの日勝からぶつけられ、答えられなかったことである。それをあんなに簡単に答えるとは……グラバー本人も恐ろしいのだが、それより恐るべきは、不死身の軍団を受け入れられるイギリスの国力、経済力である。そしてそのイギリスが警戒している多くの国々が、火の鳥を狙っているという事実だ。
海舟とグラバー、どちらが優れているとかいう単純な話ではない。勝は軍事・政治の視点が色濃く、グラバーは商売や投資に偏っている。どちらもその立場からすれば説得力があるし、背景としている国の条件が違うので単純比較は乱暴である。しかし、竜馬より知見が広いのは間違いないだろう。そう考えると、世界には頭の数だけ正義があるのだ。だというのに、守るべき日本は一つしかない。これは荒れるわけだ。
やはり船も武器も金も時間も足りない。これ以上どうすればいいのだ。これが、自分という男の限界なのだろうか。そう思うと苦々しい。認めたくはないが、限度がある。
「ん?」
そうだ、限度がある。だがそれは『竜馬と亀山社中の限度』ではないか。
「そうじゃ!ワシはなんで忘れちょったんじゃ!」
竜馬は長崎の坂道を全力で駆け上る、道が終わるまで一気に駆け上り、ばっと振り返る。そこには長崎港と、それを取り囲む多くの建物の明かりが見えた。
「長崎だけでもこんなに人がおるじゃないが!明かりの数だけ人がおる!土佐、江戸、蝦夷、ワシが知ってる町だけでもこれの何十倍もおるがじゃ!日本中には国が、町が、人がまだまだおる!
なんでワシは自分一人、仲間内でこの国を守ると思っとたんじゃ?!日本は、日本人みんなで守ればええ、当たり前のことじゃ!なぁんで気付かんかったんじゃ!
勝先生も言うちょった、ワシにできんことは人にやらせりゃええんじゃ!」
そうして竜馬は、夜空に輝く眩い星を指し、高らかに告げた。
「じゃが先生、一個だけ間違っちょる!必要なんは部下ではない、同志じゃ!アギでも先生でも、亀山社中でもない!ワシが信じ、ワシを信じてくれる、勤皇も佐幕も開国も攘夷も公武も、そんな枠組みはどうでもええ!ワシだけの同志は、そんなことには囚われん!見つけるんじゃ!!!」
亀山社中は味方ではあるが、味方であるがゆえに思想が固まっている。それでは駄目だ、既存の思想を飛び越え、日本人が、日本を守るために、自らの意志で戦う。そうでなければ、日本は欧米列強に食い物にされ、やがてすりつぶされる。
思想は掲げない。思想は容易く仲間を増やすが、同時に敵を作る。日本を守るという現実問題のためだけに集まらねばならない。誰かの導きを妄信するのではなく、団結しながらも、自ら進歩していく必要がある。
「どこじゃ!ワシの同志はどこにおるんじゃ?」
誰かの導きを妄信するのではなく、団結しながらも、自ら進歩していく同志が必要である。誰かの命令や、帰属集団の利益の為に戦う者は、いつか軋轢を生む。求めるのは、自らの意志で戦う者である。そんな連中が日本中から集まる場所と言えば……心当たりは一つであった。日本史上稀にみる、異常なほどの沸騰を見せる場所があるではないか。
「京都じゃ」
竜馬は決めた。京都へ向かう。