第二章 長崎編その1 招かれて、グラバー邸
蝦夷から少し時は経ち、慶応元年。竜馬は長崎にいた。
数は限られていたが江戸時代の間も外国と交易をしていたこの地は異文化の色が濃く、竜馬にとっては刺激的な街であった。
ここしばらく、竜馬はある人物の助言により思想が動いていた。かつては土佐勤皇党の過激な攘夷思想を鵜吞みにしていた竜馬であったが、果たして本当にそうなのかと、自分で考えるようになっていた。
この国は、自分が思っていたよりも一枚岩ではない。世界も、日本とそれ以外という単純な構図ではなかった。良くも悪くも、日本は国際情勢の中心にはいなかったのだ。
「ああ……海がきれいじゃ……」
長崎の町並みは坂が多いが美しい、特に海は土佐にも引けを取らない。しかし建物は比べ物にならないほど種類が多く、歩くだけで面白かった。運が良ければ異邦人も見かけるこの街は、好奇心の塊である竜馬にとって、まっすぐ歩くのも一苦労であった。
「あー、大手を振って歩けるのはありがたいのう」
既に脱藩は赦免されていた。故郷の親友のおかげであるのだが……もう何年も会っていない。正直、あまり良い噂は聞かないし、おそらく攘夷論自体に限界が来ている。だが、嘆いても、帰郷しても状況は何一つ変わらない。僅かな後ろめたさをかみ殺して、竜馬は前へ向くことを選んだのだ。逆に言えば、竜馬がいつか同志に切り捨てられる日が来たとしても、これを受け入れなければならないだろう。
不死身の志士が頓挫してから数年、日本を守るために何が必要か、考えた末にたどり着いた答えは「武器」と「船」であった。しかも強奪ではなく、真っ当に手に入れる必要がある。
「奪ったモンで国を守るとか、無理じゃ」汚いとかそういう精神論ではない。複雑化の一途をたどる近代兵器は、振り回せば最低限使える刀や槍と異なり、訓練や整備、弾薬や燃料の補給などの兵站が――平たく言えば後方補給――の重要性が跳ね上がる。奪ったものは手探りで習得せねばならない。かつてアイヌに手ほどきしたマスケット程度ならまだしも、軍艦や大砲になってくると、もはや一夜漬けの人間は役に立たない。だから専門家、最低限経験者と渡りをつけられるよう、真っ当に手に入れねばならないと気付いた。その二つを真っ当に手に入れるには、途方もない金と時間が必要である。
「蝦夷の砂金がなければ、足りんかった」
竜馬は、かつて蝦夷のシリマで入手した砂金を全て長崎での交易につぎ込んだ。この時代、金は装飾だけでなく、その耐腐食性から銃などにも一部使われていた。そのため、世界中で高い需要があった。そんなところに莫大な砂金を持ち込めばどうなることか。幼少期に母の実家である才谷屋で、手習いのように商売に触れてきた竜馬には絶好の好機であった。
「運が良かったのう」時流は竜馬に味方した。アイヌの砂金は莫大な金額に化けたのだ。
長崎における竜馬は、既に小汚い貧乏浪人ではない。後世で日本初の商社と言われた「亀山社中」の設立に関わり、アイヌの砂金を元金にその版図をみるみる広げていった。少し大げさかもしれないが、新進気鋭の実業家と呼んでいいだろう。
傍からは「景気がいい」「笑いが止まらない」とやっかまれたかもしれない。しかし竜馬にとってはまだまだ足りない。大邸宅も煌びやかな着物も望めば手に入ったが、そんなものにわき目をくれる余裕はなかった。彼が欲しい武器と船、その先にある日本は、新進気鋭の実業家程度では全く手の届かない代物だ。だからこそ、いつもいつも忙しく飛び回っていたのだ。
そんなわけで、あれから蝦夷には一度も行っていない。彼がかつて蝦夷にいたという証拠は、もはや小さな革袋と、手首に光るタマサイだけになってしまった。
「すまんのう……ちっとばぁ待っとくれ」
海風に舞うカモメを見かけては、遥か北の大地へ詫びる。その度に胸と手首がちくりと痛む。ため息をつくと胸元で革袋が揺れた。こちらも飲むわけにもいかず持て余していた。
「いかんな……ワシ、暇なとき何しとったかのう?」
泳ぐのをやめたら死ぬサメのような男であるが、サメそのものではない。流石に疲れて休みを取った。無意味に長崎を徘徊するのは久しぶりだ。土佐にいたら、酒盛りをしていただろうか、江戸にいたら道場で汗を流して寄席でも覗いたかもしれない。しかし、どちらも長崎で求めるのは無茶な話である。
「うーん……昼間だけ暇なのは窮屈じゃ……今日は酒も飲めんしなぁ」
そう、今日忙しいのは夕暮れからなのだ。絶対にしくじれない相手との会談の為に、体調を整えるべくこの日を空けたのだ。
「船でも眺めて暇をつぶすかの……」
夕暮れ時、竜馬が訪ねたのは長崎の一角、長崎港を見下ろす高台。青い瓦と白い壁や窓が印象的な洋館であった。
「オーウ!ナイストゥーミ―チュー!ミーがトーマス・グラバーデース」
赤じゅうたんが目に痛い洋風の客間に通さて待つこと暫く、屋敷の主が現れた。でかい、竜馬もかなり上背があるが、それより一回り大きいのは、西洋人にしても大きい部類だろう。後ろに撫でつけた髪、鋭い目つきに立派な鷲っ鼻の目立つ彼こそ、日本で最も高名なスコットランドの辣腕武器商人、トーマス・グラバーである。握手をするその手までデカい。
「ミスター・グラバー本日はお招きいただきまして恐れ入ります。せっかくなので、しっかりとご挨拶を」
竜馬が懐から手のひらサイズの紙片を取り出し、グラバーに向けて差し出す。それを見てグラバーは目を丸くした。
「オーウ!ワタシ、日本に来て六年になりマスが、日本人との名刺交換は初めてデース!」
この時代、厚紙を使ったカード型の名刺は、西洋人こそ使っていたが、日本人でこれを使っている者は極めて珍しかった。既に国外に目を向けていたこの男、西洋人に張り合って、こんなものを作っていたのだった。
この時代の最先端であろうグラバーの名刺すら白地に一行、
「Thomas Blake Glover , merchant」と名前と肩書、裏面にそれの日本語訳と中国語訳を載せただけのシンプルなものであったのに対し、竜馬の名刺は少々分厚い和紙ではあるが、名前の横には菊の花、裏面には花札の柄が描かれている。
「ワッツ?これはマサカ……アンビリーバボー!」
それだけではない、竜馬は空いたスペースがもったいないと思ったのか、
「亀山社中代表 斎藤弥九郎
/Representative of Kameyama Company: Saito Yakuro
交易商人/Merchant
海軍志士/Navy Patriot
北辰一刀流目録/Hokushin Ittoryu Master」などとありとあらゆる自分の肩書と資格を詰め込み、更にそこに英訳まで添えるという情報量であった。欲張りなこの男が、いずれ世界にまで出てやろうと、夢と希望と自己顕示欲を限界まで詰め込んだ、渾身の名刺である。
この男、長崎では『斎藤弥九郎』と名乗っていた。脱藩は許されているが、土佐の実家に迷惑をかけぬよう、用心のための偽名であった。こちらで通してる間は、土佐訛りも我慢している。
さて、この当時の世界水準をはるかに超えた名刺を見て、グラバーは心底衝撃を受けたようだった。目を見開き口を手で覆い、しばらく声が出なかった。
「こんなに工夫した名刺初めて見マーシタ……オーウ、北辰一刀流目録、達人デスね」
「江戸で修行しておりましたので、多少は腕に覚えがございます」
「スバラシイ……でも、いけまセーン。一番大事な情報が抜けてマース」
「おや?どこか英訳が間違っておりましたか?申し訳ない、辞書とにらめっこして訳したものでして、たはは」頭を掻く竜馬に対して、グラバーは首を左右に振る。
「イエイエ、英訳はあってマース。足りないのデース……せっかくなら、これも加えてはどうでショーカ?」
グラバーは部屋の片隅にある物書き台へ向かうと羽ペンを手に取って、何やら書き加えると、すいっと見せてきた。そこには大きく「Sakamoto Ryoma, Tosa Samurai」とあった。
「ウッ……!」
商人としての彼は斎藤弥九郎である。長崎では亀山社中の外で竜馬の名を、ましてや出身地まで知る者はゼロに近い筈だというのに。言葉に詰まる竜馬を見て、グラバーは一瞬だけ片頬を吊り上げた。
「ワタシもアナタもmerchant、腹を割って話しまセンカ?モチロン、ハラキリではありマセーン!HAHAHA!」
バカ笑いをしておどけて見せるグラバーだが、竜馬は内心ひやひや、冷や汗を我慢出来ているのか心配だ。本名どころか出身までバレているとは、途方もない情報収集力である。トーマス・グラバーを甘く見ていた。名刺で鼻を明かしてやろうと思ったら、とんでもない返しをぶち込まれた。既にここは商人の戦場なのだ。負けても死ねない分、ある意味刀で斬り合うよりも恐ろしく悍ましい。
グラバーの招待は、ある意味果たし状なのかもしれない。ここで負けていられるものか、竜馬がなんとかにやりと笑って「よっしゃ、こっからは竜馬じゃ。面白くなってきたのう」と嘯くと、グラバーも笑顔を見せる。油断はできない、おそらくこの男の笑顔は、抜刀に匹敵する戦闘態勢だ。
「さあ、ディナーの用意ができたみたいデース。洋食が口に合うかちょっと心配デスが、習うより慣れろとも言いマス、楽しんでくだサーイ!」
冗談ではない、これは戦いの火蓋が切って落とされる合図だ。だが竜馬はゆく、商人一人に怖気づく男に、日本の行く末を憂う資格はない。だが、
「あ、美味いのうこの白身の揚げ焼き、コクがすごいがじゃ」
「えぇ……この牛肉は血が出とるが生焼けじゃないがか?……むっ、ワサビとの相性がいいのう!」
「今まで飲んだ葡萄酒は渋くて酸っぱかったが……こいつはまろやかで香りが華やかじゃ、こんなに違うとは知らんかったぜよ!器も薄くて透明で―ふむ、口が触れる面積が少ないと、口当たりが軽くなる気がするのう」
それはそれで容赦なく洋食に舌鼓を打つのがこの男の性分というか、可愛げのあるところだ。野生動物すら生食するアイヌ料理を物怖じせずに平らげるこの男にとって、屋敷で振る舞われる西洋料理など躊躇う理由がない。ムニエルとローストビーフを絶賛しながら、パンどころか白米までおかわりまでする始末であった。そのくせスプーンやフォークを一丁前に使いこなすのだから、単なる田舎者とバカにできないのが、この男の妙な魅力である。流石というべきかグラバーも話しが上手い。ときに煽て、ときに煽てられ、腹の探り合いをしながらの会食は、傍目には賑やかで実に楽しそうであった。
「ところで、リョウマサン」
グラバーが雰囲気を変えて切り出したのは、食後の紅茶を嗜んでいるところだった。
「カメヤマ社中に、イエ、日本中を飛び回っているアナタに探して欲しい物がありマス」
「おお?何じゃろうか、亀山社中はなんでも仕入れて来るぜよ!」
穏やかな笑顔を浮かべるグラバーが「火の鳥デス」と言い放つものだから、竜馬は口から心臓が飛び出しそうになった。
「なんじゃ、そりゃ。焼き鳥とはどう違うが?」
「料理ではアリマセーン。燃える炎を纏った鳥、おそらくモンスターの一種デース」
「ふぅん、バケモノ探しがか。グラバーさんは商売だけではなく、ホラ……失礼、夢のある話しも好きなようじゃな」
妙な胸騒ぎがして、鼻で嗤うそぶりを見せて竜馬はシラを切る。アイヌの老人が語る伝説を、遠くイギリスの異邦人が知っているはずがない。
「夢ではありマセーン、千年以上前の中国の伝説デハ『東の海の向こうに火の鳥が住んでいて、それは人間を不死にする』と伝承が残っていマース。秦の始皇帝が求めていたのは有名ですが、鎌倉時代の元寇も、火の鳥を手に入れるのが目的の一つだったと言われていマス。
モチロン彼らは失敗していマスが、ホラ話で当時世界最大の国が三回も動いとは思えまセーン」
「とは言っても……千年以上前じゃろ?当時の国なら、占いとか、そういうので動いたりしそうではないがか?」
「そうデスね……アメリカが動かなければ、ワタシの故郷も信じなかったでしょうネ」
「へ?アメリカ?」
グラバーの口調は元からおかしかったが、そこに芝居がかった手振りが加わったせいか、竜馬はその話に引き込まれていった。
「十二年前、ペリーが浦賀に来ましたヨネ?あれの理由をご存じですカ?」
「それは知っとる、捕鯨船の補給基地が欲しかったんじゃろ?」
日本にとってはなんとも迷惑な話である。しかし、実にアメリカらしい、大規模で力強く、身勝手でわがままな理由でもある。
「ウソではありませんガ、それが全てではありマセーン。でも、まさかペリーも言えるわけがありまセンよね『人間を不死身にする鳥を探している』だナンテ!」
「!!!」
手を叩いて馬鹿笑いするグラバーであるが、竜馬は内心穏やかではない。間違いない、欧米諸国は火の鳥の存在を確信している。
「ワタシも探していマス。リョウマサン、知りませんカ?もし見つけてくれたら」
グラバーが手のひらを開いて見せた。
「ご、五百両かえ?こりゃあ気前がいいのう」
「ノウ、五万両デース」
「ごっ!……お、うおお……は、ははは」
ざっくり石高に換算すればおよそ十万石、中規模の藩―言ってみれば小国―の年間予算に匹敵する莫大な金額だ。流石の竜馬も椅子から滑り落ちそうになって、乾いた笑いを漏らす。
「これでもかなり安いのデスが、これ以上はグラバー商会傾いちゃいマース。」
笑い事ではない。五万両出して傾かないグラバー商会が恐ろしくなってきた。
「ほうか……しかし驚いたわい。西洋人も偉くなると永遠の命を求めるんじゃな、やっぱり同じ人間じゃ。アメリカ大統領もヴィクトリア女王も、火の鳥の血が飲みたいがか」
「ノォーウ、不死身にするのはアメリカ大統領でも、ヴィクトリア女王陛下でもありまセーン。軍隊デス、不死身の軍隊を作るのデース。火の鳥があれば南北戦争はひっくり返っていたでショウ」
「……本気がか?」
それは、かつて竜馬が画策していた不死身の志士の構想と同じ―だが、はるかに上をいく規模の―発想である。竜馬の構想は宙ぶらりんになってしまっているが、彼らはまだ諦めていない。竜馬と同じ壁にぶつかっても、彼らなら押し切れる、そんな予感があった。
「イエース、武器が同じなら不死身側が負けるはずがありまセーン。特にイギリスは今、目まぐるしい勢いで技術革新が進んでいマース。不死身の軍隊は、常に世界最新の武器を手にするのデース。これこそまさに鬼に金棒、大英帝国は世界の覇権を欲しいままにしマース」
「不死身でも、バラバラに吹っ飛んだらどうするがじゃ?戦えんぞ?」
「医術は常に進歩していまーす、死にさえしなければ、いずれ繋ぐことくらいできるでショウ!そもそも不死身に大砲が効くのか。それは試してみてからでも遅くありまセーン!
万が一ダメでも、普通の人間より長く戦えるなら、それで十分デース!」
事も無げに答える。この男には人間の話より、金勘定の話の方が効くだろうと、竜馬は質問を切り替えた。
「ぐ、軍隊は無限の金食い虫じゃ、どうやってそれを支える?」
これは、竜馬には答えの出せなかった疑問であった。しかしグラバーは、それを一笑に付した。
「アジア、アフリカ、北米の一部にカリブ海、オセアニアに中東……コレ、なんだと思いますカ?」
「……?わからん、おんしが見てきた国か?」
「ノォーウ。この全ての地域に、イギリスは植民地を持っていマース。大英帝国の旗の元では、一日中どこかの工場で武器が作られ、一年中どこかで作物が収穫されていマス。おわかりデスね?例えイギリス人が全員不死身になろうと、大英帝国とその植民地は、それを支える生産力があるのデース!」
スケールが違う、なにもかも。ここまで話しを詰め込まれると……人間はもう、情の話しかできなくなる。
「その不死身の軍隊で、何人を死なす気じゃ?」
「今も世界のどこかで人は死んでいマース。戦争よりも、病気で死ぬ人の方が圧倒的に多いデス。戦死は悲劇的で話が映えるので、皆さん印象に残るのデース。火の鳥が怪我や病気を治してくれるかはわかりませんが、患者が不死身になれば、治療を受けることができマース。減らせる悲劇の方が多いのデス!」
とここまで大見えを切ったところで、グラバーは少し俯いた。ふうと嘆息すると目を閉じ、首を左右に振ってみせる。
「大胆不敵で傍若無人な野蛮人に見えたでしょう?違いマース、こうしなければ大英帝国は危ないのです。大国はその分世界中から狙われています、宿敵フランス、アジアに進出するロシア帝国、アメリカは太平洋を狙っていマース。清の一部やインド、アフリカは一見イギリスが支配しているようですが、現地民が常に反乱のチャンスを狙っています。
万が一彼らに火の鳥が奪われれば、更に大きな戦争が起きるのデース。火の鳥は大英帝国が手に入れ、同盟国である日本と共に慎重に扱う。これが最も世界平和の為になりマース。
もしもアナタが火の鳥を見つけてくれれバ……私は、インドからもう五万両引っ張ってきマース。世界平和のためならバ、五万両なんて安いのデース」
竜馬はしばらく言葉が出なかった。腕組みをして椅子にふんぞり返り、しばらく天井を見つめていたが、やがて、一つの違和感に思い当たった。
「グラバーさん……どこまで本気じゃ?」
「ん?どういう意味デスか?」
「おんしはワシよりずっと格上のマーチャントじゃ、場数も、動かせる金額も桁が違う。だからわかるんじゃ、おんしのいう世界平和は、全くグラバー商会の商売につながらん。おんしは多分気前のいい男じゃ、五万両も、さらに追加の五万両もウソじゃなかろう。じゃが、その先にでっかい商売話が転がってない限り、あんたはそんな事絶対せんじゃろ。十万両出せるなら、少なくとも二十万両、なんなら百万両は儲ける算段が見えてるはずじゃ」
竜馬の言葉を聞いたグラバーは目を見開いた。
「スバラシイ、リョウマサン。日本人の侍で、こんなにビジネスを理解している人間はいないでショウ……私のエージェントになりませんか?今の十倍の給金をお約束しマース」
「魅力的な話じゃが、今は遠慮したいのう。
おんしが……そう、おんしが用があるのは、不死身の軍隊がばら撒く無限の砲弾と銃弾、それと湯水のごとく使われる医薬品と食料ではないがか?不死身の軍隊は、ワシらマーチャントにとっては……無限のビジネスチャンスじゃ」
戦争は儲かる。それは竜馬が亀山社中で気付いた真理の一つであった。
グラバーはしばらく言葉を失っていた、しかし、その顔には笑みが残っている。やがて彼は紅茶を飲み干すと、拍手をしてみせた。ゆっくりと丁寧に。
「アンビリーバボー、おみそれしましたリョウマサン。本当にスカウトしたい、代理人などではつまらない、私と一緒に世界でビジネスをしまショウ」
身を乗り出してそう言ってくる。その目は本気である。
「お言葉だけありがたく頂戴するがじゃ。いずれ」
頑なな竜馬にグラバーは肩をすくめた。
「頑固な人デース……では、その日が来るのを待ちつつ、直近の案件の話に戻しまショウ。火の鳥の話、受けてもらえますカ?」
「さあのう……三十年以上日本人をやっちょるが、そんな話は聞いたことがない。中国の鳳凰とごっちゃになっとらんか?そんなもんがあるなら、日本人は不死身だらけじゃろ」
グラバーが英国自慢をしている間に、なんとか冷静さを取り戻した竜馬は、極々自然にシラを切った。今なら母親にだって見破られない自信があった。
しかし、グラバーは大きくため息をつくと項垂れてみせたではないか。
「リョウマサン……あなたはひどい人デース。せっかく私がこうして、一人の尊敬できるmerchantとして話しているというのに……ウソをついてマース。絶対に何か知ってマース」
「どういう意味じゃ?」
カマをかけているのだろうか?それにしては露骨過ぎる。果たして何が、と思っていると、グラバーは薄く笑ってみせた。
「ワタシ、火の鳥が不死身にしてくれるとは言いまシタが、火の鳥の『血を飲む』なんて一言も言ってませんヨ?どうして知ってたんデスか?」
「……ッ!!!」
しまった、どこかで口を滑らせていたらしい。なんてことだ、今まで泳がされていたのか。
「それは……そう、すっぽんじゃ。昨日長崎名物のすっぽんを食べて、生き血の酒割りを飲んだから、それに引っ張られておったがじゃ!グラバーさん食べたことあるがか?あれスゴいぞ、まだワシ効き目が残っとる、見るがか?」
とんでもなく強引に話題を切り替え、袴を脱ぐフリをしてみせた。グラバーは一瞬面食らったような顔をしていたが、すぐに天井を仰ぐほど爆笑した。
「ノォォーウ!やめてクダサーイ!見たくありまセーン!
ンー……なるほど、そうでしたカ、そういう事にしておきましょうカ。そうそうスッポン、あれ美味しいですよネ、初めて見たときは亀を食べるなんて気持ち悪いと思ってまシタが、食べてみてびっくりしマーシタ、生き血割りも飲みマシタが、その晩眠れなかったデース!」
「そうじゃろそうじゃろ!」
「アノ港通りの端っこの汚い店知ってマスか?あの店スゴク美味しいんデースよ!今度ご馳走しマース。シメの雑炊が絶品デース!」
「本当がかい?それは楽しみじゃのう!」
それからは両者、火の鳥の話なんて忘れたかのように世界中の食べ物や絶景、商売話に興じていた。グラバーの話は、聞くだけで世界の事情が洪水のように頭に流れ込んでくる。これだけでも十分すぎる収穫だと、竜馬は喜びながらも、この男の底知れなさを感じていた。
「オーウ、今日はお越しいただいて本当にヨカッタ……では、今日の記念に、ワタシからプレゼントデース」
その言葉に使用人が丁重に箱を持ってきた。中に横たわるのは漆黒の鋳鉄で作られた、奇妙な「へ」の字の塊である。柄には滑り止めの木製グリップが施されている。例え異国の技術であろうと一目でわかる。武器だ、人を殺すための殺意の結晶である。
「拳銃!」
竜馬は息をのんだ。商売柄何度か見たことはあったが、実際手にするのは初めてである。
「こっちは……まさか弾か?」
「そうデース、一緒にどうゾ!」
小さな金属の筒――薬莢が竜馬を驚かせた。アメリカで生まれた大発明である。
従来の拳銃は『弾丸』『火薬』『雷管』を分けて装填していたため、装填に非常に時間がかかった。それを全て金属のケースに詰め込んで一つにしたのが薬莢である。これが格段に素早い装填を可能にした。それを蓮根型の弾倉に詰めることで六連射を可能にしたのがこの拳銃、まだ世界的にも普及していなかった。
かつてアイヌに売ったマスケットも高価だったが、これはそれ以上に希少な品である。日本に流れてきたものなど、数えるほどだろう。
「私からのキモチです。リョウマサンなら、これを差し上げても惜しくはアリマセーン」
グラバーの笑顔は、同志へ向けるそれのように見えた。
「わかって頂けると思いますが、これはあなたへの投資デース。あなたとなら、もっとビジネスを大きくできる。そう確信しているから差し上げるのデース。必ず世界へ行きまショウ」
その言葉は、竜馬の心に熱いものを満たした。グラバーは確かに底知れぬ恐ろしい商人である。しかしそれ以上に魅力的な紳士でもあるようだ。
「わかった。グラバーさん、約束じゃ」
最後に交わした握手は、最初のそれよりもずっと熱く、ずっと力強かった。
長崎の夜風は涼しく心地よい。亀山社中への帰り道、竜馬は夜空を見上げながらグラバーを思い返していた。
「負けた……なんじゃあの情報力……商人としても、発想の過激さも、それを支える仕組みも……悉く上をいかれたがじゃ、たはは」
だが、その顔は晴れやかである。打ちのめされてはいても、屈辱ではない。こんな身近であれだけの広く長い視点を持つ人間と交流し、あまつさえ自分を気に入ってもらえた。これは大きな収穫である。
しかし、恐ろしいのはグラバーだけではない。自分とアイヌしか知らないと思っていた火の鳥の存在を欧米列強が知っている、それどころか確信し軍事転用まで目論んでいるとは夢にも思わなかった。
「しくじったのう……ついつい口が滑って、血を飲むと言うてしもうた」
最大の失敗である。あれがなければシラを切り通せただろう。もっとも、拳銃はもらえなかったかもしれないが。
「勘づくじゃろうか……蝦夷に」
蝦夷の話はしていない。しかし、グラバーは自分が何かを知っていると確信したフシがある。ならば彼は自分が『出所のわからない謎の砂金』を長崎に持ち込み、それを元手に商売を広げたことを突き止めるのは容易いだろう。大量の砂金と聞けば、あるいは佐渡と勘違いするだろうか。しかし佐渡金山は天領の中でも超重要な地域だ、竜馬の足取りがないことはすぐわかる。蝦夷へ飛んでアイヌを避難させるべきか?異人に火の鳥のことを言うなと口止めすべきか?いいや、そんなことをするくらいなら、グラバーに革袋を差し出した方がアイヌの被害は少ないだろう。
グラバーをわざとあの山へ連れ込み、カムイの毒で死なせるのはどうだろうか?いいや、彼は根っからの商人、自分で獲るのではなく誰かを派遣し、買い取る。竜馬にさせようとしたのがそれだ。
ついさっき同じ野望を抱き、固い握手を交わした男の口封じを考えている自分に、背筋がうすら寒くなった。これほど自分が冷酷であったとは知らなかった。だが、そうせねばあのコタンにグラバーの手の者が押し寄せる。いいや、恐ろしいのはそれだけではない。とにかく勢いでゴリ押すアメリカや、物理的に近いロシア、そもそも火の鳥の存在を知っていた清国は、既に嗅ぎ付けていてもおかしくない。これでは、いずれ蝦夷が未曽有の大戦場になる。それだけは避けねばならない。
「どうすればええ……一体どうすれば……」
何が必要なのかはとっくに知っている『武器』と『船』である。情報が洩れている以上、物理的に守るしかない。蝦夷だけではだめだ、蝦夷が悪目立ちしないように、日本全土をもれなく守らねばならない。
「足りん……金も時間も、全く、全く、毛ほども足りんがじゃ」
ついには頭を抱え込み、道端に座り込んでしまった。こんな時、あの男であれば竜馬を導いてくれたろうか。